茶屋二郎 遠く永い夢 下  −関ヶ原 戦勢逆転の真実− 目 次(下)  転の巻   大返し   退 却   慟 哭   安土の天子   恐 怖   乾坤一擲   決 戦   天下分け目   逃 亡   落 城  結の巻   楢 柴   暗 雲   序 盤   会津出陣   評 定   伊勢物語   堪 忍   伏見攻め   中 盤   焦 燥   転 回   陣 定   安濃津   出 陣   謀 略   油 断   杭瀬川   関ヶ原へ   会 戦   裏切り   勝 鬨   策 謀  あとがき  転の巻   大返し  どの人間にとっても、正に夢にも考えなかった天下の一大事が起きた。そして、それは現実として京の町を支配していた。いまや明智光秀は天下の覇者であり、不死身と思われた織田信長、信忠親子をいとも簡単に討ち取ったのである。そして奇妙なことに、明智軍団の前に敵は皆無であった。  光秀は本能寺と二条城の炎の競演が終わった頃、信長親子の遺体探しと落武者狩りを全軍の武将たちに命じた。万が一、二人が火炎の中から脱出しているかもしれないと案じたからである。それは明智の各武将とも同じ思いであった。  織田の残党狩りは峻烈を極めた。明智の兵たちは思い思いに片っ端から近くの民家、寺に押し入り探索と略奪を始めた。抵抗した町人はすべて、殺気だった明智の兵に斬り殺された。特に寄手大将の明智光忠が鉄砲玉を右腕に受け負傷しただけに、光忠の家来たちの残虐さは殊更であった。  町の通りには、切られた遺体と首があたり一面に散らばった。織田の一門の侍は一様に切り刻まれ、首はすべて取られた。多くの京の町人にとっては地獄の再来であった。  光秀自身がいま起きている現実を、すべてがあらかた終わった昼頃になってもまだ信じられなかった。信長親子は忽然とこの地上から消えた。勿論、骨も見つからなかった。  本能寺の焼け跡の中を、信長と親しかった阿弥陀寺の清玉《せいぎょく》と二十名ほどの僧侶が懸命に遺骨を探していた。しかし京の町は戦など知らぬように、明るく晴れあがり快適な天気であった。光秀は安土城に行こうと思った。安土城をこの手にしない限り、この戦はまだ終ったとは思えないと感じたからである。  光秀は、溝尾庄兵衛と藤田伝五を呼んだ。大坂付近にいる織田信孝と丹羽長秀の軍勢に対する押えとして、庄兵衛を勝龍寺城に送るためである。そして、伝五を大和郡山城の筒井順慶の許に使者として送ろうと思った。それから一陣の明智左馬助と斎藤利三には先鋒として、すぐに安土城に進撃することを命じた。  未《ひつじ》の刻、光秀は京に居残った全軍を集めた。そして勝ちどきを挙げさせた。光忠が、安土城への進軍を意気揚々と発令した。黒煙まだ煙る本能寺と二条城を後に、光秀軍団は馬を瀬田の橋に向けようとした。  そこに吉田兼和が御所から走ってきて、光秀の馬の鐙《あぶみ》に転ぶようにしてしがみついた。 「光秀、でかした。御所に祗候《しこう》せい。親王がお待ちだ」 「まだ戦は始まったばかりだ。これから安土城を攻める。いずれ御所には一段落してから参ると、お伝えしてくれ」  光秀はそう言うなり、馬を走らせた。琵琶湖の膳所《ぜぜ》城の見える場所まで近づくと、瀬田の橋の方面から袰武者が二騎駆けて寄ってくるのが見えた。光秀は一瞬、不安に見まがえた。  しかし膳所の城には明智の旗差物が翻っており、城主である山岡景友はすでに逃げ去ったようであった。琵琶湖の岸辺には小船一艘も見えなかった。  袰武者は、瀬田の大橋が勢多城主の山岡景隆の手勢によって焼き落とされたことを告げた。景隆は景友の兄であった。先発隊が必死に橋を新しく架け直している、とのことであった。  光秀は爪を強く噛んだ。韋手袋の匂いに自分を少し取り戻した。あの山岡兄弟が自分にかくも早く敵対するとは、夢にも思わなかった。しかし、考えている暇はなかった。  左馬助を呼ぶと、明智軍の全力を挙げて明朝までに橋を架けることを厳命した。そして仕方なく瀬田の橋も見ずに、坂本城に本軍を移動させることにした。光秀にとって長い一日であった。とても夜を通して、この場所で待つ意欲はもうなかった。最大の目的を達したにもかかわらず、気持ちはまるで敗軍の将のように浮かなかった。  その時、大坂城にいる娘婿の津田|信澄《のぶずみ》のことを思いだした。いまは敵となった神戸信孝と一緒にいる。父と兄が明智によって弑逆されたと信孝が知れば、ただでは済まないはずであった。  大坂にも兵を送ろうと一瞬考えたが、兵の余力がなくなる不安を感じた。信孝は、少なくとも五千以上の兵数を持っているはずであった。  六月二日の日が昇ろうとしていた。平太夫と伊賀者の下忍《げにん》は西に向かって走っていた。まもなく神戸の海が見えてくる所で、平太夫は松の木の根元に腰をかけてしまった。  備中は前に村重と通った道だけに、その距離はよく知っていた。しかし、今度ばかりは備中は遥かなたに思えた。身体がついていかなかった。  連れの伊賀者が日に焼けた黒い顔から白い歯を見せて、平太夫に話かけてきた。頬に刀傷が深く刻まれていた。京を出てから、伊賀者の下忍が話かけたのは初めてであった。 「平太夫とやら、いまから休んでいては先が思いやられる。三日で駆け抜けるといったのは、誰かな」 「ことのほか体がついていかぬ。おぬし、わしより一足先に備中へ行ってくれぬか。おぬし一人なら明日中に高松まで着くだろう。わしはここで、半蔵殿が遣わすだろう追手を待つことにするわ。信長が本当に殺されたかどうか知ってから、追いかけても罰はあたらぬだろう」  やせて小柄な伊賀の下忍は答えずに、その場をだまって立ち去った。  下忍がうまく備中に着けば、明日の深夜には黒田官兵衛は誰よりも早く京の都で起きたことを知ることになるだろう。これでとりあえずは村重への義理を返すことができる、と平太夫は思った。  今きた道を振り返った。まだ朝が早いせいか、人影は見えなかった。別の下忍が気がつくような松の木陰の場所を探し、仮眠をとることにした。  何気なくあけた目の中に、鹿毛の馬の優しげな眼と、その面長な馬面の背後に黒い忍者装束を着た精悍そうな一人の中年の男が立っているのが見えた。 「平太夫殿か。頭領が、この馬をそなたに遣わした。今ごろは神戸あたりで寝ころんでいるだろう、とおっしゃてな。早く馬に乗りなされ。京の都では信長親子が明智光秀に殺されて、大騒ぎじゃ」 「やはり、殺されたか」  平太夫は急に思いついたように立ち上がり、馬のたてがみを掴むと背に飛び乗った。一刻も早く高松に行かねばならないと思った。何かわからないが、血が久し振りに大きく騒いでいた。  六月三日の日が終わろうとしていた。備中高松の石井山で黒田官兵衛は、あと数日でなくなる薄い月を眺めていた。しかし、黒い雲が風に流れて月をさえぎり見えなくなった。天候は急速に変わろうとしていた。しばらく闇夜が続くだろうと観念した。虫の音もなく、奇妙に静かな深夜であった。  その時、静寂な空間を破って、押し殺した声が官兵衛の背後から聞こえてきた。 「黒田官兵衛殿とお見受けする。至急の密書をお届けにまいった」  驚いて振り向いた。闇にまぎれた黒い影から白い細長い書状が目の前に突き出だされていた。何も言わずにその書状を手に取ると、急いで手燭の蝋燭に近づけた。宛名も差出人もなかった。表書きを破いた。 [#ここから2字下げ] 惟任光秀、六月二日早朝信長を弑逆せんとす [#ここで字下げ終わり]  目に飛び込んだ短く太い弑逆という墨字を、いつまでも見ていた。顔を上げると、そこにはもはや誰もいなかった。しかし、書状は間違いなく手の中に強く握られていた。  官兵衛は与助を呼んだ。暗闇に一つの灯りが近づいてくる。与助の持つ松明の火であった。 「与助、これから惠瓊の所に参る。馬を引け」  官兵衛は、一時も早く惠瓊に会いたかった。一時が千金に値する。  京に秀吉軍が帰ることができなければ、すべてが瓦解する。秀吉はもちろん、自分にとっても人生が崩壊することになる。しかし万に一つ、毛利を口説くことができれば、天下に黒田官兵衛ありと誇ることができる。  暗い夜道を与助に手綱を引いてもらい、妙法寺に駆けつけた。幸い、どの家の将兵にも会わなかった。時刻は丑三つを過ぎており、皆寝静まっているころであった。妙法寺の表門をしばらく叩くと、いつもの小坊主が眠そうな顔を出した。 「惠瓊はいるか」と聞くなり小坊主が止めるのもかまわず、そのまま勝手知ったる寝所の庫裡《くり》に向かって庭を歩き始めた。官兵衛は庫裡の外から大声で怒鳴った。 「惠瓊、一大事だ、起きろ」  その声でしばらくして灯が室内に灯され、大柄な身体を白衣の寝巻きに包んだ惠瓊が広縁に出てきた。 「官兵衛殿か、この夜分になにごとか」 「やはり都で謀反が起きたようだ」 「して相手は」 「光秀だ」 「信長は」  官兵衛は答えなかった。  二人はそのまま沈黙した。消えていた虫の音がまた鳴き始めた。 「この官兵衛、命にかえて退却を秀吉殿に進言申しあげる。何とぞ、毛利三家の兵もお引かせくだされ。殿が明智を討ったあとは、中国の本領安堵はお約束申しあげる」 「しかし、そなたの口上だけでは信用はできぬ。至急、秀吉殿の誓紙を頂きたい」 「相わかった。明日、いや本日中にはお届けしよう」  官兵衛は、空が白んでいるのを話ながら気がついた。もう、三日ではない、すでに、六月四日の陽が昇ろうとしていた。  二人はお互いにうなずくと、官兵衛は石井山の秀吉の本陣へ、惠瓊は日差山の小早川隆景の本陣へ急いだ。  空が明るくなるにつれ、また雨が強く降り始めてきた。足は歩くたびにすべるか、泥にぬかるんだ。これで退却中に毛利勢に追われたら、とても支えられないと直感した。どうしても、和議を結ばねばならない。いまは輝元の暗愚さを、心から官兵衛は望んでいた。  石井山の本陣で秀吉は数人の幕僚と共に床几に座って、土間の上で朝飯を食べているところであった。秀吉は陣幕をまくった官兵衛を見るなり、気軽に声をかけた。 「おう、官兵衛。朝粥でも食べんか」 「殿、残念ながら食べている暇はなくなったようですぞ」  秀吉はその言葉に、箸の動きを止めた。 「人払いをせよ」  秀吉は椀と箸を膳の上に置くと、奥の居間に入った。  官兵衛は板戸を閉めると、荒れた板間の上に足を横に伸ばして座った。軽く一礼して、秀吉にゆっくりと話はじめた。 「殿、お気を確かにこの書状をお読みください」  官兵衛が懐から差し出した密書を、秀吉は一気に読んだ。苦悶の顔を一瞬見せたあと、熱くなった目頭を上を向いてこらえているようであった。 「それがし独断でこの早朝、惠瓊と和議につき話合った所、毛利側は高松城を含む本領安堵の誓書を頂きたいとのことです」 「わしが誓書を書けば、毛利は兵を引くというのか」 「いかにも、ご明察の通り。ここは一日も早く兵を引き、姫路へ帰ることが肝要かと」 「うむ、誓書を書こう。筆をもて」  その時、板戸の向こうに小姓の声が聞こえた。 「官兵衛殿、平太夫という者が荒木村重さまの代理と申して、火急な書状を持って参りましたが、いかがいたしますか」 「荒木村重とは」  秀吉はなつかしい名前を聞いて、仔細を官兵衛に聞いた。 「この書状は荒木殿が私めに届けて参ったようで、多分この書付けの続きが届いたものと思われます」 「すぐ、その者をここへ通せ」  秀吉がかん高い声をあげた。  丸三日間も馬を乗り継いで備中高松に着いた平太夫は、話もできないほど疲労困憊していた。何度馬に乗ったのか、どこをどう走ったかもよく覚えていなかった。倒れるように秀吉の前にしてはいつくばると、服部半蔵がくれた油紙に厚く包まれた密書をそのまま差し出した。  官兵衛が油紙をほどき、白い上書きの封書をそのまま秀吉に渡した。  秀吉は急いで封を開くと、目を皿のようにして紙面を見つめ続けた。手紙を持つ手が震え、皺になるのも構わずに拳をそのまま握りしめた。いまは、秀吉は人目も構わずに泣いていた。顔を真っ赤にして泣いていた。一点を見つめたまま、書状を官兵衛の方に投げた。  官兵衛は、皺くちゃになった書状を拾い読み始めた。書状の中の文字は、夢にも思わなかった内容であった。信長公のみならず信忠様までがあっけなく憤死するとは、世のはかなさ、無情さに絶句するのみであった。  秀吉は、まだ声をあげて泣いていた。 「殿、お気をたしかに。ここが正念場でござるぞ」  官兵衛のきつい声で、秀吉は目を覚ました。 「うむ、官兵衛、主だった者を呼べ。軍議をおこなう。この者に金子を与え介抱させよ」  泣いた秀吉もいまはすべてを吹っ切って、精悍な織田家の侍大将の顔に戻っていた。  官兵衛は満足気に立ち上がった。平太夫は板の間にうつぶせたまま相変わらず顔もあげようとしていなかった。  小早川隆景と惠瓊は、日差山の本陣で同じく向き合っていた。隆景の日焼けした顔は暗く、深刻であった。和するか戦うか、毛利家百年の大計の岐路であった。しかし毛利三家の総意を問う前に、まず高松城主清水宗治の胸の内を聞かなければならなかった。 「惠瓊、宗治はおとなしく従うかな」 「左様、聞かさざるを得ないでしょう」 「うむ、それではご苦労だが、高松城まで行ってくれぬか」 「それでは早速」  二人の話はまるで禅問答のようであった。しかし、二人の気持ちは自然と和議で固まっていた。秀吉を討っても、宗主の毛利輝元が天下を取る気持ちがない限り戦は意味がない。二人共、輝元にその器量がないことをよく知っていた。  眠気を追い払うように雨粒が頬にあたって、惠瓊には気持ちよかった。蓑傘を頭にかぶり、雨に煙る高松城を目指した。十数人の護衛の兵が惠瓊に従った。皆、背中に小早川家の差物をさしている。  惠瓊は高松城に近づいて、あらためて驚いた。城のまわりは、一里四方かと思われるほどの湖水に囲まれていたからである。供の侍大将らしき者が、城に渡る湖岸に案内した。  そこには、城へ行き来する小舟が数隻岸につながれていた。惠瓊はその一番大きな船に乗った。三隻の船が櫓を漕いで静かな湖水を渡り、高松城の大手門に向かった。  泥水は大手門の土台を一尺ほど越えていた。門はそのためか開かれたままであった。惠瓊は足を水につけながら、城の中に入った。衣のすそが水に沁みて、重く足にへばりついた。これでは、清水宗治はじめ城兵は難儀しているに違いないと思った。この様子なら宗治は殊の外、撤兵にたやすく同意してくれるかもと期待した。  惠瓊は、水のつかない天守閣の二階に案内された。しばらくして、清水宗治があらわれた。大柄で髭をはやしていたが、その顔は戦の最中とは思えないほど柔和であった。  惠瓊は、やつれのない宗治を見て意外に思った。 「宗治殿にはご壮健で何よりでござる。戦もほどなく終わると思われる。ゆっくりと静養なされればよい」  宗治は惠瓊の言葉を聞いて、急に険しい顔つきを見せた。 「惠瓊殿、何と仰せられた。戦が終わるとな。毎日水風呂につかっているが、戦はこれからでござる。わが郎党はますます意気軒昂でござるが」  惠瓊は困った顔をしながら、 「じつは筑前守より和議の誓書が送られてまいってな、毛利輝元さまはお受けなさるようでござりまする。ただし、この高松城を含めて本領安堵とのこと」  宗治の顔色が変わった。 「何とな、輝元さまは一度も戦をせぬ前に和議をなさるとか。それがしは同意できぬ。それは信長の常套《じょうとう》手段ではござらぬか。いま、相手は動けぬのでござる。秀吉は援軍が参らぬので、怖気《おじけ》づいたのでござろう。われらに構わずに攻めてくだされ。三方から毛利家が石井山を攻めれば、勝ち戦は間違いござらぬ」  惠瓊はあてがはずれた。宗治は、典型的な純情一途な戦国武将であった。とても、駆け引きなど効く男ではなかった。 「それは、ようわかっておる。しかしこの際、一旦和議のために兵を高松城から引いてはくださらぬか。清水家にとって一兵も損ずることなく、そなたの国が守られれば、これに越したことはござらぬではないか」 「惠瓊殿、それは違う。今ここで、この清水宗治が戦わずに兵を引けば、次の戦には国侍は真剣に戦わなくなる。それはできぬ」  二人は、ぬるい茶を前にして沈黙した。  しばらくして気まずい思いで惠瓊が茶碗を手にしようとしたとき、急に宗治が言った。 「宗治、あいわかりもうした。清水家は、毛利家の言う通り兵を引きもうそう。しかし、この宗治は腹を切りもうす。武士の意地を見せずに、兵は引きもうさぬ。惠瓊殿、これでよかろう」  口を開けたまま、宗治の顔を見た。顔は明るく笑っていた。  もともと地元の備中清水の城主であった宗治にとって、高松城の戦は毛利家よりも自家の戦でもあった。数年前から小早川家に同心しただけで、毛利本家に心から臣従したわけではないという自負心があった。宗治は侍として、いまは己を吹っ切っていた。所詮この後、命ながらえても後世に名を残す機会はあるまい。しかし毛利、織田両軍合わせて五万近い将兵の目前で武者の意地を見せることができれば、自分の誉《ほまれ》だけでなく、清水家の存在を日本国中に示す良き機会になるだろうと思った。そうなれば、毛利も織田も清水家をないがしろにはしまい。そう思うと、腹を切ることに悔いはなかった。  惠瓊も宗治の気持ちを察したのか、軽くうなずくと、 「かたじけない。この惠瓊、必ずや清水家を代々お守りいたすよう輝元殿に取り計らいましょう。それでは早速、隆景さまと、これからの善後策をお話してまいります」 「よろしくお頼みもうす」  宗治は頭を下げて、肩幅のある背中を見せた。惠瓊は、人の心の動きにも天変地異があることをあらためて感じていた。  惠瓊が船に乗って去った後、清水宗治は一門の主だった者を二の丸の広間に呼んだ。何事かと血相を変えて集まった親族、家臣の目は、いよいよ最後の戦かと血走っていた。 「舞いをしたい。難波、鼓《つづみ》をもて。兄者は笛を吹いてくれ。それから源三郎、茶の用意を頼む」  宗治の弟の難波|田兵衛《たひょうえ》、兄の息子の源三郎とも、宗治の言葉に一瞬気を抜かれて驚いた。 「そう、驚かずともよい。毛利本家は秀吉と和議を結ぶという。この高松城も清水家もこれで安泰じゃ」 「それは祝着のことで」  兄の月清《げっせい》が相槌を打った。 「しかし、わしは明日、腹を切る。この清水宗治、臆病風に吹かれて城を開けたとなると、末代までの恥になるからな」  全員が同時に宗治の目を見詰めた。 「父上、誰も恥とは思いませぬが」 「源三郎、よく聞くがよい。この戦国の世は欲と駆け引きの連続だ。われらに非はないとしても、いま無傷で城を開ければ、必ずやいつかこの清水家はまた他家より無理難題を言われよう。わしが腹を切ることで、清水家はここで己を立てることができる」  若い源三郎にもわかりすぎるほどわかる、戦国小名の悲しさであった。  高松城内では、最後の宴がひらかれようとしていた。城内にいる毛利家からの援将である末近信賀、国府市正も招かれていた。宗治は女房の立てた茶をうまそうに飲みほすと、辞世の歌を短冊に書き下ろした。 [#ここから2字下げ] 世の中に惜しまるとき散りてこそ 花も花なれいろもありけり [#ここで字下げ終わり]  兄の月清入道はさわやかで潔いその句を聞いていた。そして自分も筆を取り、辞世の句をしたため始めた。 [#ここから2字下げ] 浮き世をばいまこそわたれ 武士の名をたかまつの苔にのこして [#ここで字下げ終わり]  その句を聞いて、弟の難波田兵衛は哀願し始めた。 「兄上、それがしもお連れください」 「田兵衛、そちには城明け渡しの大役がある。源三郎と女房たちを頼むぞ」  宗治は月清に目くばせをすると立ち上がり、舞いの扇子を腰から抜いた。月清も懐から横笛を取り出すと、静かに湖面に響きわたるように音色を奏で始めた。音色は冷たく、寂しかった。  六月四日の夜がきていた。猿掛山の毛利輝元の本陣に、毛利三家の宿将がすべて集まっていた。雨が降り続いており、本陣以外は漆黒の闇に包まれていた。毛利輝元も吉川元春もまだ、信長親子が誅殺されたことを知らなかった。  小早川隆景は内心苦慮していたが、やはり元春には知らせるべきではないと思っていた。そして惠瓊から聞いた清水宗治の切腹の話も、皆にはすべきではないと思った。罪もない宗治に腹を切らせると知ったら、元春以下、毛利の宿将たちも決して秀吉からの和議を飲まないと考えたからである。隆景も、内心では戦いたかった。しかし、あの十年にわたる信長との戦で、毛利家には何の益も残らなかったではないか。武士の意地だけでは国を保つことはできないと、今は信じていた。  案の定、軍議は紛糾した。元春以下の主戦派は強く、即刻、秀吉勢に攻めかかるべきだと主張した。数刻の軍議の後、最後の裁断を宗主輝元に仰ぐこととなった。 「秀吉が兵を引くと言うなら、それでよい。毛利は戦わずに済む」  ある意味では、最初からわかりきった結論であった。元春は、軟弱な輝元を苦虫を踏みつぶしたような顔をして睨みつけた。  一方、隆景と惠瓊は毛利家が誓書を秀吉と交わすまで、信長憤死の秘密が元春に洩れないことを切に願っていた。 「して、惠瓊、誓書はいかがいたした」  吉川元春のきびしい声に、惠瓊は首を少し落とした。 「ここに羽柴筑前守秀吉からの誓書はござります。人質として森勘八という者を高松城に差し出すとのこと」  手元に、まだ乾き切っていない血判の押された起請文があった。 [#ここから2字下げ] 毛利家に対され高松城の儀、我等お返し申候 以って粗略に存ずべからざる事申すに及ばずと雖 輝元 元春 隆景 深重《しんじゅう》如在に存ぜず我等進退|懸《かけ》て見放し申すまじき事 是の如く申し談じ候上は表裏抜公事(ぬけがけのこと) これあるべからざる事 [#ここで字下げ終わり]  起請文の宛名は毛利右馬頭、吉川駿河守、小早川左衛門佐宛ての三名連署になっていた。 「このような訳のわからぬ誓書では戦をやめたことにはならぬ。皆の者、いつでも追いかかれるように仕度を忘れるではないぞ」  深夜軍議は終わっても、元春は戦を止めるつもりはすこしもないようであった。もう一刻もすれば五日になる。冷たい雨に打たれながら、小早川隆景と惠瓊は馬をまた高松城の方向に向けていた。  惠瓊は気が急いていた。他の毛利の宿将たちが本能寺の変に気がつく前に清水宗治に腹を切ってもらい、秀吉を撤兵させなければならなかったからである。思い切って、隆景に馬上から問うた。 「隆景殿、この悪天候でうまく秀吉は撤兵できますでしょうか」 「うむ、この雨では途中の川はことごとく溢れておろう。難儀じゃのう」 「しかし今日にも兵を引かねば、秘密がばれましょう」 「惠瓊、いまひらめいたが元春らを抑えるために、わしが秀吉に加勢をしようと思うがどうだ」  惠瓊は一瞬、絶句した。隆景の言う意味がよくわからなかったからである。 「何とおおせられましたか、隆景殿」 「うむ、秀吉にわしの手勢を送ろうと思うている」 「なぜでござります」 「わからぬか、惠瓊。いずれ、信長親子が光秀に殺されたことは衆知の事実になろう。その時、吉川家が追い討ちすれば、毛利家も小早川家もそれを止めることは誰にもできぬ。秀吉についた宇喜多勢も寝返るかもしれぬ。秀吉を無事に京に帰すには、小早川の旗を秀吉軍の殿《しんがり》に立てざるしかなかろう」  二人の前を行く足軽の松明が急に明るく輝いたように、惠瓊には思えた。さすがに毛利家百万石を預かる宰相であると、あらためて感嘆した。秀吉を殺しても、また天下は麻のごとく乱れるだけで何の変わりもないだろう。自分のみならず大方の聡明な武将は、この戦国の世を早く終わらせたいと信じているはずであった。光秀一人では織田家を初め、その他の全国の大名を抑えることはできない。 「よくわかり申した。早速、黒田官兵衛にこの件はしかと伝えましょう」  夜が明ければ、すべてがはっきりと見えることになるだろうと惠瓊は達観した。   退 却  朝靄に、すべての景色が墨絵のようにくすんでいた。雨は止んでいたが、大気は冷たく肌寒い朝であった。泥水におおわれた湖水を一艘の船が高松城から出て、すべるように進んでいく。船上には白絹を纏った城主清水宗治を中心に兄の月清入道、介錯役の毛利家援将国府市正らが乗っていた。  その同じ早朝、秀吉は全軍を自分の本陣である|蛙ケ鼻《かえるがはな》と呼ばれる高松城の対岸に集めていた。夜を通して八幡山の宇喜多忠家、平山の羽柴秀勝、鼓山の羽柴小一郎、そして石井山の羽柴秀吉の本隊が山を降りて狭い平地に集結した。もとより、撤退のための準備であった。人も道具もすべてが濡れていて、旗指物も旗竿にまとわりついて微動だにしていなかった。  秀吉は本陣を置いた玄妙寺の本堂から、湖面の一艘の船を奇妙な面持ちで見つめていた。 「官兵衛、あの船はなんだ」  秀吉は茶を飲みながら、すっとんきょうな声をあげた。  側に控えていた官兵衛は青くなった。船上の様子はただ事ではなかった。ひょっとすると、秀吉の前で何かを挑発するのではないかと思えた。しかし船上の人物の顔が見える距離になって、それが余興ではないと気がついた。すべてが、切腹の儀式の様子であったからである。 「官兵衛、清水宗治は腹を切る覚悟だぞ。そのようなことを、わしは申し渡しておらんぞ」 「はて、毛利の指示とも思えませぬが」  官兵衛も、首をかしげて困惑していた。  その時船上の白衣姿の宗治がすくっと立ち上がって、朗々と口上を述べ始めた。 「それがし、高松城主清水長左衛門尉宗治でござる。そこにおられるは、羽柴筑前守秀吉とお見受けする。戦うは武士の務め、勝敗は時の運とは申せ、戦わずに勝手に兵を引くとは迷惑千万。われら、城を枕に討死にする覚悟でござった。この上はこの清水宗治、高松城の主として、義理の一分をここで腹切って立てる所存。各々方、とくとご高覧あれ」  いまや羽柴軍の将兵は清水宗治の心中と、これからなそうとしている行為を知った。戦国の小名にとって、いつも大国の思惑に翻弄されるやるせない憤懣は、同じように感じとることができた。 「杉原、すぐに船を出してとめさせよ」  秀吉は、この肝のすわった勇将を死なせたくなかった。老練な杉原七郎左衛門を使って、切腹を思い止まらせるつもりであった。  しかし四半刻後、杉原の説得も空しく、宗治は用意した酒肴を飲みほすと、愛刀の備前|祐定《すけさだ》の脇差しを腹に突き立てた。介錯用の国府市正の大刀がきらめき、宗治の首はきれいに船上にすとんと落ちた。清水宗治享年四十八才であった。  その頃同じく反対側の岩崎山の頂上で、その一部始終を眺めていた吉川元春は顔を赤くして烈火のごとく憤っていた。 「おおうつけよ。なんで、宗治に腹を切らせた。元長、即刻、日差山の隆景に兵を動かせと伝えよ。秀吉の軍勢は都合よく泥田にかたまっておる。いま左右から挟み討ちにすれば勝利は間違いない、とな。早く行け」  元春は勝利を確信した。二万五千の兵を一時に山麓の湖岸に集めるとは、信じられない軍事的配置であった。秀吉軍が集まっている場所の前方は湖、後方は山、左右は泥田である。左右から攻撃されたら逃げ場がない隘路《あいろ》であった。  長男の吉川元長は、岩崎山の本陣から馬に乗って駆け降りた。右隣の日差山に行くには足守川に沿って走り、また駆け上ればよかった。半里ほどの距離であった。  しかし近づくにつれ、若い元長は信じられない光景を遠望した。小早川軍一万がすでに日差山を降りて、足守川の川原に展開していたからである。一瞬、遅れをとったと思った。父元春より叔父隆景のほうが一枚上手と思った。そして対岸の秀吉の本陣を眺めると、湖上の船はいつしか消えていた。そのかわりに、羽柴軍二万五千が動こうとしていた。旗の方向は東の西国街道を目指している。間違いなく撤退であった。  元長とその供廻り数騎が小早川軍の陣に着いた時、奇妙にも相変わらず川原に布陣したままで、少しも動こうとしていなかった。戦を仕掛ける殺気は少しも感じられなかった。  元長は隆景の本陣の陣幕を手荒にはねのけた。そこには叔父の隆景と僧の惠瓊が床几に座って、何やら話をしていた。 「叔父上、父より即刻討ちかかれたいとの言づけで駆け参じました。すぐに兵を動かしてくだされ」  元長の言葉は息が切れていた。隆景はじろりと元長を見つめると、落ち着いた声で、 「元長、秀吉と和議の誓書を昨夜交わしておることを父上が知らぬはずはない。墨の字が乾く間もなく裏切る法は、毛利家にはござらぬ。もし吉川家が戦を仕掛けるなら、この隆景がまず最初にお相手すると父上にお伝えなされ」  思いもかけない隆景の言葉を聞いて、絶句した。汗が急に引いて顔面は蒼白になった。一瞬、叔父は毛利を裏切ったのかと思った。しばらくしても変化がないと知って、元長は問答無用と感じた。憤然として、そのまま挨拶もせずに立ち去った。  しかし、吉川元春は元長が帰るまで待てなかった。この場を逃しては一生、秀吉を討つ機会はないと信じていた。吉川軍全軍に、岩崎山を降りて羽柴軍を追撃することを命じた。弟の隆景がうまく足守川を渡って、秀吉軍の一翼に攻撃をしかけていることを願っていた。  一方、羽柴軍の陣中はすべての将兵が右往左往して、混乱の極致にあった。朝飯を取ってから帰路につく予定が強い雨で飯を炊く暇がなかったからである。将兵たちは、空きっ腹で進軍する困難さをよく知っていた。もしも敵が討ちかけてきた時には力が抜けて、長時間の戦に耐え切れないからである。  秀吉は帰路の道々に糧食が用意してあることを理由に、朝飯抜きで退却を命じた。しかし道はぬかるんでおり、全軍が高松を抜けて山陽道に出るまで何刻かかるか見当がつかなかった。  秀吉軍撤退の一番手は、宇喜多忠家率いる一万の軍勢であった。撤退の一番貝が宇喜多勢から吹かれると同時に、三里東方の岡山城を目指して宇喜多勢の後退が始まった。  秀吉は、毛利の追撃があった場合には岡山城で阻止するつもりでいた。しかし本心は、宇喜多勢の毛利への寝返りを恐れ、殿《しんがり》には置きたくなかったのである。  官兵衛は混乱と喧騒の中で、雨に煙る足守川の対岸を見続けていた。いま毛利が寝返って攻撃してきたら羽柴軍は壊滅するしかない、と恐怖にとらわれていた。秀吉も口には出さなかったが、内心は同じ気持ちであった。  一人の袰《ほろ》武者が大声で本陣に近づいてきた。官兵衛は、ついに来たかと覚悟を決めた。袰武者は官兵衛に近づくと、騎馬から飛び降りて水たまりの泥の上に平気で膝まずいた。背中の袰の黄色はすでに茶色に染まっていた。 「小早川軍が黒田殿にお渡しするものがあると追いついて参っておりますが、いかが取り計らいましょうか」 「何だと」 「それが小荷駄《こにだ》十頭分ほどの旗差物を持って、参っておりまして」  泥まみれの若い袰武者は、その意味がまったくわからないようであった。しかし、官兵衛は隆景の知恵と才覚に気がつき、深く感謝した。間違いなく、隆景の思いやりに違いなかった。小早川の旗を羽柴軍の殿に立てれば、味方は毛利が応援したと思うであろうし、吉川軍は勝手に羽柴軍に手出しはできなくなる。一石二鳥の策略であった。 「有り難く頂戴をせよ。それから足軽、人足がいたら、すべてここからは黒田官兵衛が引き受けるゆえ、お帰り願え。あいわかったな」  ここでもし小早川の加勢を使えば、何時、隆景殿に迷惑をかけることになるかわからない。ここは固く辞退しなければと考えた。  官兵衛は早速、秀吉に隆景の好意を説明し、自分の軍団を殿に据えることの許可をもらった。勿論、黒田の家臣たちに小早川家の旗差物をつけさせるためである。家臣たちが何と言うか、楽しみであった。  しかし、秀吉は軍使でもある官兵衛を一人で殿に残すことは不安であった。秀吉は大声をあげた。 「虎之助を呼べ。殿の黒田隊を支援せよと伝えよ」  加藤虎之助は近くの蜂須賀隊の中で、その声を聞いて胸が躍った。  吉川元春が騎馬隊数百を率いて、足守川に布陣している小早川軍に追いついた。しかし小早川軍は、山陽道に出る吉川軍の道を遮断するように布陣していた。両軍は足守川を背にして、一触即発のにらみ合いを続けた。吉川軍一万がもし秀吉を追って動けば、毛利家の家訓に背いても命がけで隆景は吉川軍を阻止するつもりでいた。  元春もまた、弟が自分に盾突いても、秀吉を攻撃するつもりでいた。そのために今一度、隆景を説得しようと思った。しかしその時、元長が悲壮な顔をして湖岸を指さした。  何とそこには黒田家の紋所であるキリシタン十字の旗差物に混じって、小早川家の三頭巴の赤旗が立ち並んでいたのである。  元春は、馬の鞍を素手で叩きながら焦っていた。いま毛利家三万五千の精鋭が秀吉軍を追撃すれば、勝ち戦は間違いなかったからである。悔しかった。毛利家は父元就亡き後、天下を望む志を無くしたかと思うと無性に腹がたった。  高松城を囲む水を見ながら、厳島に陶晴賢《すえはるかた》二万の軍勢をわずか四千の軍で打ち破ったことを思いだしていた。あの時はまだ二十五歳で父元就に従い兄隆元、弟隆景と共に勇躍奮戦し、敵の大将晴賢を追いながら、多くの敵将を打ち取った時の快感は、まだまざまざと覚えていた。あの熱情をなぜ、弟は失くしてしまったのだろう。いいしれようもない虚無感を、元春は感じ始めていた。  秀吉軍の旗差物が段々と少なくなり、暗い山のかなたに消えていく。もはやこれまでと、一人馬を返した。傍に控えていた長男元長と三男の広家は父親の悄然とした背中を見て、何も言うことができなかった。吉川家にとって、総大将の意向は絶対的なものであった。  秀吉は宇喜多勢の素早い退却を見ながら、後方を振り返った。山の中腹まで進んだ秀吉には、吉川軍を小早川軍が阻止している陣形が足守川を挟んでよく見えた。嬉しかった。死地を脱した。これで姫路城に帰ることができる。小早川隆景の好意には深く恩にきなければならないが、同時にこれで毛利は自分を討つ千載一遇の機会を逸したと思った。自分が毛利家の一員であれば、和議は難なく反故《ほご》にして攻撃していただろうと考えた。 「皆のもの、急げや、急げ。京で大戦があるよってな。信長さまのお呼びじゃ」  多くの秀吉軍の将兵にとって毛利との和議は望むところであったが、なぜこのように慌てて国許に帰路を急ぐのか皆目、見当がつかなかった。また激しく降り始めた雨の下では、兵士はそれ以上深く考えようとしなかった。  秀吉もまた、光秀との戦いがどうなるのか、京では何が起きているのか判断はつかなかった。取り敢えず、姫路に着いてから考えようと思った。前野将右衛門を先に帰して、やはり正解だった。姫路につけば将右衛門が指図をしてくれるだろうと、腹をくくった。よく考えてみると池田、中川、高山、長岡と、神戸近くにいる軍勢はすべて光秀の麾《き》下にある。光秀がうまく立ち回ると面倒だと、いやな予感を感じた。  その時、急に長浜にいる妻の祢と母の仲を思い出した。もし光秀が真っ直ぐに安土城を目指していれば、いまごろは長浜城も明智の軍勢に囲まれているころだろうと思った。どんなことがあっても短気を出さずに命だけは捨てないでくれと、馬の鞍から祈っていた。  軍馬いななく中、秀吉は堀久太郎を呼んた。ほどなくして、やはり心配そうな顔をしてあらわれた。  久太郎は、肝心な中国攻めの加勢の到着が遅れていることを気にしていた。急に秀吉が軍を引くことも、そのためではないかと誤解していた。 「久太郎、おぬし一足先に神戸まで駆け戻れや。池田勝三郎、中川瀬兵衛、高山右近らには姫路城に集まれと伝えよ。この秀吉は姫路で信長公の弔い合戦をするからと、皆に申せ」  秀吉の言葉を何気なく聞いていた、久太郎の顔が白くなった。 「筑前殿、いま何と言われた」 「久太郎、殿と信忠殿が本能寺で光秀めに討たれた」  久太郎には思いもよらないことで、一瞬声がでなかった。安土城で自分に命令した信長公と、路上で話した光秀の顔が重なった。しばらくして気を取り直した久太郎は神妙な顔つきで、 「間違いなく、お味方を集めておきまする。殿には御無事で。一足先にごめん」  二人はまた姫路で再会できることを祈りながら、目線で別れを交わした。久太郎は泣き顔を雨にさらしながら、袰武者の騎馬団を率いて去って行った。しかし多くの将兵は、この退却が信長公の弔合戦のためだとはまだ知らなかった。  毛利輝元は、猿掛山の本陣で腰が落ち着かなかった。床几の前の机には、輝元宛ての二通の書状が置かれていた。一通、は思いもかけなかった敵将の一人、惟任日向守光秀からであった。そしてもう一通は京の東福寺からの早飛脚であった。簡潔に織田信長親子の死を伝えていた。  輝元には、会ったこともない信長の死が毛利家や自分にとってどのような意味を持つのか、皆目、見当がつかなかった。遠い自分の知らない出来事のように思えた。正直、何の感興もわかなかった。  それよりも、家中で揉めている秀吉との和議をどう処理するのか、自分では判断がつかない方が問題であった。そのうち叔父たちが指図をしにここへ来てくれるだろうと、勝手に考えていた。思いあまっている内に、肝心の信長親子の死を叔父たちに伝えることを忘れていた。毛利家本軍二万を率いていながら、ただ待つだけで無為に時間を空費していた。  いつしか一瞬輝いた夕日が黒雲に消えると、あたりは急に夜の帳《とばり》に包まれ始めた。猿掛山の本陣に、吉川元春が憤然として現れた。燭台の大蝋燭が風に揺れて、あたかも元春の怒りをそのまま表しているようであった。  輝元は床几に座ったまま無言で、文机に置かれた光秀の書状をそっと差し出した。元春は具足の小手も取らずに、その書状を無造作に開いた。日焼けした顔の皺と端正な口髭が、いかにも毛利家総大将の風格と威厳をしめしていた。  しかし、その顔から落ち着きが急に消えた。目が厳しく怒りで光った。 「輝元、その方はこの次第をわしにも知らさずに、ここで弁当を食らうていたのか。ど阿呆め。毛利家の嫡男として祖父元就は勿論、父隆元の足もとにも及ばぬうつけ者よ。わが家もこれまでか、情けなや」  今は甥の輝元の軟弱さに心底、絶望していた。いつしか怒りを通り越して、悲しみの涙が元春の頬を伝わって落ちていた。 「輝元、わしは今日限り隠居する。吉川の家督は元長に譲る。そちは勝手にするがよい」  秀吉を打ち取ることを逸したのみならず、毛利が天下を取る千載一遇の機会を逸したことはもう思い出したくもなかった。元春は、悄然と肩を落して暗い部屋を出た。  輝元は元春の後ろ姿を見ながら、小さくつぶやいた。 「叔父ご、祖父のご遺言で天下は望むなと教えられております」  元春はその声で一瞬足を止めたが、そのまま又振り返りもせずに部屋を出ていった。   慟 哭  六月二日早朝、徳川家康一行は堺の町を出て、三河への帰路についていた。国許を出てから随分長く上方に滞在しているような気がした。正直、一日も早く国に帰りたかった。新領地である駿河の経営と武田家の旧臣の処遇など、することが山のようにあったからである。  帰国にあたって京に滞在している信長公を訪れ、今回の上方遊覧の謝礼をするつもりで今一度、京を目指していた。信長公の小姓長谷川竹と茶屋四郎次郎が、堺から京まで一行の案内として先導していた。  その日は快晴であった。青空はどこまでも青く、家康は駿河の同じ青空を思い出した。気分も全員、爽快であった。二刻ほどで早くも生駒を過ぎて、飯盛山の麓までたどり着いたほどの早足であった。家康は昼飯にはまだ早いかなと、隣を歩いている茶屋四郎に目くばせをした。  茶屋は陽《ひ》を探すかのように、長身の背を伸ばして空を見上げた。その時、黒装束の一団が突如として目前に現れ、家康たちを囲んだ。  すぐさま、本多平八郎と井伊万千代が腰の大刀に手をかけた。集団の頭領と目される男が家康の前に平伏した。 「服部半蔵でござります。家康殿、一大事が出来いたしました。本早朝、織田信長ならびに信忠が京で落命されました」  一瞬、家康は半蔵が血迷うたのかと思った。次の瞬間、自分でも血の気が引くのがはっきりと感じ取れた。 「いまいちど申してみよ。何と申した半蔵」 「本日辰刻、信長は本能寺にて、信忠は二条城で明智光秀の謀反により、それぞれ相果てましてござります。服部半蔵、一族をあげて殿をお守りするために参上つかまった次第」  信じられなかった。あの信長公がこの世にいられないとは、あまり物事に動じない家康も今回ばかりは気が動転した。まさかあの物腰の低い明智光秀が謀反を計るとは、人が信じられなくなった。  二十数年前に、これと同じ感覚を味わったことを思い出した。まだ三河で松平元康と名乗っていた頃、戦の緒戦で総大将の今川義元が織田信長に討ち取られたと聞いた時と同じ感覚であった。しかし、今回はそれ以上の衝撃であった。 「恐れながら、京一帯は織田の残党狩りで危険でござります。徳川殿はわずか三十数名。道中、野盗にでも襲われたら難儀でござる。一刻も早くこのまま伊賀を越えて、白子《しらこ》から海路、岡崎までお帰りになるのが上策かとおもわれますが」 「半蔵、帰り道はそなたが構うことではない。われらが決める」  石川数正が大声で叱咤した。しかし家康は、路上で腕組をしたまま沈思黙考していた。しばらくして、 「半蔵、これより、そなたを徳川の家臣とする。我らはこの地には不案内ゆえ汝を信じて、我らの行く先を任せることにしよう」 「はは、有り難き幸せ。この半蔵、身命をなげうってお役にたちまする」  近くにいた穴山梅雪が、不審気に半蔵に問いただした。 「半蔵とやら、道順はどう行くのだ」 「まず木津川を渡り、宇治田原まで一気に参ります。そこからは伊賀の山。少々きつうござりますが、伊賀上野に着けば味方も大勢おりますので安心でござります。三日後には白子の浜に着きましょう」 「よし、あいわかった。半蔵、案内せい。皆の者、服部半蔵に従え」  家康の鶴の一声で、一行は半蔵の案内で伊賀越えをすることになった。長谷川竹も家康に従った。誰しも、もし山中で裏切られたらと思うと不安が先立った。しかし、いまは半蔵を信じる以外、他に取る道はないように思えた。  茶屋四郎は堺へ戻ることを勧めたが、家康には手勢のいない場所にまた戻る気持ちは毛頭なかった。四郎は家康が堺に帰る気がないのを見ると、即座に同行することを決めた。 「それがし、何度もこの伊賀越えを商用でいたしております。一命にかけて殿を岡崎までお送り申しますので、これよりは一足先に先導させて頂きます」  四郎は、家康のために路銀として銀子を八十枚ほど持参していた。先に山に入って、その銀子で道を知った村人を雇うつもりでいた。  木津川から見える伊賀の山々は暗く高く連なっていた。四郎は、伊賀の山越えが難所であることを誰よりもよく知っていた。万一の不安を消せないのか、その顔は最後まで悲痛であった。  その時、赤ら顔をした穴山梅雪が家康に近づいた。 「殿、われらは伊賀越えよりもこれより信楽《しがらき》を目指し、彦根より関ケ原を越えて帰りたいと存じます。ここは多勢よりも少数の方が目立たぬかと思われますので」  家康は、梅雪とその家臣たちが伊賀者たちを信じていないことを知っていた。しかし、どの道を行こうと難儀であることは避けられないと達観していたので、即座にうなずいた。  本多平八郎は、裏切り者という顔で梅雪を睨みつけた。しかし梅雪は平然と表情を変えずに、家康に向かって言った。 「それでは殿、お気をつけて。駿河でまたお会いしまする。それでは皆々様、お先に御免」  穴山梅雪と家臣数名は、その場を逃れるように立ち去った。梅雪らが立ち去った後、夕暮れ迫る空に鳶が二羽高く舞うのが見えた。家康は空を黙って見つめていた。  しばらくして後方から、騎馬の音が地鳴りのように聞こえてきた。振り返ると、土煙があがっている。間違いなく数百を越す騎馬団であることを、全員が瞬間的に感じた。  いくら歴戦の勇猛な徳川武士であっても二十名に満たない数では、戦っても勝ち目はなかった。家康は、もはやこれまでかと半分あきらめた。  井伊万千代が家康を護衛しながら叫んだ。 「殿、あれは明智家の斎藤利三の軍団と思われます」  さすがに、若い万千代は鋭かった。明智光秀が安土で家康を迎えた時に、その背後にいた斎藤利三の立波の紋所を覚えていたのである。  千名の軍勢を率いた斎藤利三は焼かれた瀬田の橋が通れないため、京から宇治に戻り宇治橋を越えて琵琶湖の東岸を廻って、宇治田原から安土城を目指していたところであった。  利三は騎馬軍団の先頭集団に位置していたが、前方に異様な武士の一団を目ざとく見つけていた。野武士や土豪の一団ではなかった。手を挙げて、早駆けを止めさせた。なぜなら、その家臣たちの防御の円陣を見て歴戦の勇将たちであることを知ったからである。  馬上からよく見ると、円陣の中にいる人物は羽織を着た小太りの侍であることに気がついた。利三は、その人物が徳川家康であることを瞬時に感じた。  斎藤内蔵助利三にとって、徳川家康は敵味方を越えた別格の人物として写っていた。いつの時代にも実直に織田信長に陰ひなたなく仕え、戦えば強い理想の武士の姿であった。ここで会えたのは千載一遇の幸運と感じた。  すぐに馬から飛び降りて、そのまま家康と思われる人物に向かって走り始めた。 「それがし明智家の家臣、斎藤内蔵助利三でござる。それにおわすは、徳川家康公ご一党さまとお見受け申しました。この付近は野盗、一揆が多く危険でござります。それがし一身にかけてお護りいたします故、ご安心あれ」  家康は黒甲冑に身を固めた精悍な武将の言葉に驚くと同時に、肩の力が抜けていくのがわかった。いつのまにか利三は家康の前に膝まずいていた。 「利三、そなたは明智光秀の家臣と聞くが、なぜわしを助ける。光秀は信長公を討ったと、いましがた聞いたが」 「わが殿が信長を討ったは私怨ではござりませぬ。勅命でござります。それ故、なにをもっても家康殿を土民からお護りせねばなりませぬ。折よくこの甲賀、伊賀はわが殿の婿であられる筒井順慶さまの配下にあればご安心でござります」  家康には、すべての言葉が驚きの連続であった。信長公を討つ勅命が朝廷からでていたとは、信じられなかった。  利三は、配下の若い武将に向かって素早く命令を発した。それは、利三の次男で同じ呼び名の利光であった。 「利光、そなた家康公をお護りして、甲賀の多羅尾《たらお》光俊殿の所までお送りせよ」  利光と云われた若い息子は、父親に似て機敏な動きをみせた。すぐに馬廻りの武将百名ほどを動かした。そして自分の馬の手綱を引きながら、家康の前に膝まずいて頭をたれた。 「多羅尾氏は筒井家とは特別の仲ゆえ、間違いなく徳川殿にお味方つかまると思われますので、ご安心ください。これより、私がご案内つかまつります」  多羅尾氏は、近在の甲賀五十五家を束ねる有力武家であった。円陣の中の服部半蔵も、斎藤利光率いる騎馬百騎の応援に一安心であった。正直、自分の部下を伊賀から手配するのに半日の時間は必要であったからである。  家康も、安堵するとともに斎藤利三に格別の心情を抱いた。家康は差し出した馬に騎乗すると、深く頭を下げた。 「利三とやら、家康、この恩は生涯忘れまい。光秀殿には、よしなにお伝えくだされ。武運長久を祈るとな」  家康にとって信長がこの世にもはや存在しないということで、悲しみを感じるより何か肩の重しが消えたようで奇妙な感じであった。いまは格段、光秀に恨みも憎しみも感じていなかった。素直に斎藤利三の厚意に甘えることができた。  その頃、一里ほどの先の信楽沿いの山裾で黒い烏の集団が丸く円をえがいていた。その下には、道なりに人の死骸がどす黒い血を浴びて転がっていた。身ぐるみをはがれた下着の白さと、血の赤黒さが格子模様に混じって陰惨な光景であった。どの骸《むくろ》も、侍でありながら腰の太刀はどこにも見えなかった。別れた梅雪たちの非業の姿であった。   安土の天子  六月三日、前夜からの雨が上り晴天となった。光秀は早朝、坂本城を三千の兵を伴って出発した。瀬田の大橋の修理が昨夜遅く完成したことの知らせが、明智光忠から届いていた。すでに先鋒の明智左馬助と光忠は瀬田橋を渡り、昨夜の内に安土城へと向かっていた。  瀬田大橋の幅四間の橋板は、まぶしいばかりの白板に変わっていた。幸運にも火が弱かったせいか、瀬田川中州の反対側の短い架橋は焼けていなかった。焼けた橋柱も上部が黒く焦げたままで、橋の渡河には何の問題もなかった。  光秀の気持ちは、進軍と同時に少しずつ高まっていた。使番が、大津の城主京極高次と若狭の守護職で小浜城主の武田元明、それに近江山崎の城主山崎片家と淀の槇嶋城主井戸良弘の参陣を布れてきていた。  光秀は取り敢えず嬉しかった。自分の手勢一万三千では、この近江一国さえ押えられないからであった。早速、武田元明と山崎片家には丹羽長秀の居城である佐和山城を、京極高次には羽柴秀吉の居城長浜城を攻めさせることにし、袰武者を走らせた。城主と主だった兵が抜けた留守居の城を落とすことはそれほど難しいことではない、戦に強くない彼等でも支障はないだろうと、光秀はふんだ。  事実、織田信長の居城安土城の留守居役であった蒲生賢秀は、六月二日の夕刻には信長の妻子らを連れて自分の城である日野城に逃げていた。そして長浜城にいた祢と母の仲らもすでに城を捨てて、付近の山奥にある大吉寺に百姓姿に扮して隠れ潜んだ。  光秀の本軍三千は午刻頃には、あの懐かしい安土城と総見寺が見える位置まで達していた。主のいない安土城が何事もなくたたずんでいるのを見ると、ここ数日夢を見ているのではないかと錯覚するようであった。あの安土の天主閣に入れば、相変わらず信長公が顔を出すような気がしてならなかった。  大手門の入口で先着していた明智左馬助、光忠ら郎等が光秀を笑顔で迎えた。そこで、佐和山城と長浜城も明智軍がすでに占領していることを知らされた。佐和山城には山崎片家が、そして長浜城には斎藤利三が城代として入城していた。それを聞いた光秀の顔に、自然と笑顔がこぼれた。  安土城は以前通り何ら変わっていなかった。大手門を騎乗のまま通り抜け、二百段ほどの石段をゆっくりと登った。馬の息が切れるころ、安土城の天主の入口に着いた。  天主閣の中央に大きく口を空けた吹き抜けの地階に置かれた巨大な宝塔の灯は消えていた。あたりは夜のような闇が支配していた。光秀は、一階にある信長の寝室に土足のまま入った。主人のいない部屋は暗く、周りを取り巻いている水墨の梅の襖絵も寂しげで不吉な感じであった。調度品は主人を待つかのように整然と置かれていた。  光秀は重い気持ちを払いさるかのように、天主閣に向かって歩を一気に進めた。前に五階と最上階の天主閣の部屋に案内されたことがあったので、そこに釈迦十大弟子と三皇五帝や七賢人の絵画があることを知っていた。しかし、天主の四階には一度も案内されたことはなかった。  四階の屋根上には張り出した小さな部屋があり、唐戸《からど》でいつも締め切られていたことを小姓たちから聞いていた。光秀は供揃いに四階に直行し、その戸を開けよと命じた。  戸には鍵もなく難なく開かれた。案の定、そこは信長の宝物の部屋であった。棚には所狭しと数寄物の名品が置かれていた。そして一番奥まった場所には、金と銀の延べ棒が山積になっていた。  光秀は、留守居役の蒲生賢秀や妻女たちが何も手をつけずによく立ち去ったなと感心した。多分、信長がまだ生き延びている時のことを誰しもが考えたに違いない。もし宝物が一品でも無くなっていたら、その時極刑は避けられないと思ったのであろう。自分自身がまだ信長が死んだことを信じられないのであるから、まして逃げた家中が信じられないのも無理もないことと苦笑いをした。  光秀は、階下の大広間にそれらの財宝をすべて運ぶように命じた。夕食時に主だった重臣にそのすべてを分配し、いままでの功に報いるつもりであった。しかし光秀自身は少しも、その天下の名品を欲しいという感情が起きなかった。  吉田山の吉田兼和の自宅では、近衛前久と兼和が夕刻から明るく談笑を続けていた。 「いや、めでたい。何度考えても、これほどめでたいことはない。のう、前久殿。いや関白さま」  兼和は上機嫌で飲み過ぎ、かなり酩酊していた。瓶子《へいし》がいくつも座敷に転がっている。 「伊也、お前もここに来て飲まんか」  兼和の妻伊也は二人の側に黙って控えて座っていたが、夫の痴態にはほとほと愛想がつきていた。もう随分長く夫が酒を飲み続けて、管を巻いていたからである。  その日、兼和にとっては何年振りかの嬉しい酒であった。そのめでたさは、光秀が信長親子を討ったこともあったが、誠仁親王から内々従三位に叙することを告げられた喜びの方が大きかった。  代々吉田家では三十代で従三位の公卿に昇任するのが通弊であったが、兼和は当年六十歳になっても、禁裏に昇殿できない下級公家として、いつも肩身の狭い思いをしていたからである。 「関白殿、本日、勧修寺晴豊様からのお呼びで参内して参りました。有り難いことに、誠仁親王自ら主上の内意を頂きました。それがしが勅使として明日、安土の明智日向守の所に下向するよう申し渡されましたわ」 「主上は何ともうされた」 「光秀殿には京の治安に万全をつくしてもらいたい、とのご意向でござりました」 「さよか、いよいよ、光秀も天下人やな」  前久は大仰に口髯をなでながら、盃に口をつけた。  兼和は、伊也に向かって急に大声をだした。 「伊也、父上や兄上に手紙を書いたか。はよ京まで加勢にくるように頼んだか。そなたも、天下人の一族やさかいからな」  伊也は長岡與一郎の娘であり、忠興の妹でもあった。 「はい、光秀さまに早うお味方するよう、父上と兄には文《ふみ》を書きました」  確かに伊也は丹後宮津城にいる父長岡與一郎に、本能寺の変とそれ以降の京の状況を詳しく、兼和が話すことから手紙にしたためて連絡していた。世情の動きは、伊也の目には何か不安に映った。特に夫が有頂天になっているさまを見ると、余計その思いがつのった。このまま義父光秀殿が素直に天下取りになれるとは思えないことを、その手紙の中で率直に書いていた。  六月四日の朝、吉田兼和は京都を出立し、夕焼けが見える申刻頃、安土城に到着した。すぐさま新しい天下人明智光秀に誠仁親王の勅使として面会した。  兼和は、朝廷の下賜品として緞子《どんす》一巻を持参していた。年がいもなく、光秀の前で緊張していた。なぜなら、勅使の大役は生まれて初めての経験でもあったからである。 「天皇および誠仁親王よりの勅命を申し渡す。臣、明智惟任日向守光秀は京都の儀、別儀なきのよう堅く申し付くとの勅諚である。なお、これは天子からの下賜品である」 「忝《かたじけな》し、光秀、謹んでお受け申す」  光秀はさしたる緊張もなく、兼和からの緞子をうやうやしく押し頂いた。  それから二人は、因縁の御幸の間で膳を囲んだ。その時、兼和は黄金の部屋の意味を初めて知った。安土城の御幸の間はすべてが黄金で埋められていた。それが蝋燭の灯で真昼のように反射して、食台まで金色の光線が届いていたからである。 「光秀殿、大儀であったな。さぞかし、疲れたのではないかな」 「うむ、さすがに緊張した。しくじればこの身は八つ裂きだからな」 「して、これからもう一工夫考えねばならぬが、お主の大名たちはついてきておるのかな」  兼和の問いに、光秀は急に顔を暗くした。 「うむ、まだ與一郎からは何の知らせもなくてな」 「與一郎はそなたの親戚。そなたに寝返るわけはあるまい。筒井順慶はどうしておる」 「まだ知らせがない」  兼和も不安になった。まさか光秀の姻戚でもある彼等が裏切るわけはないと思ったが、光秀の許にすぐ駆け参じることを逡巡していることは充分考えられた。 「光秀、明日わしは京へ戻り、内裏にうまく手配をしておく。明後日、そなたが参内して礼を述べるがよい。朝廷が天下人であることを認めれば、自然と諸国の大名はそなたになびいてこよう」 「兼和、かたじけない。早速、そうするつもりだ。これから軍議をおこなう。ここでは落ち着かぬだろうから、城外に宿を手配しておいた」  兼和は食事も早々に切りあげされて、安土城の麓の武家屋敷に通された。名だたる織田家宿将の屋敷だと思われたが、あえて聞くことを止めた。  疲れた身体を蒲団に横たえたが、目が冴えて寝付かれなかった。表の路地を多くの軍馬が通り過ぎて行く音が消える気配がなかったからである。それに、何かわからないものが兼和の胸の上に黒く澱《よど》んだ重しのように乗っていた。  そのころ、光秀も森閑とした安土城の中で寝られないでいた。すべてが静かであった。部屋は勿論であったが、周囲の状況が静かすぎると思った。一番に何か言ってこなければならない長岡與一郎や筒井順慶からは、何の知らせもまだなかった。不安感が拭えなかった。皆、信長と一緒に消えてしまったように思えた。  明日は京に行こう、京には誠仁親王や近衛前久や勧修寺晴豊がいる。光秀は、今の孤独さに耐えられなかった。安土の城には何の魅力も感じなくなっていた。そして早く坂本に帰りたかった。  光秀は、ほとんど一睡もせずに朝の陽を迎えた。本能寺の日から五日目の朝を迎えていた。目覚めながら、あらためて備中にいる秀吉と毛利の戦がどう進展しているのかを知らないことに気がついた。信孝率いる大坂表の軍船はどこへ行ったのだ。皆、どこへ消えてしまったのだ。  光秀は床から起きると、京に上洛する前に急に坂本城に帰ろうと思った。きっと、與一郎や順慶や信澄から連絡が来ているはずだ。そう思うと居たたまれなく、すぐに明智左馬助を呼んだ。 「左馬助、これから一旦、光忠と坂本に帰ることにする。佐和山城と長浜城には、武田元明と京極高次を城番として置いておけばよいだろう。そちには、この安土城をまかせる。湖北の問題はないと存ずるが、大坂と摂津が心配だ」 「いかにも、こちらはおまかせくだされ。殿は心おきなくお立ち下さい」  光秀は軽くうなずくと、草摺の鎧の音をたてながら大手門の広場に向かった。朝日がまぶしく兜や槍の刃に当たって、きらきらと光った。天下人になるべく上洛にふさわしいであった。  長岡與一郎は六月二日の早朝に先陣として嫡男忠興に兵五千を授けて、丹後宮津城から中国路に先発させていた。與一郎も残りの兵を連れて明日、出発する予定であった。  宮津城の部屋からは若狭の海がよく見えた。與一郎は、若狭湾に落ちる夕日を見るのが好きだった。まだ、夕日を見るには間があった。これからの中国攻めでしばらく茶を立てる暇もあるまいと、息子の嫁玉子を呼んで茶道具の用意を言いつけたところであった。  玉子は、四年前に明智家から細川與一郎の嫡子である忠興に嫁いでいた。與一郎は二年前ほどに生まれた初孫に自分と同じ名前をつけ、殊更可愛がっていた。  その時、京から早馬ということで、慌ただしく居間へ近習が駆けつけてきた。京から宮津までは十六里の道のりである。それを早駆けでくる一大事とは。書状の差出人は里村紹巴であった。與一郎は、何事かと表紙を破いた。  読み始めて、與一郎は絶句した。紹巴の文章は、本能寺と二条城の戦に立ち会っただけに、信長親子の臨終の場面が恐ろしいほど克明に描かれていた。読みながら、光秀がなぜこのような大事を輩《ともがら》として事前に打ち明けてくれなかったのか、瞬時に不信感を抱いた。運良く信長公と信忠殿を討つことができたとはいえ、與一郎にしてみれば、すべてが暴挙にしかみえなかった。光秀は気が狂った、としか思えなかった。  そこに、二通目の書状が当の惟任日向守から届いた。中身は、勅命を蒙り義兵を挙げて織田信長親子を討った、というものであった。與一郎は、いつのまにか光秀が朝廷の公家たちに利用されていたことを知った。かつて足利義昭将軍を信長に対抗させていたように、いまその代わりを朝廷が光秀にさせているだけではないか。なぜそれを見抜けなかったのかと、悲憤にくれた。  書状には、近々相固め候の儀には、忠興を新将軍に、明智光重を管領に任ずるとも書かれていた。しかし、その代償は途方もなく大きく見えた。  與一郎は、即座に冷酷な決断を下した。舅であり上役でもある明智光秀に加勢はしない、という決断であった。すぐさま、備中に向かっている忠興に兵を宮津城に返すよう指示をしよう。貞淑な嫁の玉子は悲嘆にくれるだろうが、一人の嫁のために長岡家の興廃を賭けるわけにはいかなかった。  玉子は、舅の顔が急に険しく変わったのを冷静に観察していた。いままで、優しい舅のこれほど恐ろしい顔を見たことがなかった。よほどの重大事が起きたのだろうと思った。  與一郎はまだ玉子が傍にいるのに気がつき、 「玉子、明日、忠興が帰ってくる。部屋に居て沙汰を待て」 「沙汰とは」 「父上が、信長さまと信忠殿を討たれた」  與一郎は、表情を変えずに冷たく言い放った。玉子は「えっ」と声にならない声を発した。 あの優しい父が信長公を殺めたとは、信じられなかった。玉子には、その後の思いが回らなかった。夫が帰ってくるまで、せめて自室で謹慎しているしかないと思った。  玉子は茶道具を盆に静かに乗せると、無言で礼をして與一郎の部屋を退出した。急に腹の子が固くなり、石のように身動きしなくなったことを感じた。  話を聞いても、父が無道な人非人になったとは思いたくなかった。母が何度も自慢気に父の優しさを話してくれていたことを、逆に思い出していた。祝言で瘡《かさ》の傷の残った新婦ひろ子の顔を初めて見た時、父は顔色一つ変えずに固めの盃を飲みほしたという。  與一郎は、長岡家と郎党一族を護るために二通の書状を書き送ることにした。その一通は、播磨三木城の前野将右衛門宛であった。本能寺の一大事の出来《しゅったい》に長岡家は関係しなかったし、今後も光秀と組むことはしないという内容であった。  もうこの七、八年の間、将右衛門の茶道の師匠であり気心をよく知っていた。将右衛門なら、與一郎の難しい立場をうまく秀吉に伝えてくれるだろうと思った。しかし、このまま去就を決めなければ間違いなく、真っ先に秀吉勢と対決しなければならなくなる。  與一郎の書状は、折よく三木城にいた将右衛門のもとに二日深夜に届いた。驚いた将右衛門は直ちに姫路城に出向き、秀吉出迎えの用意と池田、中川、高山らの光秀麾下の軍勢に早速、連絡を取った。まだ、光秀からの指示書は三人には届いていなかった。この時、三人は信長公と信忠中将が公式に亡くなったことを、初めて前野将右衛門から知らされたのである。  池田勝三郎は、信長と乳兄弟《めのと》の仲でもあった。それに謀反人荒木村重の旧領を信長公から拝領しているだけに、恩義は人一倍深かった。勝三郎は、光秀の暴虐に素直に憤った。  中川瀬兵衛、高山右近も村重謀反の際、信長に命を救われていただけに、光秀の謀反に驚きはしたものの、二人の同情を少しも買わなかった。  與一郎はもう一通の書状を、大坂住吉に在陣中の信長三男の神戸信孝宛てに書き記した。万一、織田家中の誰かが光秀を討ち破った際、長岡家は光秀に与力しなかった証拠を残さなければならないと思ったからである。本来なら次男の織田信雄に書くべきであったが、いまは美濃か伊勢におられるはず、とても急場の役に立たないと考えた。  二通の手紙を書き終えて、與一郎はほっと一安堵した。その時、三通目の書状が京から着いた。裏書きは娘の伊也であった。夫吉田兼和と近衛前久、二人の本能寺の変前後の言動が事細かに、その中で書きつづられていた。  與一郎は、やはり自分の感が正しかったことを改めて感じた。所詮、公家たちはわれわれ武士たちを信じていない。そのことを改めて思い知った。光秀からは事前に相談されなかった以上、不義理も仕方がなかった。自分の身は自分で守らざるを得なかった。不憫でも、光秀には深入りすることを止めようとまた深く決心した。  明日すぐに剃髪して信長公の菩提を弔い、恭順の意を表そう。そして忠興が帰り次第、まだ二十歳と若いが家督を譲って自分は隠居しよう。それから信長公から頂いた長岡の姓も、もとの細川に戻そう。取り敢えず、次の天下人が決まるまでは節操を捨てざるを得ない。與一郎は潔よく覚悟を決めた。  この際は家を守ることが何よりも大事、と考えた。五十歳にもならずに隠居とは少し早いが、好きな趣味に生きることができるかもしれないと思うと、自分の決断も悪くはないと感じた。  その晩寝る前に、前の室町将軍義昭からもらった藤孝の諱《いみな》も捨てることにした。不安な自分の心境を前にして、新しい法号を幽斎《ゆうさい》とでもしようと思った。それにまた不憫ではあるが、仲むつまじい忠興と玉子も離縁させなければと苦い思いを飲み込んだ。   恐 怖  六月二日夕刻には、京の周り十里四方の住人に信長親子惨殺の話はすべて伝わっていた。大坂の住吉で四国出陣の軍船を仕立てていた神戸信孝、丹羽長秀も同じ頃悲報を聞いていた。信孝は本二十五歳の五月に父信長から四国を拝領し、四国切り取りの総大将を命ぜられていた。従兄弟の津田信澄を副将とする織田軍団の強兵、丹羽長秀、蜂谷頼隆、松井有閑、九鬼嘉隆、三好康長ら七千の兵を率いる錚錚《そうそう》たる大将であった。  しかし光秀が父と兄をあっけなく葬り去った話を聞くと、悲しみよりも光秀の強さが途方もなく大きく見えてきた。特に縁の薄かった弟の織田勝長が武田家から帰るやいなや、本能寺で同じく命を落としたことは信孝の心をより深い悲しみと恐怖に陥れた。  陽が暮れる頃、住吉を目がけて明智の大将溝尾庄兵衛が攻めてくるという噂が将兵の間に広まった。信孝はまた恐怖を感じた。戦に慣れていない身には特に夜の戦いは怖かった。堪《こら》えようもなく、丹羽五郎左衛門長秀に泣きついた。長秀は信孝の御目付役であり副将でもあった。 「五郎左、いかにしよう。明智が攻めてくるというでないか。ここでは守りきれぬ。どこかへ参ろう」  信孝は半泣きであった。夜の闇とともに、集めた傭兵の多くが部隊から消えていたからである。多くの兵たちは信長死後の織田家の将来に大きな不安を覚えていた。  その時長秀は熟慮していた。長年信長の重臣として主君の馬前に居続けた長秀にとって、信長親子の京における軽率な宿泊は信じられない失策であった。これ以上同じ過ちを織田家に起こさしてはならないと固く心に誓っていた。  長秀は大坂城にいる光秀の女婿である津田信澄の動向を気にしていた。もし信澄が明智軍と通じていれば、大坂城はすでに敵方に落ちたことになる。しかもこのままこの住吉の浦に滞陣していても、兵が怖じ気づいて逃げ去っていくだけで埓が明かないとも思った。  大坂の城砦はもとの石山本願寺である。明智の援兵が入ってからでは攻めるのは至難の技だった。敵方の兵力が少ない今、攻め落とすことが最適であると思った。長秀は長年の本願寺との戦で大坂城周囲の土地勘はあり、攻めることに不安はなかった。  その夜半、俄雨《にわかあめ》が降り始めた。船大将の九鬼嘉隆と蜂屋頼隆を住吉の守備に残し、織田信孝と丹羽長秀、それに松井有閑は余った兵四千を引き連れて大坂の城を目指した。  わずか二里に満たない道のりにも拘らず、城に近づくにつれ兵たちの持つ松明の行列がまばらに消えていくのが信孝には不気味で不安であった。雨で灯が消えるのでなく、次々と兵が逃げ去っていたからである。  津田信澄は、同じく大坂城の天守閣で底知れぬ恐怖に捕らえられていた。外は漆黒の闇で、灯は何も見えなかった。灯がもし北から動いてくれば、それは明智の軍勢に違いないと思った。南からであれば、それは織田方の軍勢を意味した。どちらの軍勢が来ても、どう対応したらいいかわからなかった。  ただ信澄は従兄弟である信孝だけは、この大坂城に来て欲しくなかった。幼少の頃から、信孝が自分を毛嫌いしていたからである。その理由は、信澄の父信行が兄信長に謀反の疑いで殺されたことからであった。謀反人の子供ということで、信孝は信澄を年長ながら嫌って苛めていた。  信澄は、舅光秀の謀反を全く事前に知らなかった。ただただ驚きであったが、光秀の三女芳子の女婿である限り、信孝は謀反人の一味として断定するに違いなかった。父が信長に殺された時、信澄はわずか二歳で何も覚えていない。それと同じように本能寺の件は何もしらなかったと、誰かに叫びたい心境であった。  暗い天守閣の板戸を、家老の津田与三郎が叩いた。 「殿、信澄殿、おられますか。いま、神戸信孝さまと丹羽長秀さまが大手門の前で待たれております。開けぬと、敵として攻め落とすと申されておりますが」  暗い灯のない天守閣の狭い部屋で信澄は震えていた。案の定、信孝が来てしまった。会いたくなかった。しかし、門を開けなければ、明智の一味として攻められるとも思った。手勢の家臣がいまは何名いるのかも、信澄には皆目、見当つかなかった。  津田与三郎は、返答がしばらくないので、重い板戸を勝手に引き開けた。闇の中から細い声が聞こえた。 「わしは、ここから出ぬ。与三郎、信孝はここにはつれてまいるな。わかったな。早く閉めて行け」 「あいわかりました。灯をすぐにもたせましょう」 「いらん、このままでよい」  信澄の声は苛立っていた。与三郎は仕方なく、また天守閣の狭い急段を手燭をたよりに下りて行った。自分の身しか考えられない腑甲斐《ふがい》無いお屋形と階段を下りながら思った。  四半刻ほど待たされたが、結局、神戸信孝と丹羽信秀、松井有閑らは大坂城に入城した。  与三郎としても手勢五百では、戦うにも自信がなかったからである。開門の遅れを、城主信澄の健康がすぐれぬことを理由にした。  信孝はそれを聞いて、別に無理をして信澄に会おうと言わなかった。信澄が何を考えているのかわからなかったからである。それに身体は雨に降られて冷えきり、疲労困憊していた。早く、暖かい蒲団の上で寝たかった。  六月二日の大坂の夜は、こうして静かな膠着状態のまま過ぎていった。  翌日、神戸信孝は大坂城の物見櫓の一室で、丹羽長秀と猛々しく言い争っていた。城外の一面靄に覆われた浪速《なにわ》の里は、水と空の区別もつかなかった。 「五郎左、信澄を早く討ち取ろう。いつ、明智がここに攻めかかってくるかしれんぞ」 「残念ながら、いまだ織田の諸将の動向がわかりませぬ。軽挙妄動はつつしまねばなりませぬ。それに、信澄殿が明智に味方したかどうかも、まだわかりもうさぬ。しかと確かめねばなりませぬしな」 「うむ。しかし、げんに信澄は機嫌が悪いといって、顔も見せんではないか」  長秀も正直、どう手を打つか思いあぐんでいた。そこに松井有閑がのっそりと、影のように長身の姿を見せた。 「ここは一計を打つしかあるまい。信澄殿は三七殿を嫌っておられる。天守閣から無理やり引きずりだすわけにもまいらぬ。しかし、三七殿がこの城から立ち去ると言えば、必ず降りて参りましょう」 「それでは城を出なければならないではないか、有閑」  三七信孝は急に身を乗り出した。 「いかにも。我々がまず城外にでなければ、信澄殿は安心して姿を見せますまい。その後、偽りで五郎左殿の家来と殿の家臣を城外で喧嘩させます。そして五郎左殿が負ける振りをして、再度、城内に入れるよう頼みいれます。門が開けば、われらもその時一緒に押し込み、一気に信澄殿を葬ります」  いま大坂城内にいる信孝一統の武士たちは、百名にも満たなかった。信澄を間違いなく打ち果たすためには、城外にいる二千名を越す本隊を城に入れる口実が必要であった。信孝は、有閑の姑息な謀略に一、二にもなくのった。しかし有閑は、信澄にもし器量が有れば、このような姦計に騙されることもないだろうと思った。信長亡き後の織田家を引き継ぐ遺児たちの器量を、この際冷徹に見届けるつもりであった。  翌四日は青空がのぞいたので、早朝、信長公の弔い合戦をするという名目で神戸信孝一行は城を出た。あらかじめ津田信澄にも参加を申し入れたものの案の定、与三郎を通じて大坂の城を守るゆえ動けぬと返答してきていた。  信澄は天守閣から、信孝たちが城外へ出て行くのを眺めて、初めて部屋を出た。その日の午後、丹羽長秀の配下の兵士百人ほどが大坂城の大手門に近づき、刀を振りかざしながら門を叩いた。一瞬、信澄は丹羽軍の襲来かたと見まがえたが、信孝と仲たがいをして逃げ帰ってきたという話を聞いて安心をした。  数は少ないといえ、信孝に反抗する軍勢を取り込むことは自分にとって好都合と安易に考えた。その時、信澄にとっての唯一の心配ごとは、大溝城に残してきた妻芳子の去就であった。本能寺の戦のあと、舅の明智光秀がうまく取り計らってくれていると信じていたが、なぜか、それが重く胸のわだかまりとなって残っていた。  信澄は曲輪の一室の矢狭間から、大手門の状況を見つめていた。丹羽の軍勢が、思い思いの隊列で大手門をくぐろうとしていた。その時、後方の草むらから白い虫が湧くように立ち上がるのが見えた。しばらく、それが何であるかわからなかった。  しかし、それが白い鉢巻きをした軍勢であると気がついたとき、信澄の顔は蒼白となった。追手が同じく城に入ろうとしていた。我を忘れて、「しめろ」と叫んだ。  しかし門は開いたままであった。先手の後方から揚羽蝶の旗頭の吹き流しが見えると同時に、その下に黒い騎馬集団が大坂城を目指しているのがはっきりと信澄の目に焼きついた。間違いなかった。信孝が帰ってきたのだった。その時点でも、自分がまさか殺されるとは考えていなかった。  しかし、信澄のいる曲輪に血走った雑兵、侍が現れるにいたって、仮想が現実となった。打つ手もなく狭い室内を逃げ回る信澄に、丹羽の侍大将上田重安の冷たい白刃が容赦なく打ち下ろされた。熱い差すような火箸を感じると同時に、生温かい液体が信澄の身体を流れ落ちた。妻芳子の面影を瞼に見た。 「芳子—」  そのまま信澄は絶命した。  神戸三七信孝は、首袋から出された津田信澄の端正な首を見つめていた。この男が父を殺した光秀の一味と思うと、わけのわからない激情が突き上げてきた。 「五郎左、この首を堺付近にさらせ。堺の町衆が光秀につくと、ことだからな」  信孝は父信長のかっての幕僚たちの前で、鬼の首を取ったように虚勢を張った。しかしその時、丹羽長秀と松井有閑の目が白けていたことに信孝は気づかなかった。   乾坤一擲《けんこんいってき》  秀吉は六月五日の夜遅く岡山城に入った。途中の路は連日の雨と人馬の往来でいたる所がぬかるみ、満足な走行はできなかった。先鋒の宇喜多勢一万が既に到着していたために、城内は蜂をつつくような騒ぎに満ちていた。  秀吉は具足をつけたまま一気に、奥のふくの部屋へ向かった。ふくはいつもと変わらず、冷静な顔で秀吉を迎えた。秀吉の顔を見るやいなや、女の勘で何かがあったと感じた。 「お帰りなされませ。風呂もわかしてありますが、それとも食事をなされますか」  秀吉は座敷の真ん中にどんと腰をおろすと、 「ふく、飯を頼む。一休みしたら、すぐに立つ」  秀吉は風邪を引くことを恐れて、風呂に入ることをやめた。 「また、備中でござりまするか」 「うんや、姫路に戻る」  ふくは、やはり勘が正しかったと思った。上方で何かが起きたに違いなかった。いつもの陽気さは、膳を囲みながらも少しも見えなかった。  秀吉はたらふく粥を掻き込んだ後で、唐突にふくの肩を抱きながら言った。 「ふく、おれが帰らなかったら、八郎を連れて毛利の小早川隆景を訪ねよ」 「なぜでござります」 「ふく、他言は無用ぞ。上様と信忠さまが京で明智光秀に討たれた。これから上様の弔い合戦に参り、明智の首をはねる所存じゃ」 「さようでござりましたか。殿は必ず勝ちまする。御武運を祈っております」  ふくにとって、信長の存在はもともと遠かった。いま死んだと聞かされても、何の驚きもなかった。きっと死する定めだったと達観していた。  秀吉は、ふくの言葉を聞いて苦笑いした。驚かなかったことで、強い戦国の女だとあらためて感じた。ふくの部屋には泊まらず、別室に仮眠をするための床を敷かせた。閨をふくと共にしたかったが、弔い合戦に勝つまではと堅く精進を決めていた。それに万一、宇喜多勢が毛利に寝返ったら岡山には帰れないことをよく自覚していた。そう思うと気が張って、閨事どころではなかった。  秀吉は、宇喜多勢以外の軍勢には岡山城で飯と短い休息を取らせただけで、また夜の闇を西に向かって行軍させた。一刻も早く姫路城まで、一兵でも多くたどりつけさせたかったからである。この頃になると将兵たちは事が尋常でないと気がついたようであった。何か都で起きたと自然に噂が広まっていた。  翌六日、まだ日の上がらない暗い内に秀吉は新馬に乗った。寝床に横たわった時間は一刻となかった。岡山城を出立する前に、秀吉は宇喜多忠家と杉原家次を呼んで、本能寺の変の委細を話した。忠家には万一の時の毛利追撃を阻止してもらうために、真相を話さざるを得なかった。また、家次を宇喜多勢の寝返りを押えるための目付として、岡山城に残した。  ふくが、いつのまにか珍しく城門まで見送りに出てきていた。松明の灯に、ふくの穏やかな顔が揺れていた。秀吉は軽やかに手を振った。これで岡山に思い残すことはない。ふくに笑顔を贈ると馬の尻に鞭をあてた。  岡山城東方三里の備前沼城に向けて軍馬を急がせた。しかし前夜の激しい雨で河川はいたる所で溢れ、濁流が渦まいていた。秀吉はあらためて毛利が和議を順守してくれたことに感謝した。このような悪天候下で、毛利の追撃を受けたらひとたまりもなかったと思うと、鳥肌がたった。  その頃、最後尾の黒田官兵衛も馬上で雨に濡れながら同じ思いにとらわれていた。もし光秀に勝ったら、毛利家には最大の恩賞を与えるべきだと感じていた。  沼城に着いた時、日はもう暮れようとしていた。わずか三里の路を戻るのに一日もかかったことになる。秀吉はあせっていた。一刻も早く姫路に戻りたかった。自然と将兵の間に本能寺の噂が広がりつつあった。しかし、今はまだ話す時期でなかった。  もし将兵の間に、宇喜多が毛利に寝返り、光秀の麾下の池田、中川たちが光秀に味方するなどという根も葉もない流言飛語が広まったら、戦をする前に秀吉の軍団が崩壊してしまうからである。  秀吉は部屋に入るやいなや、寒さに震える手で筆を取った。書状の宛て先は、前野将右衛門と光秀の配下にある大名、池田勝三郎、中川瀬兵衛、高山右近、長岡與一郎らであった。なんとしてもかれらを自分の味方につけなければならなかった。  書状の中で敢えて、上様が近江の膳所まで落ち延びたと嘘を書いた。そう書くことによって、光秀に与力することを阻止できそうな気がしたからであった。秀吉は、熱い粥を運ばせた。腹が膨れ次第、また出発するつもりであった。それから、小姓の大谷紀之介を呼んだ。 「紀之介、備前より馬廻りの者たちと船で、赤穂までまいる。至急、手配せよ」  小柄な紀之介と呼ばれた小姓、は走って外へ飛び出していった。  秀吉は、中国道を何度も通っていた。備前の町から帆坂峠の峻嶮を越すよりも、船で海沿いを上って赤穂まで行く方が早かった。しかし、備前までの陸路の十里は安易ではなかった。案の定、備前手前の西大寺川が氾濫していた。  よく見ると川の両岸には大きな篝《かがり》火が焚かれ、川の流れは暗闇にもかかわらず、はっきりと見通せたのである。川の中央に太い綱が何本も渡され、馬を濁流に乗り入れても流されない配慮がなされていた。その付近は黒田官兵衛の出身地福岡に近かったので、あらかじめ官兵衛が身内に川越えの手配させていたのであった。  秀吉は一切の武具は勿論、荷駄一箱といえど流されぬよう細かに指示を全軍に与えた。大事な戦を目前にもし事故があれば不吉な現象として、それが将兵の士気に大きな影響を与えるからであった。  馬廻りの旗本武将を前後に、秀吉は馬を川に乗り入れさせた。馬廻組頭は伊東長久、それにつき従う武将たちは蜂須賀家政、一柳直末、堀尾茂助、浅野長政、山内一豊、脇坂甚内、加藤嘉明らの秀吉軍の精鋭であった。  西大寺川を渡ると、秀吉は馬を夜通し駆けさせた。路には要所、要所に篝火が置かれ安心して早駆けができた。夜が白むころ、備前の群青色の海が見えてきた。  秀吉は泊りに着くと、そのまま用意されてあった関船に乗船した。秀吉側近を乗せるやいなや舫綱《もやいづな》をとかれた関船の四十の櫓が力強く漕がれ、船は海面をすべるように沖に向かった。沖に出ると大きなうねりの揺れで、秀吉はすぐに眠くなった。 「誰か、赤穂に着いたら起こせよ」  そう言うなり瞼を閉じた。夢を見た。若き日の信長公がちゃせんまげ、上半身はだかで、何やら池の水を必死にかいている。口には脇差しをくわえている。藤吉郎の秀吉は褌一つで、池の中に飛び込んだ。茶色に濁った池の底に、ぬるりと滑る物体がある。それは巨大な蛇であった。頭をもたげて、藤吉郎を蛇の眼がみつめた。その黄色の眼はどこかで見たことのある眼であった。思いだそうとしている内に、蛇の横を嫁入り前の祢が草履で走っていた。着物の裾から白いふくらはぎが見えている。 「ねね、待て」  そこで夢は終わった。  水夫の荒々しい声で岸が近いと知った。秀吉は、一人で狭い船床から甲板に上がった。周囲の供廻りは皆疲れて寝ていた。表は暗く雨はなかった。空は夕方のようであった。  丸日中寝たことになる。そう思うとなにやら身体が軽く、爽快であった。あと、赤穂から姫路までは訳はなかった。明朝には姫路に間違いなく入れると思った。  明日はまだ七日である。五日の午後に高松を発って三日間で、なおかつ自分の軍団が無傷で二十里の道を帰れるとは、天佑以外の何物でなかった。秀吉は、これで光秀に勝てると確信した。  予定通り秀吉は六月七日の朝日が昇るころ、懐かしい姫路の居城に帰った。大手門の橋のたもとに前野将右衛門、堀久太郎の二人が真剣な面持ちで秀吉を迎えていた。  秀吉は城内に入るやいなや、将右衛門が用意してくれていた蒸し風呂に飛び込んだ。侍女のかける熱い湯が杉葉を通して石にあたり、瞬間的に弾けて蒸気に変わった。何も見えない湯気の中で、秀吉は初めて落ち着いて考えることができた。  帰路考えていたことを、また逐一考え直した。どう考えても自分が取り得る道は、このまま一気に光秀と戦うことしかなかった。それ以外の方法は、すべて先が見えなかった。両腕の汗を手で拭うと、秀吉はもう二度と思い悩むまいと決心して手を叩いた。 「出るぞ、佐吉。官兵衛は着いたか。秀長と小六、それに将右衛門を広間に呼んでおけ」  秀吉は大声で、風呂の戸口に控えていた小姓の石田佐吉に命じた。  黒く光った大広間の床には秀吉の旗本、大名、武将五十名ほどが具足姿のまま異様な顔で座っていた。今は、すべての将兵が本能寺の変を知っていた。  秀吉は、風呂上りの湯帷姿で気楽に現れた。 「おい、おい、皆物々しいな。今日はゆっくり休めや。小六、米蔵と金庫を開けて、すべて皆にくれてやれ。この城には二度と帰らんからな」  蜂須賀小六が髭面の顔を丸くして、 「殿、すべて賭けるので」 「はは、このたびは秀吉、生涯一度の大戦。上様の弔いで光秀を討つことだけが、わしの願いじゃ。あとのものは何もいらんぞ。小六、銭はいくらある」 「さよう、黄金が四千六百枚ほど、銀は七百五十貫ほどでござるかな」 「構わぬ、皆に同じようにくれてやれ」  堀久太郎が急に立ち上がって、 「秀吉殿、わが主君、信長公はもはやおりませぬ。これよりは殿に随身つかまつる。所詮、戦の勝ち負けは二つに一つ」 「いまが花見どき。殿、いま花を咲かすことが何よりでござる」  遅れて広間に入ってきた官兵衛が、立ったまま大声を出した。秀吉は官兵衛をちらっと見て、したり顔をして笑った。 「はは、この秀吉、大博奕《おおばくち》をしかけてごらんにいれましょう」  ふざけて謡の調子でおどけてみせたが、眼は少しも笑っていなかった。 「将右衛門、池田、中川、高山たちに金子五十枚を届けよ。秀吉からの軍費だとな」 「金を五十枚でござりますか、銀でよろしいのではないのですか」  将右衛門があまりの気前良さに驚いて、秀吉に問いかけた。 「銀では天下は動かぬ」  秀吉を取り巻く宿将たちは主君のただならぬ意気込みに合点とばかりうなずいた。最後に勝負は一本限りと、秀吉が一本締めで音戸を取った。  大広間での出陣式が終わった時、小西行長が秀吉に近づいて耳打ちをした。 「なに、島井宗室が話とな」  宇喜多家を通じて島井宗室が毛利家中一の商人であることを知っていた。秀吉はとっさに、備中での毛利家の義理を感じて宗室と会うことにした。  島井宗室は、秀吉に対面するなり慇懃無礼に話始めた。 「筑前殿、此度《こたび》はこの島井宗室の全身代を差し上げるつもりで参りました。憎っくきは光秀でござります。楢柴の茶入れを信長殿に献上せよと、それがしに命じて、その翌日、信長殿をお討ちになるとは、武士道に恥じることではござりませぬか。命の次に大事にしておった楢柴は、本能寺で灰に変わり果てておりまする。ぜひ、この仇をお討ちくだりますようお願い申しあげます」  秀吉は、宗室が光秀と組んでいたことを冷静に見抜いていた。しかし、目ききの効く宗室が光秀を見限り自分に加勢してくれることは、幸先《さいさき》が良いと感じた。 「宗室、この戦に勝てば、お主が用意した金品を倍にして返そう。思いきり与力するがよい」 「有り難き仰せ。宗室、羽柴さまのご所望のすべてを仕切らせていただきまする」  宗室は心から嬉しそうに笑顔を振りまいた。  その晩、姫路の城では久方振りの大盤振る舞いの宴席が開かれた。その嬌声、賑やかさは、すでに明智との戦に勝ったようであった。侍衆は当然であったが、その下人、中間、小者まで銭一貫から二貫を腹巻きに巻いていた。銭の重さが、全員の気持ちを逆に軽くしていた。無理もなかった、一年分の米を充分に買える金であったからである。  一方、大広間で開かれている秀吉麾下の宿将、族将の宴席はしめやかであった。上席の床の間には、白木の位牌が無戒名で二つ置かれていた。立ち並んだ全員が、その位牌は誰であるかを知っていた。  秀吉は、胴巻き具足を身につけたまま位牌の前に立った。そして子刀で髻を切り、それを位牌の机の上にそっと置いた。  その後、織田信長の遺児で秀吉の養子になった秀勝が続いた。養子になってから急に背の伸びた秀勝は、頭を青く剃髪していた。秀勝は元結で結んだ髪束を懐から取り出して、やはり机の上に置いた。顔は頭と同じように白く浮かなかった。  最後は堀久太郎が席を立って位牌に近づいた。会席者の中では最後に主君、信長公に会っていたからである。久太郎はゆっくりと位牌を赤い目で見つめながら、やはり髻《もとどり》を切った。 「明日は、皆の命をこのわしにくれや」  秀吉が大声で呼びかけた。 「おう」という鬨の声が自然とあがった。   決 戦  秀吉は姫路の城内で出陣を控えて、いま一度、自分の考えを整理していた。今度ばかりは、己の力で明智光秀を破らねばならない。鳥取や高松のように戦をしない包囲戦では、天下取りにはなれない。秀吉はいつのまにか、信長亡き後の織田家を自分が受け継ぐ大望を考えていた。信長公の生前には夢にも考えなかったことであった。  大きな戦の前には必ず勘が働いた。勝ち戦と負け戦が奇妙に分かったのである。勝ち戦の時は、勝つとは分からなくても不安感は少しも感じなかった。桶狭間の時も、浅井氏が裏切った敦賀、木の芽峠での殿軍の戦いも、怖いと思わなかった。しかし毛利勢と上月城で向かい合った時や、上杉勢と加賀の地で戦った時は、最初から勝てる気がしなかった。どれもが、その勘は奇妙なことにすべて合致した。  秀吉は備中高松から無事にこの姫路に帰れたことで、すべての運が自分についていると信じきれた。自分の手持ちの兵力は一万五千のみ、相手の光秀も一万五千、兵力は互角である。あとは味方をどちらが多く取るかで決まる。これから起きる明智との戦をそう見通していた。  六月八日の終日、ある知らせを一日千秋の思いで姫路城で秀吉は待っていた。それは池田、中川、高山勢らの寄騎の合否であった。大坂にいる神戸、丹羽の軍勢は敵にはならないであろうが、必ずしも自分を応援するかどうかは自信がなかった。  そのころ、高槻城の高山右近と茨木城の中川瀬兵衛、そして有岡城にいた池田勝三郎も、それぞれ秀吉が派遣した使客を迎えていた。  高槻城には、姫路から休まずに一気に黒田官兵衛がつっ走ってきていた。四年前の荒木村重謀反の時も、信長が一番先に翻意させたかったのが高山右近であった。今回も右近を光秀に取られてはいかんという強い思いが、最初から官兵衛の脳裏にあった。  三十歳になったばかりの高山右近が、疲れ切った官兵衛をさわやかに優しく迎えた。 「官兵衛殿、大儀でござった。備中では、うまく毛利と和議を結ばれたとか」 「信長公が一日早く身罷っておられたら、筑前殿もわしもこの世にはおれんかった。毛利とは間一髪だった」  右近は、さもありなんと大きくうなずいた。 「ドンシメオンさま、あなたの考えは話さなくてもわかっております。このジュスト、信長公には命とわが親族を助けて頂いた恩義がございます。このたびは、喜んで秀吉殿の弔い合戦にお味方申す所存。何なりとお申し付けくだされ」  慇懃に、すらすらと官兵衛に本意を打ち明けた。官兵衛は奇跡的に有岡の石牢で命が助かってから、右近の仲介でキリシタン教徒になっていた。右近は真実を述べるために官兵衛を洗礼名で呼んだのであった。 「ジュスト殿、有り難い。わが殿は多分、尼崎あたりに、明後日には陣をはられると思われます。戦場はいづれにしろ淀川沿いの、この付近になりましょう」 「わかっております。筑前殿にはそれがしが先鋒つかまつるとお伝えくだされ。御懸念ならば、誓書なり人質をお渡しするが」 「はは、それにはおよばぬ。この官兵衛、罰があたりまする」  官兵衛は明るく笑って腰をあげた。  一方、茨木城では中川瀬兵衛が秀吉の家臣、古田佐介と向かい合っていた。もともと左介は瀬兵衛の娘婿であり中川家の家臣であった。瀬兵衛が四年前に荒木村重を裏切る時、その使者として秀吉の陣所に交渉に行った人物である。左介は、その縁で秀吉の家臣になっていた。今回、秀吉は逆に瀬兵衛の説得に佐介を派遣したのであった。  しかし、瀬兵衛は端から佐介の話など聞いていなかった。 「筑前も偉くなったものだ。大殿の弔い合戦を、猿が仕切ると言うのか」  瀬兵衛は朝から酒を飲んでいた。酒臭い息を吹きかけてきた。瀬兵衛は、武略のない秀吉を小馬鹿にしていた。昔から刀、槍の使えぬ侍は侍ではないと、頭から信じきっていたからである。 「金子五十枚で、この瀬兵衛を使おうと言うのか。傍《かたはら》痛いわ。光秀は、この摂津一国をわたそうと言っておるのだぞ」  瀬兵衛の目の前には、佐介が持参した黄金色の延べ棒が無造作に置かれていた。 「父上、しかし惟任殿は織田家にとってはすでに逆賊。他の織田家の武将たちが素直に馳走しますかな」 「わしは、どちらの配下にもならぬぞ。胸くそ悪い。しかし、信長には命を助けてもらった義理がある。弔い合戦にはこの瀬兵衛の忠節を大いに天下に示してやろうではないか。のう、左介」  内心、舅の悪態と頑固さに閉口していた。左介にとって中川家はもはや所詮、地方の一豪族にすぎなかった。残念ながら、今は筑前守の方が天下を動かす器量を備えていると思っていた。事の次第は別にして、舅が秀吉軍に与力してくれれば自分の役目は片がつく。  佐介は、酔って思考が利かなくなった瀬兵衛から弔い合戦参加の誓書を無理やり書かせると、姫路に戻ると言って早々に茨木城を立ち去った。  荒木村重の旧領を引き継いだ池田勝三郎には、同じく信長の馬廻りであった堀久太郎が有岡城で面談をしていた。 「久太郎、浪人あがりの光秀が大殿と信忠殿を手にかけたことは、どうあっても許せぬ。光秀の首を、この手でかっ切ってみせるわ」  勝三郎は肉づきの良い広い肩を震わせながら、久太郎に熱ぽく訴えかけた。信長公とは乳兄弟であっただけに、悲しみと憤怒の思いは誰よりもことさら強かった。 「池田殿、この堀久太郎が皆々の内では、生前、最後に信長公にお会いしたことになりまする。それがし一人でも大殿の仇を討つ所存であったれば、そのお言葉何よりも嬉しうござりまする。秀吉殿も同じ気持ちと思われます。この上は、ご一緒に弔い合戦にお力添えをくだされ」  正直、勝三郎は、秀吉の配下に入ることは気が進まなかった。しかし自分の手持ちの兵は僅か三千、残念ながら秀吉に合力《ごうりき》せざるを得ないと思った。  昼過ぎに秀吉は細作を通じて、待ちに待った朗報を受け取った。池田、中川、高山がそろって秀吉に味方するという誓書が手元に届いたのである。長岡與一郎は再度、懇切丁寧に、自分は中立を保つと、姫路に書状を送りつけてきていた。  秀吉は、これで光秀に勝てたと確信した。寄騎《よりき》の三家を合わせると、兵力は少なくとも一万は増える。あとは光秀につくと思われる大和の筒井順慶を何とか思い止まらせれば、戦の勝利は間違いないと判断した。早速、摂津勢の合力を知らせた書状を大和の筒井順慶宛に送った。勿論秀吉に味方せずとも、兵を動かさねば所領安堵するという誓書を入れていた。  六月九日、一番鶏の鳴く頃、秀吉は子飼いの兵一万五千全員に進軍を命じた。姫路城の留守居は義理の弟浅野長政一人に任せて、兵は残さなかった。  負けた時にはこの城には帰らないと、最初から決めていたからである。兵士たちもそんな大将の心意気を知ってか、意気軒昂であった。路は一路、山陽道を東へ。どこで光秀と一戦交えるか、誰にもわからない行軍であった。  その日の京は雲一つなく晴れ上がった。吉田兼和と近衛前久は正式な衣冠に身をつつみ、九条、一条の公家たちと一緒に白川口まで、坂本から山中越えで上洛してくる明智日向守惟任光秀を心待ちに迎えに出ていた。  水色の桔梗の吹き流しと幟が夏風に心地よく風をはらんでいるのが山間に見えると、やがて木々の青葉の間に赤、紺、黒、紫縅の甲冑が揺れ動いてきた。騎馬武将のかぶった兜、足軽の持つ長槍、薙刀などの穂が朝日に映えて、絵巻物を見るような光景であった。天下人、明智光秀の上洛であった。  しかし、光秀の軍勢はわずか千名に満たなかった。洛外の上鳥羽で織田の大坂勢に備えさせるために、明智光忠に二千の兵を渡し先行させていたからである。  それに、光秀の心は天気に反して少しも晴れていなかった。それは、坂本城に昨夜届いた長岡與一郎からの書状であった。驚くべきことに、長岡親子は髻を払って丹後宮津城で謹慎しているという内容であった。光秀にとって最も親しい友人であり親戚でもある長岡親子が自分に味方しないということは、どうしても考えられなかった。斧で我が頭を打たれたような衝撃であった。  昨夜、心乱れながら、與一郎に与力懇請の書状を書きつづった。天下のことはすべて嫡男忠興に任せると説得したが、光秀の心は空虚であった。長年の勘で、與一郎が信長親子を討ったことに納得していないとわかっていたからである。  光秀は公家一同の迎えを受けると、取り敢えず吉田山の兼和の自宅で休息することにした。そこで甲冑を脱ぎ、内裏に参内するために肩衣に着替えた。そして、朝廷への献上品の用意を家臣に言い伝えた。  用意した献上品は、すべて銀の板棒であった。朝廷に五百枚、京都|五山《ござん》に百枚宛、大徳寺に百枚、そして吉田兼和に五十枚の銀を贈る予定にしていた。  安土城の金蔵に納められていた銀を持ち出して使用した。前年、歳暮として秀吉が剛毅に信長に贈った千枚の銀も、そのまま使われずに残っていた。光秀には、誰に分け与えても少しも惜しくない金子であった。合わせて光秀は重臣の伊勢貞知に上京、下京中の地子銭《ちしせん》を免除する布れを出すことを命じた。何事も、世事に敏感な京町衆の人気を考えてのことであった。  朝廷も町衆も、光秀の態度にすぐに歓迎の意を表した。光秀を、主殺しなどと表だって非難する輩は誰もいなかった。  内裏参内後、兼和の屋敷でまだ日の明るい内から夕餉を始めた。相伴は、光秀の気のおける友人である吉田兼和、里村紹巴、津田宗及らであった。  紹巴と宗及は愛宕山の連歌会では光秀の逆心を知らなかっただけに、無事に事がなしとげられたことを我がことのように喜んだ。事の是非は別として、光秀がしくじれば同罪として自分たちの命もなかったからである。会食者は皆、信長のいない世界の解放感に浸っていた。  食事の中頃、急に伊勢貞知が来室し、光秀の耳許に何やら囁いた。光秀の顔が急に険しくなった。自分の表情の急変を隠せないと思ったのか、 「これより上鳥羽《かみとば》に向けて出陣せねばならなくなった。御一同、失礼つかまる」  軽く会釈をすると、すぐに立ち上がった。  兼和が心配気に、 「光秀、織田との戦か」 「うむ」  何も言わずに部屋を出た。残された三人は不安のまま目の前の食膳を見つめていた。光秀は取り敢えず甲冑も着けずに、陣羽織だけを羽織ると馬に飛び乗った。先行する明智光忠の本隊に一刻も早く追いつきたかった。伊勢貞知から聞いた言づけは、信じられない言葉であった。 秀吉がすでに姫路に帰っている、という知らせであったからである。  光秀は自問自答した。なぜだ。秀吉が中国からどうして帰れたのだ。毛利は、どうして秀吉を逃がしたのだ。加勢のない秀吉軍が毛利軍の包囲を解いて備中から帰れるとは、どうしても思えなかった。多分、秀吉一人だけが高松から駆け戻ったに違いない。そうしか考えられない。きっと、そうに違いない。光秀はそう自分を納得させることで、いらついた心を安心させるしかなかった。  上鳥羽で、光秀は明智光忠の軍勢と合流した。しかし、肝心の光忠の姿は見えなかった。二条城攻めで右腕に受けた銃弾の傷が思ったより悪化し、急遽、京の知恩院に治療を受けに行っていたのである。  光秀は仕方なく一人で、藤田伝五が滞陣している下鳥羽に向かった。大和の筒井順慶の軍勢とそこで落ち合う約束を聞いていたためである。闇夜の上鳥羽を出る頃から雨が降り出していた。冷たい雨であった。  真夜中に下鳥羽に着いた光秀の前に、藤田伝五もいなかった。伝五は二里ほど離れた洞ケ峠で、郡山から来る筒井順慶の軍団を一足早く待ち受けるために出かけていた。下鳥羽の南殿寺に、光秀は明智軍の本陣を作るよう命令した。摂津の勝龍寺城にいる溝尾庄兵衛と、明日にも参陣するであろう筒井順慶を呼んで、軍議をここで開こうと考えた。少なくとも順慶は三千、無理をすれば五千の兵を動員できると光秀はふんでいた。二万の兵が集まれば、何とか秀吉に対抗できると思った。  同じ頃、大和の郡山城では、筒井順慶と家中第一の侍大将島左近が顔を突き合わせて密談を計っていた。順慶は二年前の天正八年に、織田信長から大和一国を任されていた。その折、武略に優れた島左近清興を一万石で召し抱えたのである。  筒井順慶はもともと、大和筒井城主筒井|順昭《じゅんしょう》の息子であった。しかし父が死んだ時、十歳と幼かったために、家臣の松永久秀に城を乗っ取られてしまうことになる。そこで落ち延びた興福寺で得度し、名を藤政から陽舜房順慶《ようしゅんぼうじゅんけい》と改めた。しかし、幸運にも明智光秀が仇の松永久秀を天正四年に討ってくれた結果、家督を継ぐ事ができた。その意味で光秀は、舅というよりも命の恩人とも言っていい関係であった。  順慶は大名というより、僧装束がよく似合った城主であった。左近のいかつい体と比べると、対照的に女性的で繊細であった。 「左近、いかがしよう。明智の使者の藤田伝五という者が参っておる。秀吉からは、兵を動かさねば所領安堵すると書状がきているが」  島左近は、ゆっくりと太い声で答えた。 「残念ながら、明智光秀殿に与力する大名は少ないかと。秀吉は、すでに明石まで駆け上がっておりまする。秀吉が中国からここまで駆け戻れたのは、毛利と手打ちができた証と思われます。したがって摂津勢らも秀吉につく公算が大でしょう」  左近は謀にも長けており、細作《さいさく》、物見を使った情報には詳しかった。 「しかし、日向殿に加勢せぬ訳にもいかんし、弱ったな」 「河内におられる神戸信孝さまが津田信澄殿を手打ちになされて、その首を謀反人の一味として堺の町にさらしたとも聞いております。いづれにしろ、ここ暫くは日和見がお家の為と思われますが」 「仕方あるまい。兵をこの郡山城に戻そう。それから、とも子と一緒に光慶を光秀殿の所に返そう。さすれば、当面の義理は立つ」  息子定次の嫁は光秀の五女とも子であり、養子の光慶は光秀の次男であった。順慶は二者択一の場合いつも、戦わない選択をした。長年の修業で、殺生を自然と避けていたのかもしれなかった。  左近は女々しい案だと思いながらも、何もそれ以上言わなかった。  六月十日は朝から本降りの雨になっていた。淀川の川面に白く靄がかかり、川岸の蘆の原を通しても洞ケ峠の方向には何も見えなかった。光秀は不安のまま本陣の床几に座って、順慶をひたすら待ち続けた。  相変わらず、光秀の許には何の先ぶれも、誰の参陣もなかった。奇妙な静寂が周りを覆っていた。光秀は考えたくない考えを考えざるを得なくなっていた。この自分を誰も応援しないという事実であった。  答は明白であった。近い内に秀吉や池田らを中心とする摂津勢と神戸信孝率いる大坂勢が、この京を目指して駆け上がってくるということであった。兵数の上では勝ち目はないように思えた。少なくとも、明智軍の二倍か三倍の軍勢を秀吉が集めていることは間違いないように予感できた。  夕刻前、藤田伝五が蒼白な顔をして光秀の陣所に現れた。伝五の背後には下ろしたての甲冑を身につけた一人の若武者が立っていた。それはなんと、筒井家に養子に出した十次郎光慶であった。しかし、光慶の供侍以外に筒井家の侍は見えなかった。  黒兜前立ての下の悲痛な伝五の顔を見て、光秀は言うことの察しがついた。 「殿、筒井殿は覚悟を替えられたかもしれませぬ。不審にも、郡山城へ塩、米を運んで籠城の用意をなされておられます。当方の問い合わせにもいずれ兵を出すと要領を得ません。山城の先鋒隊も、なぜか大和に引き返しておりまする」  伝五は郡山城で、筒井家の説得を今朝まで続けていたのであった。光秀は、伝五の言葉で仕方なく覚悟を決めた。覚悟は、他に味方を求めることはできないということであった。 「伝五、ご苦労であった。早々に淀城を固めてくれ。秀吉が姫路を発ったという」  光秀の言葉は少なかった。伝五は、頭を垂れたまま退席した。 「光慶、立派になったな。兵、五十を与えるによって、このまま、わがもとに居よ」  光慶は義父順慶の心変わりをすでに察していたが、恨むより、このまま父と共に戦う気持ちが強かった。無言で兜首を強く振った。  それから気をとりなした光秀は、使番を走らせた。安土城にいる明智左馬助の軍勢を除いたすべての明智の諸将に、下鳥羽に集結するように命じたのである。  六月十一日、雨はまだ降り続いていた。伊勢貞知、斎藤利三、四王天政孝、明智光重、阿閉貞征、御牧三佐衛門、津田与三郎、柴田勝定らの部隊長が三々五々集まってきた。  総勢は一万を少し越す程度と思われた。どの部隊の旗差物も雨に濡れて竿に巻きつき、何となく旗色の悪さを象徴していた。溝尾庄兵衛と藤田伝五は、それぞれ淀川対岸の勝龍寺城と淀城の押えとして守備についたために、二人の顔は見えなかった。  光秀は、一縷《いちる》の望みを持って斎藤利三を呼んだ。 「利三、長宗我部は間に合わぬか」  利三は、ため息まじりに頭をたれた。 「恐れながら、一両日の戦には、とても間に合いませぬ」  光秀は軽くうなずいたまま、それ以上は何も聞かなかった。こんなことなら何としても、上洛した折、誠仁親王の女房奉書《にょうぼほうしょ》でなく勅書をもらうべきだと悔やんだ。詔がない限り、主殺しの汚名を着なければならない。秀吉に比べて不利であった。  斎藤利三は利三で、本能寺の時から天下取りの戦をすでに考えていた。それは、長宗我部元親と徳川家康を動かすことであった。しかし秀吉の中国からの反転がこれほど早いとは、光秀と同じように夢にも思わなかった。利三は臍《ほぞ》を噛んだ。あと十日、余裕があれば何とでもするものを、如何せん時間がなかった。  夕方申の刻、光秀は評定を始めた。物見の知らせで、秀吉の軍勢はすでに尼崎に到着していることが確認された。敵の兵力は与力の摂津勢をいれて、二万を越しているものと報告された。  光秀はいまだに、秀吉が目の先の尼崎に到着していると聞かされても、どうしても信じられなかった。できることならば、毛利勢に事の真相を飛んで聞きに行きたい気持ちであった。  評定の結果、兵を進めて勝龍寺城と淀川を挟んだ淀城との間の平地に、明智の全軍を待機させることにした。その前面には円明寺川が流れている。敵は、天王山と男山に挟まれた淀川沿いの山崎と呼ばれる狭間部を通過しなければならない。光秀は、その山崎で決戦を挑もうと考えていた。この近くで味方の寡勢を補える場所は、そこしかなかったからである。  斎藤利三が力説した。 「敵は烏合の衆でござる。山崎の出口は兵を広げるわけにはいきませぬ。頭を抑えて天王山の山間より横を突けば、淀川しか逃げる所はございませぬ。勝利は必定かと」 「さすがは利三。わしがその中入《なかいり》を務めよう」  大声で賛意をしめしたのは、明智家中でもその勇猛さでしられた柴田勝定であった。勝定はもと柴田勝家の家臣であったが、主君の勘気に触れたため三年前から光秀の家臣になっていた。  利三の案は全員の心を捕えた。勝てるような気がした。光秀はあまり深く考えずに、秀吉軍の横腹を突く案を採用した。  その日の午前中、確かに秀吉は兵庫から尼崎に到着していた。尼崎では、有岡城から駆けつけた池田勝三郎とその手勢三千が秀吉の軍勢に合流した。  秀吉は大坂城にいる神戸信孝と丹羽長秀に、信長公の弔合戦への参加を求める正式な使者を送った。秀吉にとってはこの二人の合力が弔合戦の大義名分に必要であった。  信孝は織田家直系の遺族であり、丹羽長秀は織田家の最長老としての存在であった。それに、引き連れてくるであろう与力の兵員は、明智の兵数に決定的な段差をつけると思われたからである。したがって彼等の参陣が実現するまで、秀吉はいつまでも尼崎で待つつもりであった。  六月十二日辰刻頃、尼崎に織田家の摂津勢が集合した。中川瀬兵衛が率いる二千五百の兵と高山右近の二千、それに池田勝三郎の三千、合わせて七千五百の精鋭であった。秀吉は小躍りして、歯の浮くような世辞を三人に向かって話し続けた。  評定らしい評定もなかったが自然と、摂津勢の三人が付近の地理に詳しいので、秀吉軍の先鋒となって進むことになった。  秀吉は、皺だらけの小さな顔いっぱいに笑顔を浮かべながら、 「高山殿が一番京に近い高槻におられる故、今回は先鋒をお願いするかな。瀬兵衛殿は、二番隊として押し出して頂きたい。池田殿は三番でどうかな。御三人がおられれば、この秀吉の出番などありませぬな」  高山右近は秀吉の追従《しょう》の笑いを無視して、 「この合戦は、山崎と天王山を押さえれば勝ちでござる。一刻も早く討ちかけたい。それがし一番隊として山崎を押さえますので、中川殿は天王山をお願いいたします」 「待て、待て、右近。天王山などにいては、一番槍はつけられぬ。お主が行け」  中川瀬兵衛は口角沫《こうかくあわ》を飛ばすようにして、右手を大きく振った。池田勝三郎は三番手が不満らしく横を向いて、話をしようとしなかった。  秀吉は三人の確執を見て、すぐに手をうった。 「小一郎、それに官兵衛、お主らが天王山をとれ。摂津勢のご三人には、やはり山崎を進んでいただこう」  その言葉は、山崎の隘路で間違いなく与力の三家が明智勢と遭遇することを示唆していた。瀬兵衛は、これ以上の軍議は無駄とばかり床几から立ち上がった。右近も勝三郎も同時に立ち上り、陣幕をまくるとその場から消えた。  秀吉は腹の中でほくそ笑んだ。織田家の勇将たちがすすんで先鋒を務めてくれれば、鬼に金棒であった。  高山右近は、淀川沿いの路を山崎に向かって北上した。中川瀬兵衛は天王山の麓を目指し、池田勝三郎は貫禄からか自然と中央の西国街道を進んで、円明寺川の対陣一番乗りを考えていた。円明寺川を越せば、明智方の勝龍寺城と淀城は視野に届く距離であったからである。  日が暮れようとしていた。中川瀬兵衛の嫡男で十五歳になる中川藤兵衛は、初陣をいま飾ろうとしていた。藤兵衛は、父にねだって先駆けの許しを得た。  百名の鉄砲足軽隊と百騎ほどの騎馬隊を連れて、円明寺川を渡ろうとした。藤兵衛は、先手として勝龍寺城を夜討ちするつもりであった。父と同じく、弔い合戦の功績を秀吉のひとり占めにさせるつもりはなかったからである。  しかし勝龍寺城側からは、円明寺川を白いしぶきをあげて近づいてくる中川隊をはっきりと目視していた。溝尾庄兵衛は先手を打って、手勢百名程の鉄砲隊城の濠の前面に流れている小畑川を渡らせ、御坊塚と呼ばれる小山の背後に隠させた。中川隊からはその御坊塚が目隠しになって、鉄砲隊の行動は見えなかった。  鉄砲隊が隠れ終わると庄兵衛は大手門を大きく開かせ、桔梗の紋の旗差物を立てた騎馬隊五十騎を敵を迎え討つべく濠橋を渡らせた。一団は円明寺川に向かって走った。  寄手の指揮者である中川藤兵衛は敵の騎馬団が突進してくるのを見て、若い血が全身に駆け上がるのを感じた。そのまま、思いきって鐙で馬の腹を蹴った。 「続け」  その声で、騎馬隊全騎が後に続いた。鉄砲隊は火縄に火を付けたまま、騎馬の後を追った。  御坊塚の手前で、両軍の騎馬が激しくぶつかった。槍と刀が馬上から繰り出され、暗闇に火花が散った。いつしか、数に勝る中川軍が明智の騎馬を押し出し始めた。  「引け」という声とともに、一斉に明智軍が城に向かって馬を回した。  籐兵衛はしめたと思い、そのまま追撃にかかった。が、その瞬間、乾いた音を聞くやいなや、兜の前立てに衝撃を感じ地上に叩きつけられた。籐兵衛率いる騎馬隊の多くが、御坊塚の背後からの射撃で負傷した。  急いで追いついた中川軍の鉄砲隊が応戦しようと銃を構えた瞬間、今度は馬蹄の音が背後から聞えた。軍馬の馬上に白刃が見えるやいなや、血しぶきと悲鳴があがった。逃げた明智の騎馬軍が御坊塚を逆に半周して、駆け戻ってきたのであった。  主のいない裸馬が戻ってくる姿を対岸で見ていた中川瀬兵衛は、激怒した。すぐに本隊の五百を加勢に出した。しかし明智の軍勢は勝龍寺城に駆け戻り、血に濡れた蘆の原にはすでに誰もいなかった。  憤懣《ふんまん》の収まらぬ瀬兵衛は、城の回りの蘆草を焼かせた。火は、これから流される大戦の赤い血のようであった。   天下分け目  六月十三日はまたも朝から霖雨が降っていた。秀吉は本陣を天王山の一里手前の富田まで進めていたが、いらいらしながら神戸信孝の参陣を待っていた。まさかと思うが、信孝が来なくては戦を仕掛けることができなかった。信長の遺児、三七信孝なしでは単なる織田家中の喧嘩になってしまう恐れがあった。この危急存亡の折、妻の祢が信長公の外腹であると言っても意味がないと自覚していた。  午刻に、秀吉の使番が本陣に飛び込んできた。 「神戸信孝殿、丹羽長秀殿、兵五千を引き連れこちらに参られます」 「来たか。よし、馬を引け」  すぐに秀吉は雨の中、馬を走らせた。高槻の近くの大塚という淀川沿いを一行が北上していることを、背後から追いかけてきた袰武者が馬上の秀吉に大声で伝えた。  幟に描かれた黒い揚羽蝶が、煙雨にゆっくりと飛ぶように近づいてくる。伊勢の名門神戸氏の紋所であった。神戸信孝は駕籠に乗っていた。秀吉は、駕籠の前で馬から飛び降りた。重臣の岡本良勝が秀吉をさえぎったが、構わずに大声をあげた。 「羽柴秀吉、三七殿をお迎えに参りました。お父上と信忠さまの弔い合戦の用意はすべて万端整えております。何とぞ、お指図を」  秀吉の大声で、駕籠の戸が開いた。 「筑前、大儀であった」  雨が顔に当たるのが嫌なのか、信孝はそのまま駕籠の引き戸を閉めた。  信孝にとって光秀との戦はしたくなかった。恐怖心も有ったが自分は織田家の頭領として最後尾にいればよい、戦うのは家臣の秀吉たちであると、頭から決めていた。  秀吉は、泥水に膝を濡らしながら頭を下げていた。そして、天下を取るためには耐えねばならぬと、何度も心の中で繰り返していた。 「筑前、御苦労だった。遅参した。この五郎左、おぬしの手配に従う所存故、何なりとおっしゃい」  いつのまにか、丹羽長秀が目の前に立っていた。秀吉はそのまま又、泥水の前に平伏した。 今度は嬉しかった。思わず涙が出そうになり下を向いたのである。織田家重臣中の重臣である丹羽五郎左長秀が秀吉に味方するということは、名実共に秀吉が明智征討軍の総大将なれたということを示していたからである。  一方、丹羽長秀にとっては織田家を自分が切り盛りするつもりは毛頭なかった。しかしまた明智光秀や柴田勝家に組する気持ちもなかった。いま秀吉が泥水の中に膝まずいている姿を見て、同じ年齢でありながら自分よりもはるかに活力、胆力のある秀吉に、これからの運勢を賭けてみようと長秀は思っていた。  運命のその日、夏の一番長い日はまだ山崎の蘆原に始まったばかりであった。秀吉軍の先鋒はすでに山崎を通り天神馬場から三方に別れて円明寺川に向かっていた。天神馬場の湿原には大きな池があり、進軍するにはいづれにしろ軍を左右に分けなければならなかった。  池の左側の道を先鋒高山右近、中川瀬兵衛、堀久太郎らが五千の兵で進み、池と淀川に挟まれた右翼の川の手は池田勝三郎と秀吉の若手子飼いの武将たち五千が、最左翼の山の手に面する道を羽柴小一郎、黒田官兵衛の二千五百が天王山の麓を目指して進軍していた。  秀吉の本軍一万は、先鋒部隊が出発した後もまだ富田に止まっていた。昼過ぎになってから、神戸信孝と丹羽長秀の五千の兵が富田に到着した。  待ちに待った秀吉は、本軍に進軍の命令を告げた。進発の法螺貝があちこちにこだました。  秀吉は、信孝を戦闘にはできるだけ参加させないつもりでいた。今後の織田家跡目相続のためにも、信孝の影響力をできるだけ排除したかったからである。そうとは知らない信孝の部隊は、殿となって最後尾をのろのろと進撃していた。  一方、光秀は勝龍寺城から出て、前日の勝ち戦で験が良い御坊塚に本陣を進めた。本陣には四王天政孝、溝尾庄兵衛を中心とする五千の旗本本隊が並んだ。円明寺川を前にして中央に明智光重と斎藤利三らの五千、右翼に伊勢貞興、藤田伝五、御牧三佐衛門らの二千、左翼に阿閉貞征、津田与三郎らの二千が布陣することになった。  光秀の本陣では、最後の戦評定が開かれた。敵数は明智の約倍である。正攻法では勝てないと誰しもが思っていた。しかし伊勢貞興は、辛くても円明寺川で日が暮れるまで敵を押し止めて、夜襲で逆襲するべきだと、中入れの作戦に再考をうながした。  中入れの総大将を務める柴田勝定が案の定、反対した。 「夜襲では秀吉の首は落とせぬ。この際やはり円明寺川を渡り、天王山の麓で敵を待ち受けるが得策と思われぬか、貞興殿」  貞興は光秀に仕官する前は、室町幕府の政所《まんどころ》執事として将軍足利義昭に仕えていた。家柄のせいか少しも武士らしくない風貌で、明智家の武闘派からは軟弱と思われていた。  光秀も倍の敵と正面衝突しても勝てないと自覚していたので、即座に、 「貞興、松田政近と並河|掃部《かんべ》の両名に、敵が現れる前に、速やかに円明寺川を渡れと申しつけよ」  明智軍のどの武将も、この戦に勝たない限り天下は取れないと自覚していた。局面が不利でも、誰からも引くという言葉は出なかった。  かくして、柴田勝定配下の二千の軍勢が密やかに天王山に向かって進発した。にぎやかな秀吉の部隊とは好対照であった。精鋭二千が去った光秀の御坊塚の本陣はなぜか寂として、覇気は感じられなくなっていた。  明智の中入れ軍は大胆にも日中、円明寺川の上流を渡った。そして、天王山の麓を山崎に向かって進撃した。幟、大判の旗差物は、目立つために最初から持参していない。雨靄の中、二千の将兵は沈黙のまま背の高い蘆、樹木を選んで歩いた。強気の松田、並河軍の両隊長は、自分の行動が敵に洩れていないと信じていた。  しかし、秀吉に抜かりはなかった。もしも天王山を明智軍に押さえられると、山崎の隘路を進む味方の横腹に敵を受けることになると読んでいた。そこで弟小一郎に、天王山を押さえるよう別命を下していたのである。  明智軍が天王山に近づく頃、その中腹を羽柴と黒田の部隊が喘ぎながら登っていた。官兵衛は、天王山から眼下の田畑を横切っている西国街道を竹林の隙間からのんびりと眺めていた。絶景であった。戦が終ったら、ここに城を造ろう。天下人の城に相応《ふさわ》しい地形であった。  そこに、水牛の脇立兜を被った黒田三左衛門が「ご注進」と、血相を変えて駆けつけてきた。 「殿、明智の軍勢がこの先の天王山の北側を山崎に向かっております」 「与助、馬引け」  官兵衛は三左衛門の報告を聞くやいなや、大声をだして与助を呼んだ。秀吉と小一郎に知らせなくてはならないと思った。同時に、光秀の中入作戦を瞬時に見破っていた。逆手を打って敵が山崎の隘路の味方を攻撃し始めたら、天王山に隠れている羽柴と黒田の兵を山から降ろして背後から突けば、敵は簡単に崩れるとふんだ。天王山にいる味方が敵に見つからぬよう指示を出すと同時に、麓の天神馬場を進んでいる高山と中川、堀の部隊にも明智軍の近接を知らせた。  いま官兵衛は、功名を立てる最大の好機が訪れたことをよく自覚していた。黒田家は曾祖父高政以来三代にわたって、近江の国を追われてから流浪の旅を続けてきた。ようやく父重隆が播磨御着城主小寺政職の客将として仕官して、姫路城の守将になった。しかし長年、小城の城主であった官兵衛はここで手柄を立てて大々名になろうと内心張り切っていた。  あまり武術に精通していない官兵衛は、戦働《いくさばたらき》を弟兄弟と忠臣数人の侍大将に任せていた。次男黒田兵庫助、三男修理助、四男図書助、そして家臣の栗山四郎右衛門、井上九郎右衛門、母里太兵衛、黒田三左衛門らであった。  栗山四郎は有岡城落城の際、危険を顧みず官兵衛を石牢から背負って脱出させた忠臣であった。また同じく官兵衛の脱出を助けた敵方の看守、加藤の息子三左衛門も養子となり、黒田三左衛門と名乗っていた。  円明寺川を挟んで明智、羽柴両軍が集結していた。光秀は複雑な気持ちであった。見える旗差物の紋所は、どれもよく知り過ぎていた。左翼に見えるのは池田勝三郎の木瓜《ぼけ》の旗であり、中央には高山右近の赤白段々に十字と、中川瀬兵衛の柏の旗が靡《なび》いていた。あやつらが自分についていれば秀吉に万に一つも負けないと、悔しかった。  どこかで道を間違えた。やはり、信長を討ったことは許されないことであったのだろうか。そう自問自答している内に、円明寺川の右翼で鬨の声と寄せ太鼓の音が聞こえてきた。  鉄砲の音が激しく乱射されている。明智の中入軍が中川軍に突撃したようであった。時刻はまだ申刻頃で、日暮までには一刻以上ある。光秀は床几から立ち上がり、使番を呼んだ。 「右翼勢に、川を渡り、中川瀬兵衛の軍にかかれと命ぜよ」  明智軍の右翼勢である御牧、伊勢、藤田の二千が松田、並河勢に加勢すべく円明寺川を渡り、黒い固まりとなって突進していく。騎馬の馬蹄、足軽の足音、甲冑、草摺の擦れ音、太鼓、法螺貝、死を賭けた男たちの雄叫び、すべての音が一つとなり、形容しがたい恐怖と興奮が戦場を覆った。  同じ時、天王山の後方にいた秀吉も、こだまがはじけるような音を遠くに聞いた。内心、光秀からは仕掛けてこないと楽観していたため、前線で瞬間何が起きたのか不安になった。しかし、まもなく官兵衛からの伝令で、明智の中入軍が中川軍に討ちかけたことを知った。  満を持した明智の右翼軍が、中川軍に正面から激突した。同じく明智の中入軍に横腹を攻められていた中川軍は、あっという間に押されて五町ほど後退した。  その時、黒田官兵衛は旗本ともいえる五十騎に満たない騎馬団と侍衆に、目の前で中川隊を攻撃している並河、松田隊に討ちかかる命令を発した。羽柴小一郎の本隊は天王山の山頂近くに布陣しており、その到着を待っていては勝機を逸すると考えたからである。  大柄で長身の母里太兵衛は顔中に黒い髭をはやして黒毛の馬に乗り、同じく黒毛の水牛脇立の兜をかぶり、馬印も黒色の繰半月を押し立てていた。そのすべてが黒で統一されている姿は、異様な恐怖を明智方に与えた。  太兵衛の黒柄の三尺槍が振り落とされるや否や、怯えた数人の雑兵が吹っ飛んだ。太兵衛を見て馬を返した明智の騎馬武将も、寸時の間に馬上から振り落とされていた。母里に遅れじと、同じく大水牛の兜をかぶった栗山四郎も馬を明智軍の中に乗り入れた。その姿は、まるで本物の水牛が角を振り回しているように勇壮であった。  並河、松田の二千の部隊は天王山の横合いから討ちかかった黒田の強兵に浮き足だった。黒地に白く染められた永楽通寳の紋所が、ひときわ黒の集団の中で目を引いていた。  侍大将並河掃部はすぐに「敵は少数、引くな」という大声で味方の兵を牽制した。怖気づいていた足軽たちが逃げ足を止め、遠くから黒田の兵たちを囲み直した。  一方、中川軍の右翼に位置していた高山右近の一隊は、御牧三佐衛門の軍隊に攻めかかった。しかし、御牧の各武将は冷静に高山隊も押し返した。  戦を傍観している他の秀吉連合軍は明智強しと、背筋が冷たくなっていた。まだ戦は始まったばかりで、両軍の左翼、中央の部隊は共に武者震いをこらえて動かないでいた。  秀吉は、袰武者を天王山にいる小一郎の許に走らせた。明智の中入軍の背後を突け、という命令であった。  明智軍の先制攻撃を見て中央に位置していた池田勝三郎は麾下の全軍に、円明寺川前面に展開している斎藤利三の部隊に総掛《そうがかり》を命じた。しかし、鉄砲と三間半の長槍で守備している斎藤軍の固い守備陣を崩すことが出来ず、多くの池田の武将が川岸で打ち倒された。  その時、法螺貝の音と同時に新たな秀吉軍の集団が天王山を降りて押しかけるのが、明智の中入れ軍の先鋒隊から見えた。今度の敵は多かった。数千の戦闘集団であった。幟は金色の瓢箪である。  明智の足軽たちは、羽柴秀吉の本隊が自分たちに向かって来るものと瞬間的に思った。誰かが「秀吉が来る」と叫んだ。  その瞬間、堰を切ったように並河の雑兵たちが逃げ始めた。それに連れて、松田の部隊も逃げ始めたのである。加勢に駆けつけたのは天王山にいた羽柴小一郎の部隊であったが、幟も旗差物も秀吉とほとんど同じために、明智の足軽たちが見間違えたのであった。  合戦は、恐怖と恐怖との我慢比べでもある。どちらか、死の恐怖を強く感じた方が負けるのである。決して、兵の強弱で戦の勝負が決まるわけではない。恐怖感に駆られた人間が、戦で殺されるにすぎないのである。どんな勇将でも、十人の敵と同時に戦うことはできない。一度、対立の限界に負けた明智軍の恐怖感は、津波のように右翼先鋒の全線に伝わっていった。  中川、高山軍を押し込んで優位に戦っていた柴田勝定は、背後から味方が逃げ始めたのに気づいて驚いた。  「引くな」と怒号を挙げたのも空しく、前面から新手の堀久太郎の部隊が突撃してきていた。戦場の雑兵たちは敏感である。大将以上に、戦の流れを感じる能力を持っている。いままで劣勢であった中川、高山の部隊も急に元気になり、逆に明智軍を押し返し始めた。  秀吉は麾下の軍勢が明智軍の右翼を押し返し始めたのを見て直ちに、まだ動いていない右翼の木村隼人と中村一氏の部隊二千に、前面の津田信春隊を攻撃するよう命令した。二人とも、近江長浜時代に雇いいれた武将たちであった。右翼の軍勢が喊声をあげて円明寺川を渡り、津田隊に突撃した。  明智軍の中で正直、一番手薄と思われたのが、左翼を守っている津田与三郎と阿閉貞征、小川祐忠の部隊であった。津田与三郎は光秀と同じ時期に室町将軍足利義昭に仕えていたが、光秀が織田家で出世するとともに義昭から光秀に仕えた。阿閉と小川はもと近江浅井長政の家臣だったが天正元年、信長に降り、その後、光秀の配下に入っていた。  左翼を守ることになった三人共、なぜか光秀の謀反に心から賛成ではなかった。自然と、この山崎の戦でもいかにして自分の身を守ろうかと、戦が始まった後でも考えていた。案の定、戦が開かれるや、鉄砲の持ち数が一番少ない両隊の将兵たちはもろかった。戦らしい戦をせずに後退を続けた。秀吉軍はここを一気呵成にと、加藤光泰の五百が新たに加わった。  戦が始まって半刻も経たずに、明智軍の右翼と左翼が崩れ始めた。斎藤利三と柴田勝定の率いる中央軍はよく戦い一歩も引かなかったが、序々に押された左翼と右翼の部隊とともに秀吉軍に包囲される形になっていた。  いまや戦は混線となり、敵味方入り乱れた最後の局面に入っていた。明智の将兵の誰もが明智の負け戦を覚悟していた。なぜなら秀吉の本陣二万の将兵はまだ戦に参加せず、後方で静かに待機していたからであった。いまあの軍団が動けば明智軍は完全に崩壊すると思われた。  秀吉もその時機を間違う筈はなかった。秀吉の総攻撃の命を受けた袰武者が忙しく動くと、秀吉本陣の紅の吹貫に金の軍配の馬標が寄せ太鼓の音と同時に動き始めた。その音を合図に黒津波のような騎馬集団が血みどろの戦いを続けている草原に向かって新たに突進していった。  本陣にいた加藤虎之助と福島市松も勇んで馬を蹴った。虎之助は高山勢に切り込んでいる馬上の武者を見つけた。良き獲物とばかり馬を一気にその軍団の中に突っ込まさせた。 「羽柴筑前守秀吉の馬廻り、加藤虎之助、お手合わせいたす」  虎之助の大音声に、 「明智日向守の家臣、近藤半助」  虎之助は相手が答える暇もなく、二尺九寸の長刀を真一文字に半助の胴に向かって差し込んだ。半助は受け切れずに下腹部を刺され、鞍からまっさかさまに転落した。虎之助はすぐさま馬から飛び降りると、難なく半助を組み従え首を落とした。  一方、福島市松は奇妙な相手と必死に戦っていた。その武士は宝蔵院流の十文字槍を器用に使いこなし、指物には笹のついた本物の青竹を背に差していた。市松は力まかせに、槍をたたいて相手をねじふせようとした。しかし敵は身軽にそれをかわすと、 「可児《かに》才蔵、それがしより強い相手に初めて見参した。名を名乗れよ」 「羽柴秀吉家臣、福島市松だ」 「首を取られては困る、御免」  可児才蔵と名乗った男は、戦場の中を悠然と走り去った。  明智光秀も秀吉の本陣の動きを見て、自分の旗本千名に攻撃を命じた。どこまでこの千名で支えられるか、光秀の心は暗かった。泥まみれの使番が悲報を伝え始めた。 「松田、並河ご両名討ち死に」 「伊勢貞興さま討ち死に」 「御牧三佐衛門さま討ち死にされました」  激戦が続く右翼では、侍大将の伊勢と御牧が壮絶な討ち死にをすでに遂げていた。そこに手勢百名ほどを率いて、柴田勝定が光秀の本陣に駆け戻ってきた。 「殿、残念ながら負け戦でござる。それがしここで殿を勤めるゆえ、一刻も早く勝龍寺城まで引き下がられよ」  勝定の死を覚悟した諫言に、光秀は抗弁できなかった。光秀はゆっくりとうなづくと、しばし勝定の目を見つめた。これが今生の別れと、自分を納得させていた。 「殿、早く乗られよ。勝龍寺城にはまだ千名の新手が残っております。まだ、一戦できまする」  そこに馬を引いてきた人物は、よく見ると溝尾庄兵衛であった。庄兵衛の言葉で一息つくと、光秀は馬に乗った。日はようやく暮れ始めていた。馬に鞭を入れると、背後を見ずに勝龍寺城を目指した。  斎藤利三の部隊は四方を敵に囲まれながらも、誰も引かずに身体の動かなくなるまで、渾身の力をしぼって槍、刀を、暗くなり始めた蘆原の中で振り回していた。利三は、次男の利光を乱戦の中で呼んだ。 「利光、そなた、存三《よしみつ》、角右衛門と共に、殿をお護りしてここから落ち延びよ」  利三は、息子三人を戦場から落ち延びさせることによって、明智家と斎藤家の存続を考えていた。利光は父親の意向を理解したのか、素直にうなずいた。 「父上はいかがなされます」 「心配するな、まもなく日が暮れる。その後は闇にまぎれて落ち延び、坂本まで参る」  近くでやはり奮戦していた存三が、大声で返した。 「一足お先に、殿を坂本までお連れ申します」  利光は愛馬に跨がり、手綱を右に引いた。光秀本陣の白紙の馬印が、勝龍寺城に向かって戻ろうとしている光景が視野に入った。いまや、全戦線で明智軍は敗走し始めていた。  藤田伝五は全身に刀傷を受けていた。どこを切られているのかわからなかったが、痛みと血の暖かさが不思議な感覚を伝五にもたらしていた。子息の伝兵衛が、歩けない伝五を背中に担いで馬に乗った。取り敢えず、淀城まで逃げるつもりであった。  殿を受け持った柴田勝定は残った四、五百の兵を纏めると、最後の突撃を中央を進んでくる中川、高山、池田の部隊に敢行した。暗闇と人影の中に、勝定の姿は消えていった。もはや、戦の阿鼻叫喚《あびきょうかん》の怒声はなかった。静寂の中で陰惨な人殺しがおこなわれていた。奇妙なことに、殺す方も殺される方も大声を発しなかった。疲れて声が出なくなっていた。  光秀は東西二町、南北五十間の濠と土塀に囲まれた五稜形の勝龍寺城に入った。勝龍寺城は、数年前まで長岡親子が住んでいた居城であった。何度となく長岡與一郎をここに訪ね、娘玉子と忠興の祝言も挙げた思い出の城であった。  しかし今、城内の灯は消され、誰がいるのか見当がつかない暗い寂しい城であった。近くにいるのは長男の明智光重と溝尾庄兵衛のみで、阿閉貞征も斎藤利三も四王天政孝、藤田伝五の行方も知れなかった。いつのまにか、次男の光慶の姿も見えなくなっていた。光秀は、皆落ち延びてくれていることを切に祈った。  城代の三宅藤兵衛が粥を一椀、持参した。光秀は、一息で粥を腹に詰め込んだ。うまかった。負け戦の大将がまだ粥にこだわっているかと思うと、自分自身が情けなかった。死んだ家臣たちはどう思うかと考えている時に、庄兵衛の声で現実に引き戻された。 「殿、秀吉は兵を纏め次第、この城に押しかけて参るでしょう。すぐに坂本城まで落ち延びる方が良いと存ずるが」  身体が重かった。できることなら、この城にいま暫くいたかった。しかし、無理は言えなかった。遅れれば、この城から抜けることもできなくなると思えた。  雨空はいつしか晴れ上がっていた。無常に虫の音がかん高かった。円明寺川に沿って、無数の螢のような篝《かがり》火が見えた。声は聞こえなくても、酒を飲み交わして談笑している秀吉軍の姿が思い起こせた。  しかし、城の北側は漆黒の闇夜になっていた。城を抜け出すには好都合な頃合いであった。月はまだなかった。城番の三宅藤兵衛は何も言わずに、光秀と光重を裏門から送り出した。早かれ遅かれ明朝には死と対面しなければならない藤兵衛の顔は、怒っているようにも見えた。  光秀につき従う家臣は、溝尾庄兵衛と斎藤三兄弟を含め三十騎ほどであった。こんな時、左馬助が横に居てくれればと、真剣に願った。何も見えない夜道を得意でない馬に乗っていくことは、荷が重過ぎた。何も起きなければ良いと思いながら、庄兵衛の後に続いた。  秀吉軍は既に闇のとばりが落ちる前に、陣引きの貝を鳴らしていた。本陣の秀吉は勝利の喜びを顔に出さずに、苦虫を噛み潰したような顔で皺を深くしていた。夜が早く来たために、乱戦の中で明智光秀初め、主だった侍大将を討ち逃がしてしまっていたからである。秀吉の前に出された兜首の首桶は、まだ十にも満たない数であった。  秀吉は、冷静に今日の戦を振り返っていた。もし明智にあと五千の兵力があったら、勝利はどちらのものとも判らなかっただろう。数は多くても秀吉の手勢の多くが備中高松からの大返しで体力は疲労し、長時間の戦はできていなかった。  与力の池田、中川、丹羽らの兵は勝ち戦とわかるや、勝手に戦うことをやめてしまっていた。外様武将は誰しも光秀の首をは追いかけようとせずに、すぐに酒宴に浸っていた。  秀吉には、それが面白くなかった。神戸信孝は、当然のごとく顔も出さなかった。与力の武将たちは秀吉が天下取りの道を進んでいることを、意識的に避けようとしているかのようだった。  側に控えている主だった譜代の武将たちだけが、秀吉の顔を注目していた。すぐに追撃か、勝龍寺城攻めの布れが出るものと考えていたからである。  そこに、陣幕を手で繰りあげて高山右近が静かに入ってきた。秀吉に近づくと、 「筑前殿、勝龍寺城の城番三宅藤兵衛と申す者より、城を明け渡すという使いが参ったがいかが取りはからえば」  秀吉は喜色を取り戻した。 「光秀はどうした」 「藤兵衛によれば、すでに城を落ちて坂本城に向かったとか」 「脇坂、片桐、加藤、すぐに馬廻衆を率いて光秀を追いかけよ。まださほど遠くには行っていまい」  若手の馬廻衆は秀吉の声を聞くやいなや、それぞれ自分の馬に向かって突進した。 「堀久太郎と高山右近殿、即刻、坂本へ向かってくだされ。光秀が着く前に、坂本城を囲んでおきたい」  秀吉は、右近と久太郎を身内の配下にするため二人を先鋒に選んだ。光秀の首を挙げれば、格段の恩賞を与えるつもりであった。   逃 亡  淀川を渡る風が山崎の里に強く吹き始めていた。黒く高く聳え立つ竹藪の笹から、水のせせらぎのような音が流れていた。光秀たちは、勝龍寺城を出てから淀川を渡った。そして宇治川沿いに馬を走らせた。小栗栖《おぐるす》から山科、大津を抜けて坂本へ戻る予定であった。  馬が一頭しか走れない細い道の前方から、何本かの松明の灯が近づいてくるのが見えた。灯の動きが早いところを見ると、相手方も馬を走らせているようであった。全員が敵と感じた。  利光は光秀の馬の轡《くつわ》を取ると、道から外れて宇治川の川原の草むらに馬を向けた。相手に気づかれないように、息をひそめて馬を静めさせた。  相手の騎馬姿が見えてくると、利光の傍にいた夜目の効く弟の角右衛門が驚きの声を挙げた。 「兄上、明智の者です」  言われてみると、正《まさ》しく明智の桔梗の紋が見えた。溝尾庄兵衛が目聡く、中央の侍大将のかぶる星兜に気がついた。 「なんと、明智光忠殿ではござらぬか」  その大声で、五十騎ほどの騎馬の一団が急停止した。光忠は京の知恩院で傷を直していたが、戦が始まることを聞いて京から山崎に駆けつける途中であった。具足の下から右腕を包帯で吊った光忠は、明智軍が早くも秀吉勢に負けたとはまだ知らなかった。 「光忠、残念ながら戦に負けた。これより、坂本で再起を計ろうと思っている。一緒に同道せい」  光秀は地獄で仏に会ったような気持ちで、高ぶって光忠に話かけていた。  暗闇を通して、聞き慣れた光秀の声を聞いた光忠は驚いた。 「殿、戦に間に合わず申し訳ござりませぬ」  光忠は光秀の精彩のない姿を見ると、急に胸が熱くなり泣き声になった。その時後方から、無数の灯の列が闇の中を動いてくるのに斎藤利光がきづいた。 「追手がまいります」  間違いなく、秀吉の軍団が光秀を追いかけてきていると思えた。 「殿、ここはそれがしが引き受けまする。早く先にお行きくだされ」  明智光忠が力強く答えた。 「光重、よいか、殿をお護りして坂本城へお連れするのだ。わしは、ここで殿の身代わりになる。早く行かれい、殿」  光重は、叔父光忠の言葉に無言でうなずいた。庄兵衛も、一瞬の内に事態の推移を察していた。ここで敵を迎え撃って、少しでも光秀を逃がす時間を作らなければならない。さもなければ、全員ここで無駄に斬死することになる。  光秀もここは光忠、庄兵衛らの意見をきかざるを得なかった。暗闇で相手の表情はよくわからなかったが、万感の思いで、 「頼むぞ、死ぬなよ」  熱い思いが込み上げてきて、そう言うのが精一杯であった。  秀吉の命を受けた馬廻り組の最先頭を走っているのが、脇坂甚内であった。近江脇坂の庄で生まれた甚内は腕力が自慢で、十六歳の年に明智光秀の家臣で菅才蔵という侍に仕え、丹波黒井城攻めの戦に参加した。その時、功にはやった甚内は敵将赤井悪右衛門を討ち取ったが、抜け駆けの理由で恩賞はもらえなかった。  それを不満とした甚内は、明智家をすぐにやめた。その後は秀吉の傭兵として仕えた。戦の度に功績をあげた甚内は秀吉の馬廻りとなり、いまは五百石の禄をもらっていた。どちらかといえば秀吉と同じ環境で育ってきただけに、誰よりも秀吉の気持ちを察していた。この戦は光秀の首を取らない限り、成り上がり者の秀吉に天下は回ってこないと感じていた。  戦国の世は理屈、義理人情を越えて、力がすべてを制することを誰よりも知っていた。ここで自分を評価してくれなかった光秀を討てば、大名に出世できることを夢みながら馬を走らせていた。  前方に黒い集団が見えた。強烈な殺気を感じた。甚内は馬を止めて、後方の味方が集結するのを待った。敵は必死だろう。甚内は、死を覚悟した相手に下手に手を出せば返り討ちにあうことを、長年の戦の感で知っていた。  同じ近江の出身である片桐助作、加藤左馬助が相続いて追いついた。若い三人は光秀旗本の一群と思われる武将たちを目の前にして、緊張のあまり無言でお互いに目を見つめあった。 「そこにおられるは、明智の大将光秀殿と思われる。われら羽柴筑前守秀吉の馬廻り、脇坂甚内、見参《けんざん》」 「同じく片桐助作」 「同じく加藤左馬助、見参」  三人は、怯えを打ち消すように大声を発した。  足軽たち数百名が「わっー」という喚声とともに、黒い集団に向かって突進していった。 「懸かれ」という声で、同じく馬廻りの騎馬五十騎ほどが前方の足軽たちを軽く追い越して明智の軍勢に向かった。暗闇の中で死闘が始まった。唯一の明かりは足軽たちが持つ松明であったが、足軽は誰も敵の刃に触れる距離までは近づかなかった。  武者たちは肌と吐息で、相手に手傷を負わせたかどうか判断しなければならなかった。明智の武将たちは皆強かった。そして決して死に急がなかった。  秀吉軍の雑兵は臆病であった。味方の武将が相手に手傷を負わせない限り、討ち懸かろうとはしなかった。敵が傷を負ったとしった後、大勢で相手を囲んで切り刻んだ。肉弾戦が続き、立っている明智勢の姿が見えなくなるまでに、すでに半刻近い時間が経過していた。  甚内は二、三人の敵の侍と槍を突き合わしているうちに、光秀と思われる大将を暗夜の中に見失なっていた。光秀を討つという、千載一遇の好機を逸したと思った。  合戦は騎馬武者が雑兵、下人を指揮しおこなわれる。しかし、足軽の中でも主人に忠誠を誓う兵は一割にもみたない。その多くは戦ごとに雇った傭兵であり、戦が始まれば金儲けの切り取り強盗に容易く変身した。合戦がおこなわれた山崎の里周辺にはいつしかあぶれ者、盗賊が蛆の湧くように、いたる所に出現していた。  名の知れぬ、ある悴者《かさもの》の一団が山崎から京への道筋に隠れて、明智の落武者狩りに虎視眈々と狙いをつけていた。悴者の頭領と目される荒くれた男が、日に焼けた黒い肌を半身さらしていた。山崎の太い孟宗竹の竹林は夜、忍には最適の場所であった。  いましがた四、五頭の騎馬武者が早足で目の前を駆け抜けていったばかりである。 「よいか、手前ら。次の獲物は逃がすじゃねえぞ」  男は、周りの下人達に強がりを言った。逃がした騎馬武者たちは馬足も早く、とても悴者たちの相手ではないと、その男は知って動けなかったのである。  一刻ほどして、二頭の騎馬武者が並足で来るのが見えた。いずれも手傷を負っているらしく、肩で大きく息をしていた。男は、三間の長さの竹槍を構えた。先頭の騎馬武者は年寄りで、その武具はあまり金にならないように思えた。しかし後方の騎馬武者は兜、鎧がはるかに立派であった。  男は、明智の侍大将かもしれないと思い心臓を熱くした。魚を銛《もり》で打つように、胴鎧と左腰の草摺鎧の隙間を力一杯突いた。狙いたがわず、先端を斜めに切った竹の刃が柔らかい肉を深々と突き刺した。  しかし侍大将と思われた武将は左手で小刀を抜くと、軽く刺さった竹竿を胴から切り落とした。そのまま、獲物を乗せた馬は早足で男の目の前から消えた。  馬上の明智光忠は、熱い火箸をわき腹に受けていた。馬をしばらく駆けさせたものの、激痛は耐えがたく馬を止めた。もはや馬の鞍にしがみつくこともできずに、地上に崩れ落ちた。 「光忠殿、いかがした」  溝尾庄兵衛が馬から飛び降りた。抱き起こすと、光忠の身体はぬるぬると掴みようもないほど血まみれであった。顔は、夜目にもわかるように蒼白になっていた。 「庄兵衛、わしの首を落とせ。首は夜盗に渡すな。坂本にわしの首を、殿に今一度会いたい」  息もとぎれとぎれに、そこまで呟くと首をがくっと落とした。光忠が死んだことを知った。滑る手で鎧通の短刀を抜くと、首筋に刃を置いた。竹林を、風が一段と強い音を立てて吹き抜けていった。庄兵衛は、光忠の魂が体から抜けたことを感じた。  黒い空間を飛んでいる感覚であった。光秀は、ただ馬の背にしがみついていた。横を並走している斎藤利光が、手綱を握ってくれていることだけは自覚していた。  急に馬が止まった。 「ここはどこだ」  光秀は利光に話しかけた。 「ここは山科の付近でござりますが、いま前方に不審な姿が見えたものですから」  時刻は寅刻を過ぎているようであった。辺りは森閑として物音一つ聞こえなかった。光秀と斎藤兄弟を、黒い集団が静かに取り囲んだ。全員が見まがえた瞬間、どこかで聞き慣れた声が聞こえた。 「斎藤利光殿、伊賀の服部半蔵でござる。このまま坂本へ行かれるのはお止めくだされ。すでに堀、高山の軍勢が坂本への道を塞いでおります。ここはひとまず、比叡山にお逃げくださるのが一番かと」  利光は、服部半蔵と聞いて安堵した。十日前の徳川家康の立場が鮮明に思い出された。 「殿、ここにおる者は、さる三日の日に、宇治で家康殿をお助けした時におりました伊賀の忍びでござります」 「徳川殿はいかがなされた」  光秀が直接、半蔵に問いかけた。 「兵三千を連れて、本日、上方に向け岡崎を出立されております」  三河の兵三千は、いまの光秀にとって三万の強兵と思えた。あと四、五日があればこのような無様な姿にはならなかったと溜息をついた。  それを見た半蔵は、 「惟任殿、この際すべてをお捨てになり、三河の徳川公のもとにお出でなされてはいかがでござりましょう」  半蔵にとって光秀は、憎い信長をこの地上から抹殺してくれた大恩人でもあった。この際、何が何でも光秀を助けようと心に誓っていた。伊賀越えで家康は命を助けられたことを恩義に感じているはず、と思っていた。  しかし、光秀の心は逡巡していた。このまま一族郎党を捨てて一人逃げることが許されるものかどうか、分からなかった。その時、子息の光重が大声でせかした。 「殿、一刻も早くここはお逃げくだされ。私はこれより、安土の左馬助さまの所に一部始終をお伝えにまいります。存三、お主はわしと参れ」  長男光重にとって、父光秀なき明智家は考えられなかった。父さえ生きてくれれば、自分の命は喜んで捨てられると思った。  光秀も決心した。いま死んでは何も残らない。 「半蔵、お主にまかそう。光重、そなた、安土城の左馬助に坂本城の加勢に参れと伝えよ。父の安否に関しては一切、誰にも語るではないぞ」 「父上、ご健勝で。さらばでござる」  二人とも、この世で再び会うことはないとわかっていた。光重と光秀は左右に別れた。家臣の斎藤存三もまた、弟の利光と角右衛門に別れを告げた。 「おぬし等、殿を頼むぞ」  光重と存三は、安土を目指して暗闇の中に消えて行った。  十四日の朝が明けようとしていた。白んだ大気が、徐々に灰色の雲を赤く染めようとしていた。その雲の下に、安土城が悠然と静かに音もなくたたずんでいた。しかし城の西側の船止まりだけは、多くの武士の甲冑姿で満ちあふれていた。  山崎の戦に負けたといえ、琵琶湖の水上は明智の家臣|猪飼野《いしの》甚介の一党が固く押えており、陸路を行くよりはるかに安全であった。  明智左馬助は明智丸に乗り込む前に、後ろの安土山を振り向いた。わずか十日間の安土城滞在は、まるで一生のような長さでもあった。左馬助は、疲労困憊している明智光重と斎藤存三を先にして、明智丸の船板を渡らせた。  心の中で、安土城は所詮縁なき城であったと潔く思い切った。この上は一刻も早く坂本城で、敵を迎え討つことだけを考えていた。山崎の負け戦はすでに兵全員が知るところとなり、残った兵は僅か三百にも満たなかった。しかし今一度、妻の範子に会えることができるかと思うと、兵数の少なさもあまり気にならなかった。  同じ日の明け方、高山右近率いる先鋒部隊五百は琵琶湖と大津の見える山中峠の山頂にすでに達していた。明智の落武者にも構わず、徹夜で坂本に向かって兵を走らせた結果であった。右近は恩賞よりも、光秀をただ死なせたくなかった。  デウスの神が明智光秀をして信長公を殺めさしたと、信じていた。大いなる神の恩寵が何を目指して主君信長公をこの世から抹殺したのか理解はできなかったが、これから起こるであろう明智家の悲劇を素直に受け入れるには、あまりにも残酷すぎると右近は感じていた。  光秀はこの国の乱世を終わらせる有為な武将の一人と、前から思っていた。出来ることならば荒木村重のように、城から落とし隠遁させて生き延びさせたかった。運よく、他の羽柴の武将はまだここまで着いてはいないようであった。  坂本城を見ながら、右近は一筆の書状を記した。そこには明智光秀が城から落ち延びるまで、自分が羽柴勢の攻撃を控えさせることを大胆にも提案していた。もしその書状が秀吉に見つかれば、右近も明智の同勢ということで只ではすまないはずであった。しかし光秀を助けることが、神の思し召しと素直に信じていた右近は、何の恐怖感も思い抱かなかった。   落 城  その晩、坂本城の大広間では明智家最後の宴が開かれようとしていた。中央に明智左馬助と妻範子、夫を失った津田信澄の妻芳子、長男明智光重と筒井定次の妻とも子、親戚の妻木広忠らが寂しく座った。  誰もが無言であった。いまは、光秀を初めとする明智家譜代の臣の懐かしい顔は誰も見えなかった。言わずもがな、誰しも先にいった家族、家臣の後を追うつもりであった。  宴の後、左馬助は高山右近の使者である内藤忠俊と別室で対面していた。 「内藤殿、高山右近殿のご好意は身にしみて感じておりまする。しかし、わが主人光秀は山崎の戦からここに帰ってきてはおりませぬ。多分、どこかで討ち死にしたものと思われまする。 われらはこれより、この城を枕に冥土に参る所存」 「左様でござるか。残念ながら、身共はこれで失礼つかまつりましょう」  内藤忠俊は、甲冑姿が重そうに腰をあげた。 「ああ、内藤殿、しばし待たれよ。殿が好んで使った新田肩衝《にったかたつき》や多数の茶器がこの城にはござります。土に返すよりも、右近殿に使って頂ければ殿も喜ぶと思いますので、お持ち返りくだされぬか」  忠俊は死を前にした左馬助の落ち着いた顔を見て、つくづくこの世は無常だと思った。 「この忠俊、しかとお預かり申す」  数寄を知る者と見た左馬助の目ききは間違いなかった。忠俊の快諾にほっと安堵の表情を浮かべて、傍らの大刀を取って前に置いた。 「この大刀は国行《くにゆき》でござる。道具とはいえ、ここで滅するのも不憫と思うております。よろしければ、これもお持ちくだされ」  左馬助はそう言うと、茶器を取りに忠俊を残して別室に去った。  深夜、琵琶湖から安土山に向かって吹く風は強かった。松の枝樹が大きく揺れていた。黒装束の一団が、足早に安土城の天主閣に向かっていた。その中の大柄な男は平太夫であり、共に走っている細身の若者は荒木新五郎であった。  人気のない安土城の大手門をくぐり抜け、まっすぐに天主閣の玄関に近づくと、平太夫は笑顔で話しかけた。 「新五郎さま、これで長年の恨みも晴らせますな」 「まさか、本能寺のみならずこの安土城まで、かようにたやすく焼きはらえようとは夢にも思わなんだ」 「いかにも。それにしても伊賀者はようやりますな」 「父もこの場におられれば喜ぶものを」  しかし平太夫は、村重殿はもはや二度と人前に現れないことを確信していた。  二人は人影のないのを見ると、天主閣の中へ飛び込んでいった。  数刻後、安土城の天主閣、本丸、二の丸から一斉に赤い火花が飛び上がった。それはまるで、夜空に打ち上がる数本の花火のようでもあった。深紅の火炎が、天主の壁面をなめるように上がっていく。と思うまもなく、安土城は火炎の輪に包まれた。  安土城|終焉《しゅうえん》の姿であった。それはあたかも、織田信長成仏のための護摩壇《ごまだん》に浮き上がった不動明王のようにも平太夫には思えた。自分の役目はこれですべて終わったような清々しさを感じていた。  十五日早朝、堀秀政の軍勢三千が坂本城を取り囲んだ。昨夜、安土城が完全に焼失したことを知らされたばかりであった久太郎は、目の前の坂本城を必ず一つ残らず焼きつくす誓いを立てていた。  当然、安土城は明智勢によって焼かれたものと頭から信じていた久太郎には、明智家の所業すべてが許せなかった。すべてが卑劣で、武士の風上にも置けないと思っていた。高山右近から城内の総大将は明智左馬助であり光秀は帰城していないことを知らされていたが、久太郎の憤懣は少しも収まっていなかった。  明智左馬助は最後の時を妻範子と共に天守閣で迎えていた。琵琶湖はおだやかで、何ごともないように波が陽にきらめいていた。 「あなたが琵琶湖を渡ってお帰りになったことで、わたしは思い残すことはありません」 「わしが馬に乗って泳いでいる姿を、範子に見せたかったな」  左馬助は肩衣の上に陣羽織を羽織っただけで、武骨な甲冑は身につけてはいなかった。無言で範子を強く抱いた。範子は眼を閉じたまま、左馬助の胸にもたれかかった。  左馬助は素早く腰の吉光の脇差を抜くと、右手で脇差を返して小袖の胸の襟をひらいた。そのまま、短剣を白い範子の胸元に向かって無造作に突き刺した。  坂本城の華麗な天守閣が火につつまれるのに、それほど時間は要しなかった。明智一門は、思い思いにその生涯を城と共に閉じたのである。明智光重と斎藤存三も光秀の無事を祈りながら、火炎の中で息絶えていた。  六月十六日は、朝から明智一族の涙雨のような雨が降っていた。しかし山崎の戦で明智光秀を破った信孝と秀吉は意気揚々と京に凱旋上洛しようとしていた。一行は勝龍寺城から西国街道、そして鳥羽街道に入り桂川を渡った。  その前方の森の入口には、雨に打たれたまま衣冠を正した二人の公家が待っていた。それは権中納言広橋兼勝が、誠仁親王の使者となって太刀を授けるためであった。  秀吉は相手が勅使であることを見届けると、すぐさま馬を降りた。信孝も、あわてて秀吉に続いて下馬した。  広橋は、一本の太刀をなぜか秀吉に手渡した。秀吉は、その太刀を重々しく頭に上げて押し戴いた。信孝は神妙な顔で黙ったまま、その儀式を見ていた。それは権中納言勧修寺晴豊が考えた、光秀から秀吉に武家の棟梁を朝廷が変えた儀式であった。  京の本能寺付近は、魚の腐ったような耐えられない死臭に満ちていた。遺児信孝の命令で、明智の将兵並びに明智に味方した反逆者たちの首級《みしるし》を、同所に持参する知らせが布れ渡っていたからであった。信孝はそれらの首級を供えて、父と兄の葬儀を営む予定であった。  本能寺の廃墟の跡には、数千とも思われる首が地上に曝されていた。真っ黒に変色した首、目玉が腐って垂れ落ちている首、蛆虫のこびりついている首、縄に通されて数珠《じゅず》繋ぎになった首など千差万別であった。  その中の兜首として明智光忠、斎藤利三、溝尾庄兵衛、藤田伝五、阿閉貞征らの首級もひっそりとまとめられて道端に放置されていた。無数の黒い大きな蠅がそれらの首にまとわりついていても、誰も蠅を追い払おうという者はいなかった。  その横に一際白く、木の香匂う高札が青空に向かって立っている。そこには墨字もまだ新しく、 [#ここから2字下げ] 近衛前久は三七信孝より成敗あるべき旨 洛中に布れるものなり [#ここで字下げ終わり] とあった。本能寺の変以降、近衛前久は剃髪し龍山《りゅうざん》と号すと同時に嵯峨野に隠れた。しかし信孝、秀吉が入洛するや身の危険を察して一足早く醍醐に出奔していた。いま一人の首謀者である吉田兼和は自宅で、前久の逃げ足の早いのをくどきながら、一日と欠かしたことのない日記を震える手で破り捨てていた。光秀、前久との談合の記録をすべて抹消しなければならなかったからである。  そして奇妙にもその晩、明智の主だった武将の兜首は忽然と本能寺から姿を消した。  結の巻   楢 柴  慶長五年七月の盛日、紺碧の駿河湾を背に蒔絵《まきえ》がほどこされた二つの塗輿が、箱根の山を目指して東海道を下っていた。不二の霊峰が、付近の山々を睥睨《へいげい》するかのようにそそり立っている。輿の供を十人以上引き連れているところを見ると、かなりの身分のようであった。行列の先頭には甲冑姿の騎馬武者が数騎、先導していた。  輿の行列が止まると、中から年格好の同じような老人二人が姿を現した。口髭を生やして狩衣《かりぎぬ》を着た身形は、高位な公家のようである。 「ほう、きれいやな。不二の山はええな、兼見《かねみ》」  兼見と呼ばれた小柄な老人は、従三位|神祇大副《じんぎだいふく》の吉田兼見であった。はるか十四年前、羽柴秀吉が太政大臣になり豊臣という姓を賜った時、兼和は思い切って兼見という名前に改名した。豊臣秀吉の時代が到来して、それまでの自分と決別するためだった。  兼見に話かけた目上の大柄で体格の良い人物は、前の関白太政大臣近衛前久であった。いまは隠居して、龍山と号していた。  京から江戸の太守徳川家康を訪ねる道中に、不二山見物に輿を降りたところであった。二人にとって、江戸は訪れたことのない未知の都であった。 「不二のお山と京の東山とは、えらい違いでござりますな。そうすると、江戸の城は大坂城よりも大きいのですかな」 「どうかな。麿は駿府《すんぷ》の城しか知らんよってな」  龍山は本能寺の変の後、織田信長暗殺の下手人として遺児織田信孝に追われた。その時、家康が一時期、駿府城に匿ってくれたことがあった。前久の行状を知りながらも、手厚くもてなしてくれたのであった。それ以来、前久は秀吉よりも家康に力を割くようになっていた。  二人は街道沿いの松の樹の下で家司《けいし》が差し出した床几に腰をかけると、長年、気心知れた仲だけに、すぐにとりとめもない話を始めた。 「秀吉が亡くなって、すぐにまた戦とは。それにしても今思うと、山崎の戦の後ほど苦労したことはなかったぞよ」  不二を見ながら、龍山は昔を偲ぶように思いに耽った。無理もなかった。信長弑逆の主役であった自分を、次の天下人の秀吉が黙って許すはずはなかったからである。しかし織田家の跡目争いに端を発した秀吉と信孝の争いは、幸運にも龍山の免罪符を得ることに味方した。  秀吉は信孝を廃して、天下を取るために関白の官位取りつけに動いたのである。そのため関白の地位を得るために、五摂家の一員である近衛家の猶子《ゆうし》になることを前久に強要したのであった。 「左様でございますな。しかし、秀吉はあざとく関白のご厚意を無にして関白職を秀次に譲るとは、許せませんでしたな」  秀吉は、関白叙任の礼として近衛家に永代の家領千石を贈ると同時に、後任の関白職は前久の嫡男|信尹《のぶただ》に譲ると誓紙を入れていた。しかし天下を取ると、それを簡単に反古にして、養子の秀次に関白職を譲ってしまっていた。  龍山がいまでもそのことを恨みに思っていることを兼見が推察して、相づちを打った。信尹はそれ以来、左大臣のままで、いまだに関白に任官できないでいたからである。 「それに誠仁《さねひと》親王の譲位を認めず、お腹を切らさせるとは、今思うても胸が裂けそうですわ」  正親《おおぎ》町天皇は天正十四年、一平民の秀吉に異例の豊臣の姓を与えると同時に、譲位を決意なされた。しかし、皇位第一継承者である誠仁親王が即位することを、秀吉は頑強に拒み続けた。真の本能寺の黒幕は誠仁親王であったと、看過していたからであった。  誠仁親王は仕方なく第一皇子の和仁《かずひと》親王を自分の代わりに即位させることで、秀吉と妥協せざるを得なかった。しかし、秀吉の不忠な行為に誠仁親王は屈せずと、自害をなされてしまったのである。  今では誠仁親王亡き後の龍山と兼見の二人だけが知る、朝廷の秘密であった。織田信長と長年戦われ、秀吉に恨みを残して不運な一生を終えられた誠仁親王に、龍山は言いようもない同情の念を感じていた。それだけに、豊臣の時代が名実共に早く終わることを祈念していた。  しかし、家康がことさら頼みがあると二人を江戸に呼んだ理由が気になった。もう、昔のような譲位継承の難題は真っ平御免であった。 「関白、ところで天海僧正とは何者でござりますか」 「家康の懐刀《ふところかたな》らしいが、出自はようわからん。なんでも関東天台宗の大本と聞いておるが、気味が悪そうやな」  兼見と龍山を江戸に招いたのは、正式には家康の代理であった天海僧正であった。龍山は付き人から出された水茶をうまそうに飲みほすと、太った身体を扇子で気ぜわしく扇ぎながら、 「兼見、家康の土産には、今回も茶入れでよかろうかな」  龍山の意外な言葉に、兼見は気楽に聞き直した。 「何の茶入れをお持ちしたので。前は、何を差しあげたのでござるか」 「うむ、前は本能寺から逃げる時に命を助けてもらったので、初花《はつはな》を家康に渡した。ところが、家康も数寄のわからん男や。初花を、わしの嫌いな秀吉にすぐに献上してしまうとは」 「え、あの初花肩衝は関白がお持ちであったのか」  兼見には衝撃の話であった。初花は天下三肩衝と言われた唐物名物の茶入れの一つであった。 確か家康の家臣石川数正を通じて、本能寺の変の翌年に秀吉に献上したことを知っていた。もともとは足利義政が名づけた「東山名物《ひがしやまめいぶつ》」の一つで、織田信長が京で召しあげた最初の茶器でもあった。 「そうや、あの晩、信長から初花と楢柴を奇妙にも預かったのでな」 「げえ、楢柴もお持ちだったので」  吉田兼見は、あまりのことに全身に鳥肌がたった。こともなげに天下の名器を二つも身近な存在の龍山が持っていたことを、まったく知らなかったからである。 「本能寺の茶席で、なぜか信長は優しくてな。別れ際にこの初花をまろに渡しながら、島井宗室に楢柴と交換するよう話をしてくれと頼まれたのや。まさかあの晩、光秀が攻めてくるとは言えんかったしな。宗室は帰り際に、信長から弘法大師の千字文の掛け軸を代わりに貰って帰っていったわけや」  龍山の話のすべてが驚きの連続であった。当時、近衛前久は信長から預かった二つの名器の茶入れを、本能寺の変で焼けたことにしたのであった。誰一人として、楢柴があの強火《ごうか》に生き残ったとは思っていなかった。預けた持ち主の宗室自身が灰になったと思っていたぐらいであるから、前久はこれ幸いと自分で長年、愛蔵していたのであった。 「まあとりあえず、初花をわしが献上したとは家康も秀吉に伝えんかったので、また首がつながったがな」  その晩、二人は箱根の峻険を越して小田原に宿をとった。早速、夕飯が終わるやいなや身体が疲れているにも拘らず、兼見は龍山をせかして楢柴の拝見を申し出た。  龍山は、風呂敷に包んだ茶箱をゆっくりと紐解いた。名物裂《めいぶつぎれ》の仕覆《しふく》の中から取り出された楢柴を、兼見は赤子を抱くようにやさしく両手に抱いた。そこには、十八年前に本能寺の茶席で拝見した楢柴が目の前にあった。  肩衝茶入れは尻が丸く膨らみ青みがかった土の上に口付きの筋が二つ流れ、上薬の濃い飴色が燭台の灯の下で光っていた。間違いなく、長年、茶道の開祖ともいうべき村田|珠光《じゅこう》が愛用していた楢柴であった。 「よく、ご無事で」  兼見は楢柴の数奇な運命を思って感慨深げであった。秀吉は宗室からうまく騙され、楢柴は灰になったと思って死んだに違いなかった。 「宗室はやはり食えませぬな」 「そうや、武士も商人も気は許せぬ」 「関白、この楢柴は家康殿の話を聞いてから高く売りつけた方がよろしいかと」 「あいわかっておる」  兼見は、龍山のどこまでも、とぼけた返答に苦笑した。   暗 雲  七月十八日、日本歴史々上最大の戦になった関ケ原の戦いと呼ばれた戦の最初の日が始まった。それは奇しくも、太閤秀吉が最後に築いて薨《こう》じた伏見の城から始まった。  その日の朝、鳥居彦右衛門はむやみに忙しかった。島津勢が丸に十字の旗差物を押し立てて、伏見城の正門を叩いたのである。軍勢は三百にも満たなかった。薄汚れた徒士の武者が多く、騎馬武者はわずかであった。それに鉄砲などもあまり持っていないように見え、とても島津の精鋭部隊とは思えなかった。  しかも彦右衛門は、会ったこともない島津家十七代当主の義弘自身が現れたことで、何事かと驚いた。しかし、大手門の閂《かんぬき》は抜かさせなかった。島津義弘が何か謀略を考えているかも知れない、と思ったからである。  義弘は、兜をかぶり正式な戦姿であった。家臣|新納旅庵《にいろりょあん》が大手門の大木戸に一人近づき、口上を大声で叫んだ。義弘は既に七十歳近い老齢にも拘らず、馬上で泰然と後ろに控えていた。 「ここにおられるは、島津家当主島津義弘さまでござる。大老徳川家康公より伏見城の留守居を頼まれた由、早速馳せ参じた次第。大手門を開けさせ給え」  新納の透き通る大声にも、何の反応も城内からはなかった。再度声を挙げた。三度目の声で、ようやく城内からこだまのように遅れて答が返ってきた。それは、伏見留守居城主鳥居彦右衛門のしがわれた声であった。 「この城は、わが主人より預かりおる徳川家のものなり。他家には一切預かり知らぬこと。帰られい」  返答を聞いた新納は激怒した。 「われらはそなたの主人が頼むと、御領主に手をつかれた故に出向いた。なのに、何という言いざまか」 「わしは聞いておらん。それに、島津の殿のお顔も存じぬ。帰られよ」  そのまま、伏見城はまた静まりかえった。それでも新納が声を張り上げていると、乗っている騎馬に向かって乾いた音が飛んできた。風を切る音と同時に、近くに土煙が上がった。伏見城の矢狭間から飛んできた鉄砲の弾丸であった。  これを見た義弘と家老の長寿院盛淳は顔色を変えた。義弘はすぐさま何も言わずに、今きた島津の伏見屋敷に向かって馬を返した。島津の家臣たちも粛然と義弘に従った。徳川と島津の長い戦いの始まりであった。  長寿院は主君義弘がこの四月に家康を大坂城に訪ねた時、同席して家康の話しを聞いていただけに、腸《はらわた》が煮え繰り返る思いであった。その席上、家康は上杉征伐の話しを義弘に話しかけた。 「近々、会津へ下るつもりでおります。貴殿にも下って頂きたいが、物入のこと故、伏見城の留守居をお願いするつもりでおります。その節はよしなに」  家康はなぜか、えらく低姿勢であった。日本で一番強いと言われた島津勢に頼めば何が起きても伏見城は守れる、と思ったからであった。そして義弘は、大軍を薩摩から遠く会津へ送らずに済むので、一も二もなく快諾した経緯があった。  その昼過ぎ、今度は大坂城からの使者が鳥居彦右衛門を訪れた。使者が持参した書状の裏書きは、毛利権中納言輝元であった。彦右衛門は、ゆっくりと丁重にその書き付けの封を切った。 [#ここから2字下げ] 早速申し入れる 此の度徳川家康の上杉景勝討伐の発向は太閤様への誓紙|御置目《おんおきめ》に背き 秀頼様を見捨てて出馬したことに他ならぬ 即刻伏見城を豊臣家に明け渡し 太閤様への御恩に報ずべきものなり 大老 毛利輝元 [#ここで字下げ終わり]  彦右衛門は読みながら、先日話してくれた戦が始まるとはこのことを指していたのかと改めて主君の慧眼《けいがん》に感服していた。この上はいかなる大名がこの伏見城に攻め寄せるかと、興味|津々《しんしん》であった。徳川家というより自分の名を挙げる絶好の機会が到来したと、彦右衛門の心には悲壮感は微塵もなかった。  彦右衛門は大きな声で拝見したと言うと、使者の前でその書き付けを平然と破り捨てた。驚いた使者は憤然として踵を返して立ち去った。  使者が帰ると早速、下手な字で島津義弘の来訪と、毛利輝元からの城明け渡しの一部始終を書状に書きつけた。そして一番馬の使える使番として浜島無手右衛門を選び、江戸に向けて早飛脚を発した。  午後に入り、豊臣方の先鋒の軍勢が伏見城の本丸から遠望できる距離に近づいてきた。旗差物の家紋は杏葉《ぎょうよう》であった。肥前佐賀城主鍋島直茂の嫡男勝茂が率いる、鍋島軍勢千名の兵であった。続いて、鍋島勢の背後に第二陣が見えてきた。馬印も旗差物もすべて紺地に白の「兒《げい》」の字に統一されていた。幟には黒地に白餠三つが描かれている。宇喜多秀家が率いる一万を越す大軍であった。  宇喜多秀家は大坂城を出るや否や、一番家老の明石全登《あかしぜんと》に本隊を任せて、自分は兵二千を連れて堺に住む母のふくを訪ねていた。秀吉の死後ふくは落飾して、円融院《えんゆういん》の法名で静かに一人、堺の私邸に住んでいた。  秀家は誰よりも母を愛していた。現在の自分があるのは養父秀吉の存在であったが、その秀吉の寵を受けて備中五十七万石の宇喜多家を存続させたのは紛れもなく母の力であったことを、長年肌で感じていた。 「母上、豊臣秀頼さまの副大将として、徳川家康と戦うことになりました。総大将は毛利輝元様がお引き受けになりました。今度の戦では、母上や豪《ごう》に良い思いをさせたいと思っております」  秀家は、少年のように瞳を輝かせてふくに語りかけていた。 「秀頼様のために、しかとお働きなさい。して、前田殿はどうなされたの」  妻の豪姫の実家が加賀の前田家だけに、ふくは前田家の向背が心配であった。 「しかとはわかりませぬ。多分、大坂に味方すると思いまするが」  前田家当主前田利長がどちらにつくのか、秀家は質問されるまで考えたことがなかった。前年亡くなった父親の前田利家とは面識があったが、豪姫の兄利長とは婚礼で顔を会わせただけで殆ど知らない人であった。  前田利長は利家の死後、家康暗殺を計ったという嫌疑で、実母を人質として江戸に送るはめになっていた。それだけに、利長が秀頼に味方するかどうかは心もとなかった。  その日、秀家はふくとの短い対面を済ますと、日の暮れない前に母の私邸を立ち去った。伏見城攻めに後れを取ってはいけないと、気が急いたからである。  ふくは、門前まで吾が児を見送った。成長した秀家の颯爽たる武者振りを見ながら、はるか昔に岡山城の門前から同じように秀吉を見送った時を思い出した。もう、十八年も前のことになる。秀吉と同じように、天下を取ることができるだろうか。でも、あの子は太閤の運をもらっている。ふくは、ただ素直に昌運だけを信じていた。  秀家は馬上から母親に向かって手を振ると、兜の前立を光らせながら伏見城に向かって馬を走らせた。  その頃、小早川秀秋も京の高台院の私邸を訪れようとしていた。秀秋にとって、筑前名島城を出てからは納得のいかない毎日であった。会津の上杉攻めが、大坂に着くなり、逆に徳川家康打倒の戦に変わっていた。豊臣家のために急に家康と戦えと奉行達から言われても、素直に従えなかった。養父秀吉から朝鮮の役で不興を買い筑前から越前に国替を命令された時、家康はねばり強く何日も秀吉を説得し翻意させてくれた人であった。秀秋はその恩義を強く感じていた。  伏見城攻撃の前日、五千という大軍を洛外に残したまま高台院の邸の門をくぐった。秀秋の供侍は家老平岡頼勝一人であった。頼勝は、秀秋の直臣としてお守り役をも任命されていた。また先月、黒田如水から高台院の会見希望の言づけを聞いただけに、何を差し置いても秀秋を高台院の許まで連れてこなければならなかった。  高台院は秀秋が戦姿でない直垂《ひたたれ》を着ている様子を見ると、機嫌よく笑顔で迎えた。 「秀俊、よく参られた。久し振りよの」  生家の三好家では秀俊呼ばれていた十九歳の秀秋は、養母の前でことさら頭を低くした。 「秀俊には良い折、この祢の思いをよく伝えておきましょう。太閤秀吉さまの息子として道を違えることのないように、よう心を入れてお聞きや。太閤さまが天下のために蓄えられた大坂城の金子と兵糧米は、今度の戦ではそなたたちに使わせませぬ。内輪喧嘩をしたければ、勝手にしやれ。秀頼が成人するまでは家康殿に豊臣家を後見いただくのが一番やと、祢はそう思うております。そうは思わぬか、秀俊」  高台院の話を聞きながら、豊臣家が徳川家と戦うことに反対であることだけをおぼろげに感じた。もともと政《まつりごと》も戦も嫌いな秀秋にとって、今回の騒動がなぜ起きているのかは考えたくなかった。しかし、下手なことを言ってまた養母の機嫌を損なってはいけないと、何も言わずにうなずくだけであった。  一方、座敷の縁側で控えていた頼勝には、高台院の話は聞き漏らそうと思ってもできない一大事であった。太閤秀吉亡き後の豊臣家を内々仕切っているのは秀頼殿や淀殿ではなく、高台院であることを兵糧米の話で悟った。きっと、大坂城の大蔵の鍵はまだ高台院が持たれているのであろう。また、今度の戦を豊臣家の内輪喧嘩としか見られていないとは、思いもがけないことであった。如水の言うように、今度の戦は家康の狐狩かもしれない。不用意に動いて小早川家を狐にしてはならないと、庭の景色を見ながら考えていた。  いつしか日が陰り、生温かい風と共に、空は夕立ちが来そうな雰囲気になっていた。高台院は秀秋の心中に何の反応もないのを見ると、馳走の膳も出さずに秀秋を去らせた。 「中納言、お命を大事にしやれや」  秀秋の肩越しに高台院の冷めた声が聞こえた。  黒い空の中で夕立ちの雨が音を立てて降り始めた。高台院は、池に無数に沸き立つ雨玉模様をもの憂げにいつまでも見つめていた。ふと、書院に通じる渡り廊下に目をやって驚いた。そこに、ずぶ濡れになった一人の男が立っていたからである。よく見ると、それは秀秋の長兄の木下少将勝俊であった。 「そこにおるのは勝俊ではないか。夕立ちにえろう濡れておるではないか。誰ぞに着物を替えさせよう」 「結構でござる。それがし、武士を昨日より辞め申した。これからは、好きな歌でも詠って暮らすつもりでござります。高台院さまには長年お世話になり、一言お別れに参りました」  勝俊の言葉ですべてを察した。伏見城主である勝俊は、戦を前に城を捨てて来たに違いなかった。豊臣の一族でありながら、徳川と姻戚でもある勝俊が悩んだ末に出した結論であろう。  高台院は、秀秋には感じなかった不憫さを抱いた。すぐさま立ち上がり、濡れた勝俊の袖を引いて着替えのために居室に導こうとした。その瞬間、廊下が大きく揺れて、高台院は怯えて勝俊に抱きついた。四年前に伏見城が全壊した地震の恐怖を思いだしたからである。大きな揺れが止まっても、二人はその場でいつまでも抱き合っていた。   序 盤  七月二十日、丹後田辺城の細川幽斎の許に、大坂城を出兵した敵兵が早くも現れた。取り囲んだのは、石田三成の女婿で尾張犬山城主石川貞清と福知山四万石の城主小野木重次を中心とする丹波、但馬の武将たちであった。重次は、石田三成の家老島左近の娘を嫁にしていた。左近から事前に事の次第を聞いており、大坂方の決起と同時に兵を動かしたのである。  丹波山家城主の谷|衛友《もりとも》、摂津三田城主山崎家盛、但馬出石城主の小出吉政、但馬豊岡城主の杉原長房ら、じつに十四の近隣の大名が集結した。丹後の国境を越した兵力は、一万をはるかに越す大軍になっていた。  どの大名にも、石田三成を含めた四奉行からの細川家事違いの条の下知状が事前に廻ってきていた。徳川家に随身した事違いの是非よりも、城主忠興が細川家の全軍を率いて会津に向かった後、本城である田辺城には隠居した細川幽斎とわずかな手勢しか残っていないことを知っていた。忠興のいない間に田辺城を落とせば、丹後と若狭が簡単に手に入ることを皆知って集まっていた。蜜にむらがる蜂、蟻のたぐいであった。切り取り御免の朱印状を手にした戦国大名の考えることは皆同じであった。  しかし田辺城を取り巻いた武将たちは、この小城一つ攻め落とすために一万余の軍勢を送った大坂奉行たちの軍略のなさを逆に小馬鹿にしていた。  一万を越す軍勢の侵入に驚いたのは、留守居の細川幽斎も同じであった。秀吉の死後すぐに家康に臣従したことで、石田三成から事違い状を出されるほど恨まれていたとは、幽斎自身思いついていなかった。しかし周囲の敵兵を見て、厭でも細川家がこの戦の標的になったことを意識せざるを得なかった。加えて、三日前に忠興の室である玉子が大坂屋敷で自刃したことを知り、気持ちは動揺していた。ただ幸いなことは、領内の久美浜城、峰山城、宮津城にいた一族の妻妾、子女たちを二日前に海路、田辺城に呼び戻していたことであった。  もともと若い日から武士道の義理や忠誠心を侮蔑していた幽斎は、侍の奉公心や義侠心を人生の役に立たないものとして、ことさら無視してきていた。したがって、玉子が人質を断って自害したと聞かされても、憐憫の情はさほど湧かなかった。  しかし、城の周りに林立する旗差物、幟を見て、腹の空かした大名が如何に多いかを知って幽斎は途方にくれた。城兵は、雑兵を入れても五百名に満たなかった。このまま戦が始まれば、一日と城がもたないことは自明の理であった。  田辺城は若狭湾に面し東西二百三十間、南北四百二十間の地所に三層の天守閣と本丸、二の丸、三の丸を配していたが、多人数が籠城できる城造りにはなっていなかった。  幽斎は城内の書庫で思案していた。城が落ちれば、ここにある長年収集した貴重な蔵書と自分が詠んだ一万を越す和歌、狂歌が灰に帰してしまう。六十八歳になったいま死ぬことは少しも構わなかったが、このまま半生を賭けた遺産が無道な人殺したちに踏みにじられるかと思うと、とても死ぬ気にはなれなかった。  和紙の紙臭い匂いが漂う藤原|定家《ていか》直筆の「伊勢物語」を手にしながら、助かるために朝廷を利用しようと考えた。自分は、古今伝授を継承する当代唯一の人物である。このままここで死ねば、古今伝授の法は永久にこの世から消えてしまうことになる。  幽斎は、ときの天皇である和仁帝の皇弟である八条宮|智仁《ともひと》親王に白羽の矢を立てた。この五月まで、京の八条殿で親王には古今和歌集を伝授していたからである。講釈は、まだ途中の夏歌で終っていた。早速、寺社奉行の前田徳善院玄以に書状を書くことにした。 [#ここから2字下げ] 当国の者残らず出陣し われら一人あい残り在国仕り候 秀頼様に対し粗略に存ぜずといえども是非に及ばざる次第に候 八条の宮に古今相伝《ここんそうでん》の箱進上いたすべく 徳善院にはお使い一人お送り下さるべくお願い申し上候 今生の念望外にこれなく候 [#ここで字下げ終わり]  智仁親王は幼少のころより秀吉の猶子となり、関白職を約束されていた。しかし嫡子鶴松が誕生した為、秀吉は親王に新しい宮家を奏請し、天正十七年に八条宮親王として即位した謂《いわれ》があった。豊臣家としては、幽斎の依頼を無下に無視する訳にはいかないことを見越した書状であった。  それと並行して娘伊也の夫の吉田兼見を通じて、いま朝廷の陰の実力者一番である近衛前久に内密に依頼することも忘れなかった。すでに二人が江戸に出立して京に不在であることは知らなかったが、内裏の助けがあるまでの時間稼ぎに村人を使ってある噂を同時に流させた。それは、勅命で内裏から田辺城に援軍が来るという噂であった。幸運にも、包囲した武将たちは勅命という言葉に気おくれして本格的な攻撃を控えたのである。  一方、大坂に入った吉川広家は毛利家の総大将であり、豊臣方の総大将でもある毛利輝元から、毛利軍五万の総指揮権を委譲されていた。しかし、広家は大坂城に詰めずに益田、熊谷、宍戸らの家老たちを大坂城に残して、木津の毛利屋敷に単身戻っていた。  一人静かに、これからの事態をどう乗り切るべきか思案したかったからである。ただ大坂城を出る際、毛利家重臣の福原広俊には小声で自分の意志を伝えていた。 「福原殿、不肖毛利の興廃を握る拙者としては、徳川と戦わぬ算段をするのが正しい務めと思っております。戦が仮に始まったとしても、大殿をこの城から出してはなりませぬ。その時は毛利が亡くなるとき」  広俊も大坂城に入ってからは、正気を取り戻していた。 「分かりました。くれぐれも頼みますぞ、徳川のことは」  広俊は、細い腰を折り曲げて白髪頭を下げた。  広家には何度考えても、安国寺惠瓊《えけい》や石田三成の言うように、家康と戦って勝てるとは思えなかった。福島正則や加藤清正などの有力な豊臣譜代大名が家康になびいているいま、軍事的には徳川の方に分があるように見えた。毛利家の興廃を賭けて、戦をしなければならない大義は見えなかった。  どうしても、この真意を家康には伝えたいと思った。しかし、毛利家当主の輝元が大坂城に鎮座している以上、今後も徳川家には遺恨なく矛は交わさないと伝えても、信じてはもらえないだろう。やはり、この危急に頼れる人物は黒田如水しかいなかった。事態は奇しくも先月、如水が書状で知らせてくれたような進展になっていた。  如水は遠く領国豊前中津にいる。しかし子息の黒田長政は、いまごろ家康と一緒に会津に向かって北進中であろう。この際思いきって、毛利家の進退を家康の身近にいる長政に預けようと決断した。長政宛ての密書を自分でしたためた。 [#ここから2字下げ] 毛利は天下に覇を唱えず ただ輝元は三奉行と石田三成 安国寺惠瓊より勧誘され大老徳川家康公の留守居として大坂城西の丸に入り候 しかし今後とも毛利家は如何なるときも徳川家並びに旗下諸侯とは戦いもうさず所存に候 如水殿並びに甲斐守長政様よりよしなに家康公にこの儀お伝え願い奉り候 [#ここで字下げ終わり]  そこまで書き留めて筆を置いた。自分の考えが正しいかどうか、振り返ってみるためであった。広家は、天下を取った頃の秀吉を見て知っていた。そこには人智を越えた輝きがあった。しかし輝元を含めて毛利家中に、天下を取る輝きと器量を持ち合わせている人物はいなかった。  さすれば如水の言うように、この度は天下を治める運と資質を持つ家康に毛利家の去就を任せることが正しいと断を下した。広家自身も、天下を動かす器量がないことは自覚していた。したがって毛利家においては、一足早く戦国の時代は終わったと観念するしかなかった。  広家は家臣の服部治兵衛を呼ぶと、必ずこの書状の返書を黒田甲斐守長政からもらってくるようにくどく念を押して、江戸に向かって走らせた。   会津出陣  江戸城で徳川家康は、上方からの連絡がまだないことにしびれを切らしていた。会津へ出陣していいかどうかの判断がつかなかったからである。しかし、いつまでも参集した大名たちの軍勢をこの江戸に停めておくわけにはいかなかった。自分が上方を去ってから、もう一月余りになる。何か事を起こすには充分な日時である。実際に二日前には、豊臣三奉行の一人である増田長盛から急使が届いていた。  京の東福寺で行われた内密の会談で、石田三成、安国寺惠瓊から家康誅伐の謀議が自分と長束広家に提案されたというものであった。しかし詳細はまた後日というだけで、密議の中身は何も記されていなかった。それは差出人の長盛自身がいやいや参加させられたという、保身のための密告状であった。  大坂城で長盛を使ってみて、その日和見の性格をよく知っていただけに、家康は最初から眼中に置いていなかった。しかし三成らが遂に立ってくれたかという安堵感と同時に、才覚者の惠瓊が敵方の参謀に加わったことを知り、予想以上にきつい戦になるかも知れぬと不安感が先立った。ただ、この書状だけでは何の意味もなかった。欲しいのは、信頼できる反徳川方|旗揚《はたあげ》の状況であった。  七月七日には会津攻撃の日を七月二十一日と決めて、奥羽の諸将にはすでに攻撃部署まで連絡済みであった。山形城主最上義光、陸奥の南部利直、秋田の秋田実季、出羽角館城主の戸沢政盛ら一万余の軍勢がすでに山形城に集結していた。会津|置賜口《おいたまくち》から米沢城を攻める予定であった。そして陸奥五十万石の伊達政宗は、会津白石城から打ち入る算段になっていた。  いらつく家康は仕方なく二日前に前備として、三男の徳川秀忠に一万五千の兵を付けて一足早く会津に先発させていた。七月初旬に江戸に参集した先鋒の客将部隊の福島、黒田、細川、加藤、田中、浅野らの大名諸侯はすでに奥州街道を北へと向っていた。  七月二十一日のその日、もう待てないと思った家康は仕方なく午の刻に出陣の法螺貝を吹かせた。徳川本軍の精鋭三万を引き連れ、輿に乗って江戸城を出立した。風のない坂東平野を、輿の中で口もきかずに暑さに耐えていた。口を開けば、また汗が身体を濡らして、いよいよ身動きできなくなるように思えたからである。  鳩ケ谷で最初の晩の宿を取り、二日目は岩槻、三日目は古河泊まりであった。明日二十四日には下野|小山《おやま》に着く。家康は小山で兵を一旦止めて、上方からの知らせを待とうと考えた。  小山を過ぎれば、道は会津の国境の白河まで一直線である。もし兵を上方に返すなら、この小山しかなかった。小山からは壬生《みぶ》、足利を通り碓氷峠を越えて、小諸から中山道に出ることができる。先鋒の細川や福島の軍勢は、すでに宇都宮あたりまで行っているころだろう。しかし上方からの連絡が来るまでは、宇都宮以北には兵を進ませる訳にはいかなかった。  家康は正直、上杉とは戦端を開きたくなかった。戦えば、強兵の上杉勢とは間違い無く長期戦になる。会津から出られなくなれば、上方一帯は大坂方に制覇されてしまう。ここは攻めてはならぬと、あらためて自分に言い聞かせた。それに隣国常陸五十四万五千石の太守佐竹家が上杉に与力することになると、間違いなく江戸から動けなくなる。  その日の午後遅く宿舎になる小山城址に、息も絶え絶えになった鳥居彦右衛門の使番である浜島無手右衛門が飛び込んできた。待ちに待った、伏見城からの伝令であった。口上によると、伏見城は七月十八日、宇喜多、小早川、鍋島、島津らの兵五万に囲まれ、城主木下勝俊は自ら城を落ちた。そして島津義弘が策略で城に入ろうとしたが鉄砲を撃って追い返した、ということであった。  家康は大きくため息をついた。思った以上の大軍であった。また、悪癖である親指の爪を強く噛み始めた。勝俊は分別をつけてうまく城から落ちてくれたことで忠誠を尽くしてくれたが、島津を敵にしたことが面白くなかった。それは島津義弘との約束を彦右衛門に話さなかった、自分の不始末であったからである。  それ以上に不愉快になったのは、書状のどこを読んでも、大坂城で何が起きているか少しも書かれていなかったことであった。家康の一番知りたいことが欠落していた。ただただ、城を枕に死守することしか書かれていなかった。 「彦右衛門は最後の一兵まで城を守ると、殿にお伝えしてくれと申しつかりました」  疲れ切った使者の悲壮な声が響いた。彦右衛門の遠慮のない大声も、どこからか聞こえてくるようであった。多分今ごろはもう生きてはいないかと思うと、急に胸が熱く詰まってきた。  涙声をさとられないように大声で、家康は渋い顔をして井伊直政を呼んだ。 「明日ここで評定をおこなう。全軍に布《ふれ》をまわせ」  側に控えていた小姓の斎藤角右衛門が動かないと見ると、家康は急に怒鳴った。 「黒田長政をすぐに呼べ」  角右衛門には大事な評定の前に、前備の大将である徳川秀忠を差し置いて、外様大名の黒田長政をなぜ先に呼ぶのかわからなかった。  龍山と吉田兼見が江戸に入った時、家康はすでに会津に向けて旅立った後であった。品川の関所で一行を出迎えた武士は、目鼻立の通ったさわやかな風体をしていた。まだ四十前と思われる武士は、落ち着いた声で名乗った。 「遠路、御苦労さまでござります。それがしは徳川家康の家臣で斎藤利光と申します。よろしくお見知りおきください。生憎《あいにく》、当主家康はすでに会津に旅立ち不在でござりますが、殿より天海僧正にお会い頂くよう指図されております。これより浅草寺《せんそうじ》まで御案内つかまつる」  吉田兼見は「さいとうとしみつ」という名を聞いて、ぎくっとした。明智光秀の腹心であった斎藤利三と同姓同名であったからである。しかしもはや古い話と、若い相手に尋ねることはしなかった。  龍山と兼見の二人は顔を見合わせながら、江戸城に案内しない家康の非礼さに失望していた。二人には、天海僧正も浅草寺も知らない名であったからである。  一行が屋形船に乗って水鳥の飛びかう隅田川を土手沿いにさかのぼると、しばらくしてこんもりとした森の中に朱色の五重塔と大伽藍が見えてきた。船中、在原業平《ありわらのなりひら》の詠った都鳥を感無量の思いで眺めながら、随分遠くまで来たことをあらためて兼見は実感していた。  二人は、浅草寺の広い境内の中にある小奇麗な方丈に案内された。方丈の広縁から見える中庭は、白砂青松の石庭になっていた。所々に無造作に置かれた庭石の片隅には、青紫色をした桔梗が可憐に咲き誇っていた。  龍山が白砂の上に置かれた手水鉢《ちょうずばち》の横に、真新しく杉の木に一刀彫りで彫られたばかりの観音像を見つけた。 「兼見、あの木彫りの仏像はこの庭にはちと釣り合んが、何やらかの」 「そういえば、まだ彫られたばかりのようでござりますな。誰か、縁の者が亡くなられたのではありますかいか」  二人は出された緑茶を見ると話をやめて、すぐに茶をすすった。  それから龍山は肩で大きく息をして、着ている水干《すいかん》の袂から扇子を取り出して扇ぎ始めた。長い旅路の終わりで、ようやっと一息入れることができたからであった。  方丈の座敷の簾を揚げて、浅草寺の住持がゆっくりと入ってきた。背は高く、頭に肩まである長い法師頭巾を被り身体を黒衣で覆っていた。真っ白な髭が頬をまた覆っており、年恰好は二人よりも年長のように思えた。  住持は二人の前にゆっくりと座ると、軽く頭を下げて話始めた。 「遠路はるばるこの浅草寺までお出で頂き、この天海心より御礼申しあげまする。家康公には昨日までお待ちでござりましたが、やむなく上杉征伐に出立され、この天海にお二人の世話をするよう仰せつかった次第。本来ならば江戸のお城でお話するのが礼ですが、身内の不幸があり供養をしておったもので、ここまでご足労頂いた訳でござります。このようなむさ苦しい所にご案内して申し訳ござりませぬ。お許し下され」  兼見は天海には初対面でありながら、どこかで会ったことがあると心に引っかかるものがあった。それに、声にも聞きおぼえがある。天海の話を上の空で聞きながら、どこで会ったかを思い出そうとしていた。 「御存じのように近々、関東と上方で戦が起こるものと思われます。ついては、近衛前久殿にお願いがござります。戦が始まる前に、八条宮智仁親王より主上に奏請願いたき儀がござります」  天海は龍山を本名の近衛前久で呼んだ。 「はて、この隠居の身に何をせよと申すのか」 「つきましては帝《みかど》と宮《みや》は豊家とは格別の仲でござります故、決して勅命など戦の前に出されぬよう、前久殿より大納言勧修寺晴豊さまによくお願いされたいのです。これは、家康公からのたってのお願いでござります」  龍山こと近衛前久は、なるほどと思いあたった。家康はこれから天下取りの戦をしようと思っている矢先、秀吉の猶子であった智仁親王と兄である和仁帝が豊臣家に味方してしまうことを恐れていたのか。その時は、上杉征伐の大名全員が朝廷の賊軍になってしまう。確かに事と次第の奏上によっては、豊臣びいきの帝と宮が家康討伐の勅命を上方勢に下さないとも限らなかった。  帝と親王は先の誠仁親王の皇子達である。父誠仁親王が天正十四年に急逝後、長兄である和仁皇子が十六歳で皇位を継承した。その時の元服式の烏帽子《えぼし》親は秀吉が務めた。その後、二人は竣工したばかりの聚楽第に秀吉から招待され、三日間の予定をそのまま五日間も居続けて雅な遊宴を楽しんだほどの親しさであった。 「あいわかった。まろは、家康殿には命を助けてもらった恩義がある。決して、内裏には悪しくはさせん」  龍山は力強く断言した。無理もなかった。龍山は娘|前子《さきこ》を和仁帝に入宮《いりみや》させており、帝の外戚でもあったからである。 「おう、そうそう。家康殿が不在で残念やが手土産を持参したさかい、天海僧正よりこれを渡しておいてたもれ」  龍山は兼見に相談することなく、持参した茶入れの箱を天海の前に置いた。 「そうやな。家康殿に渡す前に、天海僧正にも見ておいていただこうか」 「これは何でござりますか」 「東山名物の楢柴という茶入れじゃ」  茶入れを包んだ仕覆をほどこうとしていた天海の手が急に止まった。手が震えていた。  兼見はあらためて天海の右手を見た。その右手の中指は人差し指と同じ長さであった。 その瞬間、兼見は天海の顔を見て叫んだ。 「十兵衛、生きておったのか」  何度も茶席を共にして、茶筅を動かす右手を見ていた。間違うはずはなかった。かって十兵衛が幼い時に馬に中指の爪を齧られた指であった。忘れもしない明智惟任日向守光秀の手であった。  兼見の声で、今度は龍山が驚いた。 「十兵衛。まさか、光秀か」  龍山もどこかで会ったことがあると不審気に思っていただけに、天海の顔を最前から穴のあくほど見つめていたのであった。顔が年をとり白髭が顔面を覆っていたので最初は気がつかなかったが、茶色がかった明るい目は間違いなく懐かしい光秀の目であった。  天海は手を法衣の袂《たもと》に入れると、静かに目を閉じた。何かを堪えているようであった。 「懐かしう名でござる。しかし、光秀はとうの昔に山崎の里で散りもうしたと聞いております。拙僧南光坊天海は天海でござります」  そう言うと静かに立ち上がり、二人に深々と礼をした。踵《きびす》をくるりと返して、部屋を出て行こうとした。龍山が天海を呼び止めた。 「天海殿、この楢柴はそなたがお持ちなされ。昔の誼《よしみ》を偲ぶには好都合なもの。そなたの申し出は確かにお請けした」  天海は、振り返らずにまた軽く頭を下げた。そして、そのまま静かに部屋から消えた。残された龍山と兼見は予期しない感動で、お互いに口をきくことができなかった。  その晩、江戸城内の斎藤利光の屋敷で、二人は接待の行き届いた夕飼を受けていた。屋敷は広く、かなりの禄高をもらっているように思えた。兼見は、思っていた疑問を率直にぶつけた。 「なかなか立派なお屋敷でござるな。斎藤殿はどれほどの禄を御貰いかな」 「相模国の小田原で三千石を拝領しております」 「さよか、若いのに大したご器量でござりますな。して、家康殿にはいつからお仕えされたのか。尾張なまりより、上方言葉が上手のように見えるがな」 「さる昔、明智光秀殿に仕えておりましたが、山崎の戦の後、弟角右衛門と共に家康殿に仕官させて頂きました」  兼見と龍山は手にしていた箸の動きを止めると、また二人で顔を見合わした。黙って飯を食べていた龍山が急に聞いた。 「そうすると、やはり斎藤利三の家系か」 「恥ずかしながら、斎藤利三はそれがしの父でござります」  二人は瞬間的にやはり天海僧正は明智光秀であったことを確信した。兼見と龍山にとって、明智家滅亡の発端の責任はもともと自分達にあった。それだけに、その心労が少しでも取り除かれたことで、二人の顔には逆に笑顔が浮かんだ。江戸に来た甲斐があったと心から思えた。 「それは、ようござった。明智家には特別の思いがあっただけに、この様にご一統様が健在と知り祝着至極。さあ、祝いの乾杯をせんとな」  兼見の音頭で、宴は急に賑やかになった。  そこに水を差すように、吉田兼見宛てに京にいる妻伊也からの書状が届いた。 「いかがいたした」  龍山が不安そうに、書付けを真剣に読んでいる兼見に問いかけた。 「伊也からの知らせで、この十七日に細川忠興様の室玉子さまが大坂屋敷で自害されたそうじゃ。それに、上方勢の軍勢が両親のいる田辺城を大軍で取り囲んでいる。何々、わしと近衛の殿下に、帝と宮に話して幽斎を助命して欲しいと書いてある。これは、えらいことや」  二人は、十八年前の本能寺の戦を思い出した。また身近に本物の戦が近づいて来ていることを感じて、心が重くなっていた。いま思うと、天海こと明智光秀は唯一残った娘の葬儀を自寺でおこなっていたに違いなかった。龍山は、昼間見た白木の仏像が玉子であったことを知った。 「兼見、はよう京へ帰ろ」  二人は訳もなく、また京へ一日も早く戻ることだけを考えていた。   評 定  宇都宮の北方には、上方では見られない雄大な山の頂きが波のように連なっていた。その山麓から、人家一つない坂東《ばんどう》の葦の平原が地平線まで続いていた。多くの武将たちにとって、馬を肥やし馬を走らせるのに最上の土地であった。初めてこの関東平野を訪れた武将の誰しもが、平将門や熊谷直実などを初めとする勇猛な坂東武者を輩出した訳が、この壮大な草原にあることに気がついた。そして、これからこの大地に育った上杉勢との戦いが予断を許さぬ激戦になることを覚悟して、身が引き締まる思いであった。  七月の二十四日から二十五日にかけて宇都宮に滞陣する大名のどの陣所にも、軒並み早馬が到着していた。それぞれの家許から、上方勢挙兵の知らせであった。  細川忠興は飛脚の書状を見て、愕然として声も出なかった。まさか妻玉子が自害するとは、信じられなかったからである。同封された短冊に書かれた辞世の歌が、ただただ空しく心に響いた。忠興にはなぜか、歌の中身よりも玉子の書いた墨字一つ一つの方が愛おしかった。  妻は光秀の娘として最後まで秀吉への恭順を好とせず、その信念を貫いて自害した。玉子は天下人に気がねせず、いかに細川家の隆盛を計れるかを自分に問いているような気がした。頭を下げてへつらうだけなら誰にでもできると、歌に託しているようでもあった。  愛妻の死は悲しかったが、すぐに気を取り直して、忠興は妻を殺した石田三成と戦うことだけを考えた。玉子生害の顛末を記し、家康にあらためて与力する誓紙を送った。細川家は、宇都宮にいる外様大名の中で徳川家最初の与力大名になった。  しかし、玉子の死を最も悲しみ慟哭《どうこく》の思いに打ち萎れたのは、長男の忠隆であった。他の大名家では皆うまく立ち回り人質の問題を回避したのに、なぜ母だけが自害しなければならなかったのか、忠隆にはどう考えてもわからなかった。思いたくはなかったが、子にはわからない夫婦の微妙な葛藤がその引き金になったのかもしれないと諦めた。  妻の千代は無事に隣の宇喜多屋敷の姉豪のもとに逃れたと聞き安堵しただけに、よけいに母への思いがつのって、軟弱と思いながらも自然と涙が溢れてくるのを止められなかった。帰ったら母の代わりに、千代を誰よりも慈《いつくし》もうと決意した。  しかし、父忠興は千代が敵方の宇喜多家に逃げたことで、逆に激怒して息子に憤った。千代の動向は後日、徳川家から糾弾されるに違いなかったからである。忠興は父與一郎が昔、玉子を離縁せよと言った同じ言葉を気づかずに忠隆に投げかけていた。  忠隆は黙ったまま、何も答えなかった。  黒田長政の陣所はもっと忙しかった。大坂屋敷の一番家老栗山四郎からの書状と豊臣奉行からの檄文、それに小早川家家老平岡頼勝の私信が相次いで届いていた。  先に届いた栗山四郎の書状には、新妻ねねと母の光が無事に大坂屋敷から抜け出したことが記されていた。長政は、細川家の二の舞にならなかったことを素直に喜んだ。父のいる中津に戻ってくれれば、これで後顧の憂いなく戦うことができる。栗山と母里の労をねぎらって、至急、中津に戻り如水の指示を受けるよう返書をしたためた。  最後の書状は父からであったが、長政は何気なく急に訪れた家康の使番である斎藤角右衛門の前で封を切ってしまっていた。中味を読んで顔が青ざめたが、気づかれないように平然として懐へ入れた。後で、もう一度ゆっくり見なければならない。  その中身は、如水が高台院を訪ねた時の会話が詳しく述べられていた。長政は、目前に控えている角右衛門に意外な言葉をはいた。 「斎藤とやら、家康公からの火急のお召しではあるが、当方の段取を片付けねばお会いできぬ。明日の午刻前には必ずお伺いすると伝えてくれ」  角右衛門は長政の段取りの意味がわからなかった。 「段取りとは」 「評定の段取りだ。そう申せば分かる」  大声でそう言うと、そのまま角右衛門を残して陣所を出た。長政は、黒田家の隣にある福島正則の陣所に向かって足早に歩いた。  今宵中に正則と話をつけねばならなかった。客将の中で最大の兵を引き連れてきた正則の意向次第では、上杉征伐軍は分裂して瓦解する。何としても、徳川家に味方させなければならない。正則さえ同意させれば、後の大名は抵抗はしまい。それだけ、正則の存在は今、豊臣恩顧の大名の中では図抜けて大きかった。  日が暮れようとしていた。早々と福島の陣中では篝火が盛大に焚かれていた。長政は、すぐに守衛から中に通された。板戸が敷かれた八畳ほどの本陣の小屋で、正則は弟の福島高晴と酒を飲みながら書状を読んでいた。 「おう、長政、よい所へきた。この檄文を見たか。秀頼殿を担いで、三成らが何をしようと言うのだ。笑止千万《しょうしせんばん》」  長政は、高晴の勧める場所に腰を下ろした。 「そうは言っても、総大将毛利輝元、副大将宇喜多秀家、それに豊臣家奉行の連署の書き付けでござる。淀殿や秀頼殿も、知らぬ訳はござらぬのでないか」  正則は急に大きな体を縮めて、 「長政、本当に秀頼様が家康を討てと命令されたのか」  正則の心中は内心、不安感に苛まれていた。豊臣家は主家である。その意向に逆らう心底はまったくなかった。正則こと市松は尾張の清洲で生まれ、秀吉の遠縁であった関係で幼い時から秀吉に仕えた。したがって、母親代わりであった豊臣家に弓ひく発想など、夢にもあり得なかった。  長政は近江長浜での人質時代、祢の下で市松と数年間、寝食を共にした後輩であった。市松はその頃から身体は壮健で、喧嘩や腕力で誰にも負けたことがなかった。長政こと松寿丸はその強さに憧れて、いつも市松の後ろについて歩いていた。市松は、背の低くかった松寿丸を自分の弟のように可愛がってくれた。その側にいる限り、織田家の人質の哀しさを忘れることができたのであった。  それ以来、正則と長政は兄弟のごとく、常に腹を割って話すことができる関係になっていた。 「正則殿、この度の仕掛け人は三成を初めとする大坂奉行たちでござる。その尻馬に乗ったのが毛利と宇喜多の中国勢と、島津、小西らの九州勢と思われる。父の言によれば大坂にはすでに十万の軍勢が集まっているとか」  長政の話を聞いて、正則も高晴も息が止まった。 「それでは、事の真偽を確かめるために上方に帰ろう」 「まあ、待たれい、正則殿。そのようなこともあるかと、父がすでに高台院さまにお会いになって、真意を確かめてある」 「高台院さまは、何とおっしゃっておられる」  正則は八の字の口髭を右手で引き抜くようにして、長政に顔を近づけた。 「高台院さまは、この戦はおぬし達の内輪喧嘩、豊臣家の戦ではないとおっしゃておられる。それ故、奉行たちにも大坂城の大蔵の鍵は渡しておられぬ」 「なんと」 「それに秀頼殿が成人するまでは、家康殿に後見して頂くと仰せられたそうな」  正則は少し安堵し始めた。たしかに秀頼殿はまだ幼い、さすれば今度の戦は豊臣家の後見人争いなのかと、勝手に判断した。 「おもしろい。あの小憎らしい三成や薬屋の行長らと戦っても、秀頼さまとは関係ないということだな。長政」  正則は真剣だった。長年、豊臣家の中で佐吉と呼ばれた男だけは、どうしても好きになれないより、憎しみの対象であった。主君秀吉と同じ小さな背格好で頭だけが異様に大きく、槍一本使えない癖にいつも理屈をこね回し、主人の威光を笠に着ていた三成は許せない存在であった。  目をぐるりと回すようにして、長政をみつけた。もし間違えたら長政の首を刎ねるような見幕だった 「その通り」  長政が、間髪を置かずに自信を持って答えた。正則はすぐに立ち上がった。 「これから、小山の徳川殿の所へ参るぞ。いの一番にわしが与力することを伝えよう」  長政の説明で、正則も直情的に今回の戦の本音を理解した。もともと秀頼さまが成人して天下に号令できるまでは、一番の実力者である家康に庇護を頼むことが正しいと考えていた。そのため秀吉の死後、豊臣家中で最初に息子正之に家康の養女を娶とらせていたほどであった。  しかし、長政は正則の言葉を聞いて焦った。ここで先に家康に会いに行かれては、自分の立場がなくなる。今晩は、ここにどうしても泊めておかねばならなかった。 「いや、家康殿の所にはそれがしが参ります。大夫《たゆう》殿は、他の大名に話をつけてくだされ。明日の評定で全員が徳川に味方すると最初におっしゃれば、家康殿の心証も一段と良くなられましょう」  自分を高く売るには長政の云う通りだ、と正則は思った。ひょっとすると加藤清正を抜いて、百万石の大名になれるかもしれないと打算が働いた。 「あいわかった、長政。そちが家康殿の所へ参れ」  拍子抜けするように、正則は気安くうなずいた。 「家康殿には忘れずに、わしが最初に話をするからと申せよ」  長政が抜け駆けしないように注意を与えた。  したたかな男だと長政は思いながら、すぐに陣所に戻り馬に乗った。家康の本陣まで突っ走るつもりだった。会談中、もし正則が大坂に帰るなどとわめいて言うことを聞かなかったら、父が内密に知らせてくれた秀頼誕生の秘密を洩らすつもりだった。しかし、その切札を使う必要がなかったことで、安心して馬を走らせることができた。  闇夜の中に大きくそびえる杉並木の間をいくつもくぐり抜け、疾走した。宇都宮の陣所から小山まではわずか五里の道である。長政とその旗本十数騎は、半刻もかからずに駆け通した。  小山城址の家康の本陣は城沿いに篝火が焚かれ、まるで城が再築されたかのように思える光景であった。  本陣の陣幕をくぐると、全身赤具足に身を包んだ一人の侍が長政の前に大きく立ちはだかった。 「甲斐守とお見受けする。主命によって、この井伊直政がご伝言仕る」  直政が真剣な面持ちで長政を停めた。 「火急の件につき、直接、家康公にお話することがある。」  長政は、直政の言い様に腹をたてた。もともと、すぐ来いと言ったのは家康自身ではないか。 「夜分につき、殿にお伺いをする。しばらく待たれい。そこもとの脇差しはお預かりいたす」  直政の猛々しい物言いにも長政は耐えて、静かに脇差を差し出した。  家康はまだ起床していた。しかしその顔は、見たことのない不機嫌な顔をしていた。数刻前に上方の状況を聞いたばかりであったが、大坂方の情勢がその後もはっきり掴めぬので、いらついていた。  寝所に入るや否や、問いつめるような言葉が飛んできた。 「長政、明日の評定に福島正則の与力が必要じゃ。そちの力で何とかならぬか」 「大夫とは、すでに話をつけて参りました。明日の評定には、豊臣の諸将はすべて家康殿にお味方なさるでしょう」 「まことか」  側に控えていた井伊直政が驚いて、聞き直した。家康の顔が急に明るくなった。 無理もなかった。上方からの噂は、ことごとく大坂城には十万以上の兵数が集まって、その威勢は天を突くがごとくであると強調されていたからである。ここで何名かの豊臣客将が上杉征討軍から抜ければ、一気に上方勢が有利になると徳川の幕下《ばっか》は皆憂いていた。 「武士に二言はござらぬ」  徳川家の事情がわからぬ長政は自分が疑われているかと思い、むっとして横柄に答えた。  家康は、予想もしない長政の言葉に素直に感激していた。恥ずかしげもなく、長政の手を急に握った。 「甲斐守、かたじけない。戦が終われば、そなたには必ずや報いる所存」  家康の態度が変わったのを見て、長政は思った通りの成果があったことを知った。徳川家と黒田家の戦はこれで勝てると思った。  翌七月二十五日は、朝から陽がぎらぎらと地上を照らしていた。どの武将たちも額から落ちる汗が目にしみて、夏草が陽炎《かげろう》に揺れているように見えた。宇都宮から小山に戻る五十人に上る大名は皆、寡黙であった。どの大名の行列も、旗本十数人を連れただけの小人数である。上杉勢の領国を目前にして、勝手に前線から兵を引くわけにはいかなかったからである。  大名たちは、訳のわからない不安感に皆が苛まされていた。妻子を大坂に残していたからである。もし徳川家に従身することが大坂方にわかれば、間違いなく人質として殺されることになる。今はすべての武将が細川家の悲劇を知っていた。そして、それは人ごとではなくなっていた。  家康の本陣は宿所の庄屋の家であった。会合時間の申刻が近づいていた。三十畳ほどの大広間も、暑さと人いきれで蒸れていた。出席者が多すぎて、隣人との間を空ける余地もないほどであった。  遠州掛川五万石の領主山内一豊が着いた時、すでに参戦大名たちが入口まであふれていた。  一豊は五十四歳になっていた。織田信長公に若くして仕え、越前姉川の戦を皮切りに幾多の大戦を幸運にもくぐり抜けていた。しかし、これからは武術で奉公する自信はそれほどなかった。ただ、どの大名もよりも、気のきいた屋敷や城を創ることには自信があった。一豊の夢は、早く戦国が終わり、好きな建築ができる日が来ることを内心、心待ちにしていた。そのためには、常に自分を勝ち戦の立場に置かなければならなかった。しかし、今度の戦ばかりは先が読めなかった。大坂にいる妻千代からの書簡を昨日受けとっていたが、あまりに多くの大名がそれぞれ勝手に動いており、その全貌は見えなかった。  家康が次の天下を取ることまでは間違いないと考えていたが、どうもそれも危なかしい状況になってきていた。全国何十万という兵が動く大戦では、よほどうまく立ち回らない限り、恩賞を貰えないことはよく分かっていた。  それでも、玄関の入口近くに何とか座る場所を一豊は見つけた。板敷きに腰を下ろすやいなや、正面に徳川家康が陣羽織を羽織って現れた。家康の背が低いため、前人の頭が邪魔になり顔はよく見えなかった。 「この度、すでに御存じのように、我等の留守中に毛利輝元を大将とする大坂方がこの家康討伐の軍をこの十七日に起こした。いま、伏見城が攻められておる。また、そなたらの妻子を豊臣奉行たちが人質として大坂城に集めておる。気の毒に、細川越中守には御内室が拒んで生害なされたと聞く。ただならぬ事態が起こり申した」  すでに出席者全員が上方の異変を知っていただけに、家康の言葉にも驚きはなく、会場は水を打ったように静かであった。家康は言葉を続けた。 「したがって、上杉討伐は本日これより止めにする。皆の者は直ちに陣払いして、自国にお帰り下され。諸将の今後の向背《こうはい》は一切、当方に構わずとも良い。各自がお決めくだされ」  そのまま家康は口を閉じた。肝心のこれからの去就について何も指示はなかった。  殆どの大名が奇異に感じた。このまま勝手に国に帰って良いとしても、その後どうするのか総大将の言葉が無かったからである。しかし、いつまで待っても家康からの言葉は発せられなかった。その時、しびれをきらしたような大声が会場に響き渡った。立ったのは福島正則であった。 「豊臣恩顧の将に申しあげる。この度の戦は秀頼さまの本意ではござらぬ。その証拠に高台院さまより、豊臣家のことは秀頼さまご成人まで、家康殿にご後見頂くことでお話を頂いておる。また我らが妻子を大坂に置いたは秀頼さまに忠節を尽くすためで、三成ごときに屈しては武辺が立ち申さぬ。したがってこの正則、こたびは徳川殿に与力仕る」  会場がざわつき始めた。正則の言葉は衝撃的であった。また、中ほどから声が上がった。 「それがしは無道にも妻を殺され、石田三成を討つために、徳川殿にはすでに与力を申し入れてござる」  細川忠興は、得意気に回りを見渡しながら発言していた。その後、すぐに黒田長政が遮《さえぎ》った。 「それがしの領国は豊前でござる。国に帰るには、上方勢と戦わねば帰れませぬ。家康殿には不逞な輩を是非討ち果たして頂きたく、上方に上られるようお願い申す」  長政の意見は尤も至極であった。このままでは西国大名の多くは上方勢に味方する以外、帰る途がなかったからである。 「皆の者の心魂、この家康、肝に銘じて感謝仕る。徳川家としても、このまま奉行たちの暴挙を見逃すわけにはまいらぬ。徳川八万騎の全軍を挙げて上方に押し出すこととする」  家康の本音が出ていた。八万の加勢と聞いて、多くの大名が安堵した。これで上方勢に対抗できると思ったからである。  山内一豊は一瞬ひらめいた。いまだと思った。急に立ち上がると、家康目がけて走り始めた。突き飛ばされた大名の動きは眼中に入らなかった。会場は、何事が起きたかと騒然となった。家康警護の本多平八郎は、とっさに刀の柄に手をかけた。家康に向かった一豊は、平八郎が切りつける前に平伏した。 「遠江掛川城主山内一豊でござります。上洛の節には、当掛川城をお使いくだりますようお願い申しあげます」  家康は一豊の心根をすぐに理解して、笑顔を浮かべた。もし東海道なり中山道の一大名でも敵対すれば、八万の軍勢を持ってしても短期間に大坂まで攻め上ることは容易ではなかったからである。 「山内殿、有り難く、そちの城を使わせて頂こう」 「はーはー。武具も兵糧もすべて差し出す所存でござります」  家康は大きくうなずいた。平伏した一豊は板の間の節目の穴を見つめながら、これでこの戦は勝ったとほくそ笑んだ。  思いもがけない一豊の提案に、他の東海道の城主も従わざるを得なかった。すぐに沼津城主の中村氏次が、幼い少年と一緒に立ち上った。少年は豊臣中老職の駿河府中城主中村一氏の息子一忠で、まだ十歳であった。一氏はこの十七日に病死しために、弟の氏次が所領安堵と家督相続を願って連れてきていたのである。後は遠江横須賀城の有馬豊氏、浜松城の堀尾忠氏、三河吉田城の池田輝政、三河西尾城の田中吉政、三河刈谷城の水野勝成がわれ先と申し出た。  尾張清洲城の福島正則は憮然としていた。折角、最初に与力した掛声が一豊の提案で色あせてしまっていたからである。 「わが尾張清洲城には三十万石の兵糧米が蓄えてござる。これをすべて家康殿に進呈申しあげる」  正則は剛毅な申し出を口にしてしまった。  家康はすぐに満面の笑顔をつくって、出席の大名に大声で告げた。 「それでは皆の好意は有り難く、この家康頂くことにする。福島殿と池田殿には土地柄、先鋒をお願いすることにしようかな。それでは皆々、近々、尾張の清洲城でまたお会いすることにしよう」  尾張の清洲地区は豊臣家の蔵入地《くらいれち》でもあった。長年、豊臣家のために蓄えた万一のための備蓄米を、正則は軽率にも秀吉が生前最も嫌いだった家康に進呈してしまったのである。  逆に家康は上方への道の確保と、客将と自兵を一ケ月間養う兵糧をただ同然で手に入れることになった。小山評定は、家康にとって最も望ましい結果で終わった。  評定が終わるや、関東勢の集合場所となった尾張清洲城に向けて、福島正則は難しい顔をしたまま誰よりも早く騎乗の人となった。誰に言われるまでもなく、早々にこの戦で功を挙げ、兵糧三十万石の見返りに百万石の領土を得ることを固く胸に誓っていた。  外は雨が激しく振り始めてきていた。これからの前途を危ぶむかのような大雨であった。どの武将も、具足の上に羽織った油紙がたちまち役に立たなくなっていた。  家康が一息入れて、ほっとしている時、一人の大名が面会を申し入れてきた。相手は、美濃岩村城主四万石の田丸直昌であった。岩村が三河の国境であり、その場所はよく知っていたが、正直、田丸の顔は浮かんでこなかった。しばらくしてから、この春、信濃の川中島から美濃岩村に移封したことをようやっと思いだした。  家康が笑顔で小柄な田丸を迎えた。まだ四十歳位なはずなのに、前歯が抜けた直昌は五十歳を過ぎた老人のように見えた。 「これは田丸殿、あらたまって何用でござるか。挨拶などは無用だが」 「これから自国へ帰る所ですが、その前に一つ、それがしの存念をお知らせしておきたいと思って参りました」 「はて、何用かな」 「国に帰ってからは、これからの向背は勝手でよろしいと先ほど申されましたな。誠でござりますな」  家康は急に顔をしかめた。 「いかにも、田丸殿は上方勢に与力されるのか」 「いや。大坂には妻子がおりますので、迎えに参りたいと思いましてな」 「勝手にされよ」  直昌は、家康が怒ったことも感じないようであった。そのまま平然と、来た時と同じ顔で陣屋を出ていった。奥州の大守蒲生氏郷の娘婿だけがとりえの直昌は、会津参陣の客将の中で本当は一番正直な武将ではないかと思いながら、家康は自分の腹立たしさを抑えた。   伊勢物語  小山評定は、出席した大名にとって選択の由のない結果に終わった。殆どの大名が、自家の興亡を徳川に賭けることで覚悟を決めていた。しかし数万石の小大名にとっては、ことはもっと深刻であった。大きな流れの中でよほどうまく立ち回らない限り、戦の勝敗の前に自家が飲み込まれて消滅する恐れがあったからである。  多くの大名は、同じ地域を隣接する大名と帰り途を一緒にしていた。そしてどの大名たちよりも一足早く東海道を上っていたのは、伊勢地方の小大名たちであった。地勢的に上方の軍勢が押し出してくるとすれば、中山道の尾張か、東海道の伊勢に出ることは自明の理であったからである。  伊勢の出口に所領を持つ長島城の福島正頼、上野城の分部《わけべ》光嘉、松坂城の古田重勝、岩手城の稲葉|道通《みちとお》、伊勢安濃津城主富田信高、鳥羽城の九鬼守隆らは呉越同舟の関係にあった。  共通の悩みはそれぞれの領国の石高は三万石以内であり、動員できる兵数は千人にも満たなかった。もし上方勢に攻め込まれれば、鎧袖一触《がいしゅういっしょく》されることは目に見えていた。それに、いま城を守っているのは妻子と数百の留守兵だけであった。仲良く六人で東海道を西上する一団は、故郷を考えるたびに足が早くなった。  しかし石高は変わらなくても、その中で立場が一人違ったのは鳥羽城主の九鬼守隆であった。伊勢、志摩の領主でありながら唯一、強力な水軍を持っていたからである。本能寺の変後、信長の死が九鬼家に最大の幸運をもたらした。遺児の誰からも、軍船を返せという者はあらわれなかったのである。自然と織田家の水軍を預かっていた父嘉隆の元に二十一艘の甲鉄船を含む大安宅船が残った。  これらの兵船を自由に使って、九鬼水軍は紀州沖から伊勢、志摩、伊勢湾を通過する商船、漁船から税を勝手気ままに取りあげた。不思議なことに秀吉は天下を取ってからも、この九鬼家の私用権を黙認した。  秀吉ははるか昔、荒木村重の謀反によって姫路城に孤立して退路を絶たれた時、大坂木津沖で九鬼水軍が毛利の水軍を撃破したことをよく覚えていた。この勝利によって織田家の制海権が戻り、秀吉は九死に一生を得たのであった。  嘉隆は、秀吉への恩を当然として私税を取り続けた。朝鮮の役でも大活躍したが、秀吉には少しもへつらいを見せなかった。秀吉もまたその傲慢さを知ってか、九鬼家には一石の恩賞も加増も与えていなかった。三年前に、嘉隆は秀吉に許しを得ずに隠居して、家督を守隆に譲った。三万五千石の内、五千石をこれも勝手に隠居料として自分の物としていた。  伊勢安濃津二万石城主富田信高は、同じ伊勢三万五千石松坂城主の古田重勝に道中、しつこく付き纏っていた。信高の家臣はわずか三百名、国で待っている城兵も二百名ほどに過ぎなく、とても大名と威張れる人数ではなかった。信高の父|一白《かずしろ》が前年の十月死去したため、領国を引き継いだばかりの新参大名でもあった。会津出陣中も、信高は家臣のように年長の重勝に気をつかい仕えていた。一人でいるには心細過ぎたからである。  秀吉から授かった名馬、星崎《ほしざき》を駆る先鋒奉行の父を横目で見て育った信高であったが、生来、武士にしては気が弱過ぎた。強くなれといっても、一騎当千の戦国荒武者の中で、まだ二十歳を過ぎたばかりの若者には荷が重過ぎた。  小山を出てから八日目に、早くも伊勢地方の一団は三河の吉田まで立ち戻っていた。吉田から船に乗り、三河湾から伊勢湾に出て、それぞれの領国に帰る予定であった。吉田の港は、すでに多くの将兵が船の手配で殺気だって混雑していた。  道中最後の夜、吉田の宿で信高は小さな声で重勝に頼みこんだ。 「道中、色々とお世話になり有り難うございます。分部さまも古田さまも家康殿に味方されるということなので、それがしもご一緒に上方勢と戦う所存でおります」  古田重勝は一人で瓶子から酌をしながら、上目づかいで面倒くさそうに白い顔をした信高を見上げた。明日からこの足手まといの若者とも縁が切れるかと思うと、最後の晩ぐらいは話を聞いてやろうと思った。 「信高、どうした。酒でも飲め」 「もし東海道を上方勢が攻め上がってくれば、わが城が最初に攻められることになります。その節は是非与力の兵をお送りくださいますか」 「なんだ、そのことか。わかっておる。そなたの城が落ちれば、隣のわしの城も落ちるわな。分部殿ともその件はすでに話をつけておる。心配するな」  剛毅に重勝は酒の力を借りて答えた。重勝も内心は不安であった。自分の兵力も千名に満たない。上方勢が丹後の田辺城にさえ一万、伏見城にいたっては四万の兵数を動員したと聞いていた。当然、万以上の敵と戦かわなければならない。  それに、会津に出陣してこなかった同じ伊勢亀山城の岡本良勝、神戸城の滝川雄利、桑名城主の氏家行広ら歴戦練磨の元秀吉の馬廻り衆は、どうも大坂方に付くように思えた。かれらの動員数だけでも軽く五千になるだろう。  重勝はこの際、運を天に任すつもりであった。あの小山評定に出席した後では、大坂方に付くわけには武士の義理としてできなかった。日和見ができれば、それに超したことはなかったが、どちらが勝っても所領召し上げになる恐れがあった。中立に踏み切れない重勝は、また苦い顔して酒を呷った。  翌日、信高は三河湾の海辺に立った。手勢三百人を漁船に分乗させて一気に真西に漕ぎ出せば、城のある安濃津に到着する。信高は、海が荒れないことを祈った。この寄せ集めの小舟では、しけたらとてもたどり着けない。また、腹が痛くなりそうだった。  その時沖合いに大安宅船が五隻、白帆を大きく張って悠然と航行してくる姿が目に入った。聞かなくても、七曜紋の帆は九鬼家の船だった。九鬼は、陸地の百万石に相当する海を支配していると思った。古田重勝より九鬼守隆に頼むべきだったかなと、その威勢をみて信高はまた心変わりがした。しかし、父親の嘉隆はどう見ても海賊だった。昔の地頭仲間を毒殺して、のし上がった男と聞いていた。気心が知れなくて、やはり無理だと諦めた。  嘉隆は大坂奉行からの檄文を受け取るや、それを口実に元の海賊に戻っていた。この戦のどさくさで自分の領海を広げ、通行するすべての船から漕税を取ろうと考えていた。人がどんなに九鬼家を責めようと、厳然として海は陸《おか》と違う理屈で動いていると固く信じていた。海の上では人間の小さい力など、いざとなったら何の意味ももたない。この大きな海の力に自分は私淑するのだ。海を各自勝手に通ることこそ、その力に反することなのだ。九鬼家はその海神に使える使徒なのだと信じていた。  いざ天下の雌雄を決するとなったら、九鬼家の総力を挙げて江戸へ船を廻そう。江戸湾は大きくて雄大で、嘉隆の好きな海であった。自分と家康は今年同じ五十九歳だが、家康が陸で天下を狙うなら自分は海を制覇してみようと、久し振りに気力が身体の中から沸き上がってきた。二十四年前の木津沖で毛利水軍と戦う前に肌が震えた、同じ武者震いを感じていた。  青い海面が陽に輝き白い波とさわやかな風を受けて、九鬼守隆の安宅船が一ケ月ぶりに鳥羽湾にすべるように入ってきた。鳥羽湾を一望にできる鳥羽城の天守閣から、嘉隆はその船を見て子供のようにはしゃいでいた。嘉隆は、はや三十歳になろうかという息子守隆を誰よりも好んでいた。大戦を前にして、一時も早く息子と語りたかった。  二十丈の高さの岩壁に造られた天手閣からでも嘉隆の目には、はっきりと日に焼けた息子の顔を船首に見つけていた。  旅装を解く間もなく、守隆は父親の迎えを受けた。 「よく帰った。家康はどうすると言っておる」 「下野の小山という所で、われら一同評定をおこないましたところ、福島正則、池田輝政、田中吉政、堀尾忠氏、山内一豊ら東海道筋の大名は、城ごと家康殿に進呈すると与力を申し出ておりました」 「なに、戦う前に城を明け渡すといったのか」  守隆は素直にうなずいた。 「腹を空かした犬どもめ。この九鬼は誰にも頭を下げぬぞ。守隆、お主は海を攻めよ。わしはこの志摩、伊勢を陸から切り取る」 「して、どちらに味方されますのか」 「九鬼家は昔からここにおる。誰に貰うた訳ではない。太閤にも家康にも義理はない。彼等が戦を起こすなら、その間にわれらはわれらの戦をすればよい」  秀吉の治世の間でも一石の加増もなかった。家康に与力しても、隣国稲葉家との確執から判断して、領土が増えるとはとても思えなかった。戦のどさくさに自分で切り取った方が勝ちと、戦国の海賊は考えた。  これから起こるであろう戦を、嘉隆と同じ気持ちで待ち構えている大名がいた。信州上田の真田昌幸、九州豊前の黒田如水らがその典型であった。奇しくも同じ天文年間の生まれであり、戦国時代の申し子たちでもあった。   堪 忍  小山評定の翌日の七月二十七日から、集まった客将約五万の将兵がまた江戸に向かって撤兵を始めた。どの部隊も、恐る恐るの撤退であった。会津国境の白河で待ち受ける上杉勢に知られたらと思うと、誰しもがいい気持ちがしなかった。  家康は、小山の本陣から各大名の撤退の様子を見ながら腕組みをして動かなかった。上杉景勝の反撃に備えなければならなかったからである。徳川軍の先鋒、いまは殿となった一万五千は、大田原で上杉軍の追撃に備えていた。大田原から会津国境の白河までは、わずか五里の距離である。  その徳川後詰の大将は、家康の次男で下総結城城主の結城《ゆうき》秀康二十六歳であった。家康にとって長男信康の亡き後、武将としていま一番頼りになる息子は、皮肉にも秀吉の養子にだした次男の秀康であった。十六年前の小牧、長久手の戦の後、秀吉に和議の印しとして養子を乞われ、差し出したのが当時、於義伊《おぎい》と呼ばれた秀康であった。名の謂れは秀吉と家康の一字をとって、秀吉が名づけたのである。  家康にはすでに十人の男子がいた。しかし徳川家の存亡をかけたいま、自分が頼りになるのが秀康であることに気がついたことで、軽い贖罪《しょくざい》を感じていた。今でも、その夜のことははっきりと覚えていた。  久し振りに酒をしたたかに飲んで、熱《ほて》った体を庭の夜風にさらしていた。しかし浜松の夜風は生暖かく、家康は袷《あわせ》羽織を脱ぐと大声で侍女を呼んだ。 「誰か、単衣《ひとえ》を持て。着替えたい」  その声で、しばらくして一人の大柄な女が家康の前に着物を運んできた。見たことのない侍女であった。家康は縁側から座敷に入り自分で帯を解くと、その場に袷を脱ぎ捨てた。侍女に着物を着せてもらうと、一重の感触が心地良かった。 「名は何と申す」 「はい、お万と申します。築山殿に御仕え申しております」  よく見ると、顔はどう見ても亀のような醜女《しこめ》であった。妻が送った女だと思うと、納得せざるを得なかった。そう思うと、急にこのまま築山の部屋へは行きたくなくなった。 「お万、腰を揉め」  初めて主君に会ったお万は緊張でうつむいたままであった。  その夜、家康は物心ついてから始めてともいえる解放感を感じていた。まさかあの武田信玄が病死するとは、天にも昇りたい気持ちであった。わずか五ヶ月前に三方ヶ原の負け戦で感じた殺される恐怖が消えたかと思うと、急に気が大きくなっていた。  お万のふくよかな腰が家康の目の前にあった。不器用に太股を揉んでいた。顔の見えないことで、急に劣情が激しく起き上がった。着物の下の白い桃のような尻を見た後は、獣になって、お万にのしかかっていた。  秀康の母は、その侍女のお万であった。若き日の情欲に負けて、わずか一夜の伽《とぎ》をお万に命じた因果でもうけたのが双子の男子だった。於義伊の兄は死産であった。  妻の目を盗んだ情事だけに男子出産の話を聞いて、卑劣にも二人とも死んでくれていたらと家康は思った。そのせいかお万にも、残った於義伊にもなぜか愛情がわかなかった。  いままで徳川家の嗣子《しし》でありながら秀康を疎んじていたが、自分が上方に出向いた後の後事を安心して託せるのは、誰よりも武術に勝れた秀康しかないことに気がついた。秀康は上杉を抑えるより父と共に上方で戦うことを希望した。しかし家康は上杉謙信以来、戦において負けたことのない名門上杉家と戦うことの方が、はるかに徳川武士としての面目を上げるものはないと力説した。  秀康にとって、父が一生苦しんだ武田信玄を馬上から切りつけた上杉謙信は、あこがれの武将像でもあった。きっと、その息子の景勝もひとかどの大将に違いない。戦場で相まみえるかもしれないと思うと、もう上方に行くことは秀康の眼中になくなっていた。  若い秀康の読みは間違っていなかった。白河にいた上杉景勝は撤退する徳川軍と客将たちの動向の隙を、狼のように狙っていた。しかし七月二十四日早朝から、徳川家に与力する伊達政宗の率いる一万五千の軍勢は小山評定の結果も知らずに、事前の作戦に従って上杉領の北方に位置する白石城を攻め始めていた。  三日後、関東勢の撤退が始まった二十七日、景勝は急使を受けて白石城落城の事態を知った。その瞬間、上杉軍の徳川追撃は頓挫《とんざ》した。そして不運にも秀康がその武運を披露する機会は、一生その手から飛び去ってしまったのである。景勝の軍勢の多くが北方に移動して、白河を去っていた。  しかし、家康自身は小山に十日間居続けた。残った周りの軍勢は、すべて徳川の身内だけであった。  当面、景勝が徳川と矛を交わさないと判断した八月四日の早朝、家康は本多平八郎、井伊直政と腹心の旗本だけををつれて小山の陣を出た。古河《こが》から船に乗って利根川を下った。利根川の大きな流れは速く、家康一行は翌五日の昼過ぎには江戸城に入った。  その頃、会津領に侵入して白石城を落とした伊達政宗と米沢口の大将最上義光は、二人とも茫然として家康小山退陣の話を聞いていた。家康のいない奥州は上杉の天下であった。誰もが、上杉百二十万石の軍勢と戦って勝てるとは思えなかったからである。早急に兵を引かなければならなかった。上方の戦次第では徳川を捨てて上杉につかなければと、二人の大名は正直に考えていた。  事実その後、会津以北の奥州大名のすべてが特使を上杉景勝に送って、敵対することを止めた。越後春日山城主の堀秀治、本庄城主村上義明、出羽横手城主の小野寺義道、角館城主の戸沢政盛、出羽湊城主の秋田らであった。陸奥国の伊達政宗と出羽山形城主の最上義光も、例外ではなかった。  しかし一人だけ、違った行動を取った大名がいた。最北端に位置する津軽国堀越城主の津軽為信であった。七月初旬の江戸城参集には一人、遠路をいち早く駆けつけていた。小山評定に出席の後、為信は自兵五百を連れて唯一、奥州の大名として上方に向かった。秀吉の小田原攻めの時もいの一番に駆けつけて、本領三万石の安堵を奥州大名の誰よりも早く取りつけていた実績があった。  為信は父の薫陶を受けて、幼くして時の関白近衛前久の猶子になり、長く京にいたことがあった。それ故、常に都の状況の変化に人一倍の関心と郷愁があった。辺境の津軽に戻っては功は望めないと自慢のあご髭をさすりながら、また懐かしい京を目指して勇んで西上していた。  また同じ東海道を猶父《ゆうふ》であった龍山と吉田兼見が相前後して道を急いでいた。二人の輿の横を、ひっきりなしに武装した多くの騎馬と将兵が土煙をあげて駆け抜けて行く。間違いなく、見たこともない大戦が始まろうとしていた。  龍山と兼見は愛知川の関所も難なく越えて、七月二十八日の夕暮れ時、懐かしい京に帰ってきた。東海道をわずか六日間で駆け抜けた激しい疲労感は、今まで経験したことのない旅であった。  しかし龍山は自邸で風呂を浴び長旅の垢と汗を拭い落とすと、すぐに狩衣に烏帽子を着けた。  家司が驚いて、 「この夜分にどちらへ」 「これより八条の宮の御殿まで参る。牛車《ぎっしゃ》を用意せよ」 「輿でよろしいのでは」 「親王に不敬や」  無理もなかった。近衛邸から今出川通りの八条宮の御殿までは、五町もなかったからである。龍山は戌刻を過ぎているにも拘らず、四半刻もかけて牛車で智仁親王を訪問した。  日中の暑さは妙にその晩に限って消えていた。親王はすでに香を焚いて身支度をなされて、龍山を奥御殿で待ちこがれていた。いつも色白なお顔がことさら青白く、見た瞬間に心配事を抱えている様子であった。 「龍山、よく東国より無事で帰られた。東と西で戦が始まるようじゃ。そちに相談したいと思っていた所、助かった思いがする」 「それでは、宮のお悩みを先にお聞きいたしましょう。古今伝授のことでござるかな」  思いもがけなく天下の争乱に巻き込まれた二十二歳の若親王は、そのことで日夜悩んでいたのである。問題は寺社奉行の前田玄以から、古今相伝の箱を若狭田辺城の細川幽斎の元まで取りに行くよう奏請を受けたことであった。豊臣方の武者は門外不出の秘伝を宮が伝授されるまで、攻撃を控えているとのことであった。 「さよう、師の細川幽斎より伝授を奉ると聞いておる。いかが計らったよいか」 「宮は、武者共の争いには巻き込まれてはなりませぬ。ここは中院《なかのいん》通勝に任せましょう。麿より通勝に、よしなに話をしまする。お心安らかになさいまし」  親王は落ち着いた龍山の話を聞いて、すっかり安心なされて笑顔を浮かべた。権中納言中院通勝は、歌道の宗家三條西|実枝《さねえだ》の甥であった。十九年前、天皇の勅勘をこうむり、二十五歳で丹後の細川與一郎の下に預けられた。そこで與一郎から和歌を学び、昨年京に戻った経緯があった。また與一郎は実枝の弟子でもあったので、通勝を兄弟弟子として喜んで庇護したのである。  龍山は明日早速、通勝を呼んで田辺城に行かせようと思った。この機会にできるだけ田辺城の落城を引き伸ばすことを、通勝を通じて働きかけるつもりであった。家康が上洛するまで、できるだけ幽斎には頑張ってもらわなければならなかった。   伏見攻め  上方勢の軍勢四万近くが十日間も伏見城を包囲していたが、城は落ちていなかった。石田三成はその間、大坂に集まった諸将の対応に追われ大坂城を動けなかった。  七月二十九日なって、まだ伏見城が健在であると聞いて激怒した。早朝、馬に乗って三成は大坂城を出た。  その日暮前、伏見の石田軍の陣営に宇喜多秀家、小早川秀秋、毛利吉成、鍋島勝茂、長宗我部盛親、安国寺惠瓊、長束正家、小西行長、島津義弘、立花宗茂らの寄手の大将を呼びつけた。  三成にはなぜ、これらの大々名が真剣に戦わないのかわからなかった。太閤存命中は小田原でも、九州でも、あの外国の朝鮮に於いても、黙っていても先頭切って戦ったではないか。  しかし三成にとって戦いの大義が明快でも、とりあえず参戦した大名達にはその意義が曖昧模糊《あいまいもこ》としていてよく分っていなかった。自分の家臣たちの命を賭けさせるものは見えなかった。  特に長宗我部盛親と鍋島勝茂は真剣に上杉征伐のため東上しようとしていただけに、近江愛知川の関所で三成の兄石田正澄から足止めされた時には反発の方が強かった。また戻って仕方なく大坂城に入った経緯があったので、二人の大名に戦意は余計見られなかった。  この十日間どの寄手の兵も城を取り巻くだけで、日に何回か忘れたように義理で時々鉄砲を撃ちかけるだけであった。百日たっても城が落ちるとは思えない、悠長な戦振りであった。  三成は、諸将を前にして侮蔑の言葉を平気で放った。 「各々方は、それでも武士《もののふ》とおっしゃるのかの。武士の大義はどこに置いてこられたのか」  木で鼻を括ったような三成の物言いに、島津義弘と鍋島勝茂が先ず腹を立てた。 「鍋島家では、義に背いて、命を惜しむ家風はござらぬ」  勝茂が顔を紅潮させて大声で放声した。 「忍城《おしじょう》の二の舞は、島津の兵にはさせ申さぬ」  義弘が冷たく、三成に向かってこれまた言い放った。思いもがけない義弘の反発に、集められた大名たちの鬱憤が少し治まった。  十年前の北条氏攻めの折、石田三成の軍勢が支城の一つである武蔵忍城を攻めた話を思い出したからであった。当時、文官の三成が珍しく城攻めをしたところ、秀吉にならって水攻めにしたのである。しかし何日たっても城が落ちずに、回りの族将の物笑いになった有名な話であった。 「お手なみ拝見」  愚弄された恥ずかしさに、三成は捨て台詞を残してその場を立ち去った。三成が消えた陣屋から、急に諸大名の大笑いが沸き上がった。 「三成には治部少丸を攻めてもらいますか」  伏見城は、すべての豊臣大名にとって最も馴染み深い城であった。秀吉は秀頼が生まれると、全国の大名に命じて突貫で伏見城の建設に取りかかった。二十五万人の人夫を使い、わずか半年で金箔瓦に拭かれた伏見城が完成した。しかし皮肉にも、二年後の大地震で伏見城は全壊したのである。秀吉は意地となってまた半年で、本丸、二の丸、三の丸と八つの曲輪と屋敷を新築した。その中に、当時の奉行の住居でもあった石田三成の治部少丸、増田長盛の四丸、長束正家の大蔵丸、前田玄以の徳善丸と呼ばれた曲輪も造られていた。  その夜半から、西国武士の意地を賭けた戦いが始まった。陣太鼓と陣鉦を合図に奮起した諸将の熾烈な攻撃が、伏見城の攻め口のすべてで開始された。大手門から続く三の丸と治部少丸の攻め口は、宇喜多軍と石田軍の大山|伯耆《ほうき》と高野左馬助が担当した。東の名護屋丸は小早川秀秋、毛利吉成と小西行長、本丸に近い松の丸は鍋島、島津、立花らの武辺大名が攻撃した。  特に鍋島、島津の軍勢の奮戦は目覚ましかった。味方の銃撃を援護にして城壁に取りついた兵たちは、撃たれても射られても怯《ひる》むことなく同輩の屍を乗り越えて進撃した。  徳川方で本丸を守ったのは鳥居彦右衛門、二の丸は松平家忠、西の丸は松平近正、三の丸は内藤家長の武将であった。守兵はわずか千八百名、昼夜をわかたぬ上方勢の攻撃により、少しづつ城は崩されていった。  三日後の八月一日、鳥居彦右衛門の回りには最後の数十名の兵士だけが残っていた。火の手が回るなか、煙が本丸内に立ち込めてきていた。いつしか、銃撃の音も干戈《かんか》の響きもあたりから聞こえなくなっていた。最後に、本丸の天守閣だけが残っているようであった。  彦右衛門は最期が近づいていることを、全身の疲労感から感じていた。手も足も動かなかった。自分が手傷を負ったのかどうかも、よくわからなかった。名だたる大将率いる四万の軍勢を相手に、十日間以上も戦った満足感で彦右衛門は満足であった。これで殿も喜んでくれるだろうと思った。  その時、大きな力で彦右衛門は蹴飛ばされた。敵が侵入してきていた。彦右衛門に槍を突けようとした敵兵に付き人の一人が身体ごとぶつかり、その槍を外したのであった。  彦右衛門は最後の声を振り絞って、相手に向かって叫んだ。 「名を名乗れ。それがしは鳥居彦右衛門元忠、首が欲しくば、この太刀を受けて受けてみよ」 「これは御大将でござったか。秀吉の鉄砲隊鈴木|重朝《しげとも》なり。鉄砲なしでお相手つかまつる」  肥前名護屋で一万石を領している鈴木重朝は鉄砲隊百名を擁して、伏見城攻めに参加していた。雑賀衆出身の重朝は鉄砲だけでなく、もともと剣術にも勝れていた。恩賞目当てで真っ先に城内に乗り込んできただけに、大将に会えた幸運で重朝は興奮した。  彦右衛門が渾身の力で振り落とした太刀を、軽く身体を反らして重朝はかわした。太刀が空を切った瞬間、すぐに切り裂かれるような痛みを感じて意識がなくなっていった。死の直前、家康に城が落ちたことを知らせる使いをださなかったことを思い出した。  太閤秀吉がこよなく好んだ豪華な調度品、華麗な襖絵、屋敷が炎上して、無残にも灰になった。焼け焦がれて崩れ落ちた巨大な柱の上に、金箔瓦が無残に割れてうち捨てられていた。出陣した大坂奉行たちは三成を含めて、声もなくただ廃墟に立ちつくすだけであった。  江戸城の西の丸から見る濠には水蓮の花が連なり、夏の緑に相応しい紅色が点在して、あまり風雅の趣のない家康もしばらく目を止めていた。濠の土手のたもとに西門が見えた。西門の周囲に服部屋敷があり、与力二十騎と同心二百名が警備にあったっていた。  思い起こせば天正十八年の七月十三日、秀吉は北条攻めの論功行賞を発表した。意外にも、家康の領有する駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五ケ国を召し上げ、代わりに伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の北条氏の旧領二百四十万石を与えたのである。家康はなぜか黙って即座に拝命した。  その江戸打入りの八朔《はっさく》の吉日、服部半蔵は伊賀同心の頭領として一緒に入城した。家康は見ず知らずの土地へ移封される不安から、生死を賭けた本能寺の変後の伊賀越えから深く信頼していた半蔵を身辺警護の長としていた。  半蔵は江戸城からの逃げ口を西門にした。主君が万一の時には、西門から甲州街道を抜けて甲府に落ちる算段を考えていたからである。西門は命名者の半蔵が慶長元年に亡くなってから、自然と半蔵門と呼ばれ始めていた。  家康は「半蔵を呼べ」と声を出してから、亡くなってからもう四年になることに気がついた。  半蔵は大坂で豊臣方に仕える甲賀の忍びと戦い、遂に帰って来なかった。家康は口にだしては言わなかったが、家康暗殺の指示を受けた甲賀者と戦って死んだものと思っていた。あの頃、関白秀次を殺した秀吉は気がふれていた。秀頼の邪魔者として、秀次の次が家康であっても少しも不思議でなかった。  家康にはいま、半蔵の目と耳が欲しかった。天下を取るための戦が、思いもよらない大戦に膨れ上がっていた。正直、誰が敵で味方か、皆目、見当がつかなくなっていた。思案のしどころだった。  ふと、広縁の先に桔梗の花が数輪咲いているのに気がついた。桔梗は懐かしい明智の紋所。その瞬間、家康の身体に雷撃が走った。そう言えば、半蔵が最初に天海を紹介してきたはずだった。 「そうだったのか。半蔵、死んでもお主はそこまで考えてくれていたのか」  家康は自分の浅慮を恥じた。どこかで会ったことがあると思っていた天海は、光秀ではないか。半蔵と一緒に召し抱えた斎藤利光、角右衛門も皆、明智の一統であった。それなのに、天海をただ気骨のある坊主ということで、その出自にはいままで全く気がつかなかったのである。  大声で一人笑いをしだした。自分でも可笑しいくらい、いつまでも高笑いが続いた。何十年か振りに笑った大笑いであった。半蔵の、何食わない精悍で黒ずんだ顔が思い出された。今ごろ半蔵が舌を出して、笑っているように思えた。 「半蔵、そなたのためにもこの戦、勝たずにおかようか」  家康は久し振りに体中に気がみなぎった。 「誰か、天海を呼べ」  何知らぬ顔で天海に会おうと思った。天海はわしに、知らない知恵を授けてくれるに違いない。  黒書院に、天海はいつものように冷静にたたずんでいた。 「天海、そなたの知恵がいる。これからどうしたらよい」 「左様でござりますな。殿は諸大名の敵、味方の動向がわかるまで、この江戸を動かれぬことが肝要でござりましょう」 「うむ、して、それから」 「この戦、二人、いや三人を味方につければ勝てましょう」 「それは誰だ」  家康の黒目が一段と輝いた。 「まず北の政所さま、いや高台院さま。豊臣家はまだ高台院さまが仕切っておられます。次に家臣の福島正則。それに最大の敵は毛利でござります。しかし毛利は多分、吉川広家を口説けば」  家康の耳には天海の言葉は新鮮だった。どの家中にも鍵になる人物がいる。それを落とせば良いという単純明解な戦略であった。 「高台院さまには、実家の浅野長政から話をさせればよいと思われます。福島と吉川は、黒田親子から調略させれば事たりるはず」 「天海、なぜそのようなことが僧の分際でわかるのだ」  天海は軽く笑みを浮かべながら、 「何事も真実は一つでござる。それを探せば、答はいつも一つでござりましょう」 「しかし秀吉だけは見くびったな、天海殿」  急に天海の顔色が変わった。天海は家康を見ながら、ゆっくりと艶の有る髭をたれた。 「何も言われぬな。これからも天海として、わしに仕えて欲しい」 「は、は」  天海は頭を垂れた。そして押し殺した声で天海は語った。 「殿不在の折、近衛前久殿を通じて、帝には夢々、豊臣家に勅命などを出されぬようお願い申しあげておきました」 「それはでかした。しかし天下は力で取るもの。そうではござらぬか、天海」 「左様でござりますな」  天海は顔を上げて明るく笑うのであった。それは遠い昔の自分に対する笑いでもあった。  家康は天海が帰った後、一人居間に戻り、久し振りに文机の前に座った。最初に、高台院宛てに文をしたためようと思った。机の上には、多くの大名からの書状が積まれていた。家康は裏書きを見ながら、最初に分厚く膨れ上がった黒田長政の書き付けの封を切った。  中には、毛利家軍監の吉川広家が長政に依頼した書状がそのまま同封されていた。広家の一存に思えたが、毛利は徳川と戦わないという内容であった。しかし、広家の言をそのまま信じるほど毛利を信じていなかったと言うより、次第に憤怒の思いが胸に込みあげてきた。  本能寺の変の折、毛利が秀吉と手打ちなどせず戦っておれば、自分も光秀もこのような時間をかけずに今日の日を迎えていただろう。率直に、毛利の戦術はあべこべだと思った。あの当時、信長公と対等に話ができたのはこの家康のみであった。秀吉も光秀も、まして福島や石田などは顔は勿論、名も知らなかった。  吉川広家には悪いが、二十年間の付けをこの際、毛利家に廻そうと思った。家康は、最初から騙そうと考えた。暫く文案を思案した後、本多平八郎と井伊直政を呼んだ。 「ここに、吉川広家の書き付けが長政経由で参っておる。毛利はわしと戦わぬと言ってきておる。十万もの軍勢を集めた総大将が戦わずに詫びを入れる話など、聞いたこともないわ。その方ら二人、この書き付けを書き直し、そちらの血判を押して広家に送り返せ」  家康は怒気強く言うと、自筆の草案を二人の前に放った。直政が、恐る恐るその紙を取りあげた。 [#ここから2字下げ] 御忠節|相究《あいきわ》め候わば内府|直《じきじき》の墨付 毛利輝元殿へ取り候て進ずべく候事 付《つけたり》御分国の事申すに及ばず 只今の如く相違あるまじく候事 [#ここで字下げ終わり] 「これでよろしいので」  直政が心配そうに聞き直した。 「構わぬ。戦おうが、戦わぬとも毛利は許さぬ」  家康は完全に興奮していた。毛利家とだけは戈を交さぬ様、前年、誓書を家康から輝元宛に送っていたにも拘らずそれを一方的に破棄され、また和議を結ぶなど言語道断であった。積年の堪忍の堤が一気に切れていた。 「恐れながら殿、リーフデ号を江戸に回航させてきておりますが、あの異人をつれてまいりますか」 「おう、忘れておった。船長のアダムスとやらを早速に呼び出せ」  その年の慶長五年三月初め、豊後沖に漂着したオランダ船があった。堺港に回航して抑留させた。大坂城に船長ウイリアム・アダムスを召喚して対面したのが三月十六日のことであった。  家康は堺の御用商人、茶屋四郎次郎を通訳として同席させ、多くの質問を浴びせた。夜半まで談合を続けアダムスの人柄を気にいった家康は、自分の領国江戸まで来ることを約束させた。アダムスは約束通り船を直し、江戸に一足早く来て三ケ月近くも相模の三浦村で待っていたのである。  アダムスはオランダと云われる国の礼装をして待っていた。頭に黒色の被り物を着け、上着は赤色で腕の裾と首の回りを白色の布で覆っていた。腰下には足首を括った緑色のふくらんだ袴のような物を身につけていた。そして肩からは黒地に金襴の衣を纏っていた。目は青く、髪は金色で、白い顔に黒い口髭が奇妙であった。 「アダムスとやら、久し振りだ。戦が続いて会う機会がなかったが、息災か」  アダムスは茶屋の通訳を聞きながら、うなずいて返答した。 「アリガトウゴザイマス。ノリクミイントモミナゲンキデス。イクサガアルトキキミヤゲニ、ショウノウト、スイギンヲジサンシマシタ」  家康の顔がほころんだ。これからの戦は、鉄砲がその勝敗を分ける。それに使用される火薬の製造には樟脳《しょうのう》が不可欠であった。アダムスが進呈した樟脳の量は、弾丸数万発を造れる量であった。 「アダムス、そちの船には大筒を多数積んでいるという。一貫の玉を打ち出すことができると聞いた。どの位飛ぶのか」  アダムスはにやりと笑って、 「十チョウハトバセマスル」  十町と聞いて、家康は絶句した。 「もし敵がこの江戸湾に来たら、戦ってくれるか」 「オヤスキコト」  家康は内心、九鬼嘉隆の軍船が海上から江戸を攻めることを恐れていた。しかし、二十もの大筒を積んだアダムスの船を江戸湾に置いておけば安心であった。 「それはそうと、四郎、すいぎんとは何か」  茶屋四郎も水銀をアダムスが贈るとはいう意味がわからず、直接問いただした。しばらくして四郎は笑顔を浮かべて、 「殿、かの国には水銀と申すものがあり、これを使えば金、銀がいまよりも十倍も採れるそうです」  戦には、いくら金銀があっても困らなかった。甲斐と伊豆の鉱山も、最近は取れ高が激減していた。家康にとっては願ってもない進物であった。 「これより、この江戸に滞留を許す。日本橋に屋敷を与えよう」  アダムスは軽く礼をした。乗務員たちは早く国に帰りたがっていたが、この際、より大きな商売の道を日本の王となるだろう家康と結ぼうと考えた。  二人は一緒に、南蛮渡来の赤葡萄酒を飲み干した。   中 盤  月が変わり、八月一日、伏見城の守勢全員が玉砕して落城した。上方勢の初勝利であった。伏見攻めの大将宇喜多秀家は得意満面として大坂城に凱旋し、戦果を総大将毛利輝元に報告した。  早速、石田三成も大坂城の一室で三奉行達を集め、これからの作戦会議を始めた。それには安国寺惠瓊も参加していた。軍師としての大谷吉継は、越前敦賀城にあって顔を見せていなかった。 「これより、大坂方の軍勢を四手に分けたい。内訳はこのようにする」  三成が広げた西国の絵図には三本の朱線が引かれていた。一本は東海道から長島を経て尾張熱田へ、もう一本は中山道から大垣、尾張清洲へと、最後の一本は北国街道を敦賀、北の庄へと引かれていた。  軍扇の柄を図面に置いた三成は、 「この伊勢口は宇喜多中納言、他、筑前中納言、吉川広家、長宗我部土佐守、毛利秀元、毛利勝永、鍋島勝茂の四万五千で組むことにする。長束殿と惠瓊殿には軍監として従って頂こう。中央の美濃口は某と岐阜中納言、島津義弘、小西行長、稲葉一門の二万五千で参る。北国口は大谷刑部少輔が率いる立花宗茂、大津宰相、青木紀伊守以下の北国大名、都合一万五千ほどでどうかな」  石田三成は大坂方の作戦参謀として意気軒昂として三方面作戦を立案、実行しようとしていた。手元の陣立には大名だけで五十四名、その兵力は十八万四千九百七十人と記されていた。 「大坂城留守居として安芸中納言様の三万と共に、徳善院と増田右衛門はここに残ってくれ」  徳善院と呼ばれた前田玄以が青い頭を動かして、強い口調で三成に問いただした。 「三成、そなたが美濃口を受け持つというが、岐阜も大垣もまだ味方の城にはなっておらぬが」 「玄以、いいとこに気がついた。そなた、これから岐阜へ行ってくれぬか。織田秀信殿には美濃と尾張を馳走することで、話をつけてきてほしいのだ」  玄以の脳裏に、十八年前の忘れられない光景が浮かんだ。二条城から三法師こと秀信を抱いて、明智光秀の前を怯えながら歩いたことは、今でも片時も忘れたことはなかった。 「加賀の前田はどうする」  増田長盛が問いかけた。 「利長殿には北陸七ケ国を馳走すると、大谷吉継から調略させておる」  惠瓊は剛毅なことだと三成の大胆な策略に戸惑っていたが、前田家が上方勢に与力すれば、この戦は充分勝てると思われた。 「細川幽斎が八条宮殿に古今伝授を授けると言って、腹を切らずにいる。丹波の小野木などは、もう十日も戦をせずに待っているというではないか。三成、朝廷はどうするのだ。和歌遊びなどに、こだわっている時ではないだろう」  玄以がまた不機嫌な顔をして発言した。 「うむ、美濃に押し出す前に明日、西洞院時慶《にしのとういんときよし》のもとに掛け合ってくる。事と次第によっては、内裏から勅命を貰えるかもしれぬ」  惠瓊は三成の着眼にまた驚いた。太閤秀吉が三成の能力を誰よりも買っていたことが、あらためて分かるような気がした。時慶は、いま朝廷で最も天皇の寵を得ている公家と聞いていた。豊臣|贔屓《ひいき》の天皇が、上方勢に有利な勅命を出されることは充分考えられた。また時慶の娘は近々、天皇の内侍として入内《じゅだい》することになっていた  翌日、久し振りの雨が降っていた。三成は蓑笠を気軽に纏うと、馬廻りの中島左兵衛と後藤助左衛門を従え、桜門を勢いよく騎馬で通過した。雨が顔に当たって気持ち良かった。兵を起こしてからこの十日間、ろくに寝ていなかった。しかし天から秀吉が自分の采配を見てくれているかと思うと、眠気も感じなかった。  二刻もかからずに京に入った。供の二人は秀吉の時代からの馬廻りで、その手綱さばきは見事だった。馬が自然と走る感じだった。  申刻頃、三成は西洞院邸を訪ねた。まだ日が明るいにも拘らず、時慶の顔は酒で赤かった。  三成を見るなり時慶は、自分の仕事はしたはずという顔ですぐに答えた。 「先日は大坂で徳善院殿には馳走になった。近衛殿とすぐに打ち合わせ、田辺城には中院通勝を送ることにした」 「これより美濃に出陣する予定なので単刀直入に申します。伏見城が落ちた今、京以西はすべて大坂方でござる。豊臣秀頼さまの天下治世の為に、是非とも家康討伐の綸旨を伝奏願いたい」 「討伐の綸旨をか」 「いかにも。時慶様には綸旨奏上の暁には、丹後一国を豊臣家より差しあげる所存」  時慶は、丹後と聞いて細い目をつり上げた。どの公家も日々のやりくりに窮していただけに、酒好きの頭には瓶酒の姿が立ち並んだ。  八月三日、後備えとして瀬田付近にいた吉川広家は、副大将宇喜多秀家から伊勢侵攻を命ぜられた。長束正家の知らせでは、北伊勢の亀山城の岡本宗憲、神戸城の滝川雄利、桑名城の氏家行広はそれぞれ大坂方に味方したが、南伊勢の上野城の分部光嘉、安濃津城の富田信高、松坂城の古田重勝、岩出城の稲葉道通は徳川家に与力したという。九鬼嘉隆、守隆親子の去就ははっきりしなかった。  吉川広家は黒田長政からの返事を心待ちにしながら、毛利家の侍大将毛利秀元と毛利勝永に伊勢出陣の命を与えた。叔父の毛利元就八男の元康と九男秀包は大谷吉継の北陸軍に編入させた。丹後の田辺城には毛利高政を派遣していた。  吉川軍五千と毛利本家の一万は、八月五日に鈴鹿峠を越えて北伊勢の関に到着した。その他伏見城一番乗りを果たした鍋島勝茂や長宗我部盛親、松浦久信が続いた。  広家は関に本陣を張ることにした。関は、北の尾張にも南の鳥羽にも自在に動ける、戦略上の重要地点であったからである。全軍に軍装を解かせ、長期対陣できる指示を家老の宍戸と熊谷に与えた。  翌日、惠瓊の使番として家老の島十郎が、護衛の騎馬を多数ひき連れて広家の本陣に現れた。小柄な島の甲冑姿は甲冑だけが歩いているようで、兜の中の皺だらけの顔もよく見えなかった。  島は、もそもそと口上を始めた。いまや宿敵となった安国寺惠瓊が、長束正家と共に先陣を走っていることを知った。 「昨日、伊勢湾を渡って上杉攻めの軍勢が帰って参った。至急兵をだして頂きたいと、主《あるじ》からの申し伝えでござる」  広家は、島十郎の顔をよく覚えていた。大坂城に自分を案内してくれた家老であった。 「それで、敵は何名ほどでござるか」 「二百か三百かな。安濃津の城へ入って行ったので、富田の兵と思われる」  広家は、目前の年寄に向かって怒鳴りたくなった。戦のいろはも知らないにも、ほどがあったからである。 「惠瓊殿はその時、何をしておられたのか」  広家の冷たい物言いに、島は怯え始めていた 「何をとは」 「安国寺勢は軍勢を何名お持ちでござるかと聞いておる。何もせずに、ただ敵が城に入るのを見ておられたのか」  安国寺と長束の軍勢を合わせれば二千を越していた。敵が城に入る前に打ちかかれば、容易く蹴散らせたはずであった。城主の富田信高は前年、家督を引き継いだばかりで、戦の自信もない、うら若い青年である。それに女、子供しかいない安濃津城も落とせたはずであった。 「島とやら、戦とは仕掛け時を間違えると、勝つ戦も勝てなくなることを御存じか。城を落とすには、城兵の三倍から五倍の兵が必要でござる」 「われらは軍監でござる。戦うことは命を受けておりませぬ」 「これは無理なことを、広家言ったようだな。坊主は人を助けるのが仕事、殺《あや》めることは得意ではなかったな」  広家はそう言って、また冷たく笑った。 「それでは惠瓊殿の奇特にすがって、富田信高には城を明け渡すように書状を使わそう。いま用意いたすから、それを惠瓊殿の所にお持ち帰れ」  ここは戦うより、できるだけ時間をかせぐことを考えていた。富田や古田が会津から帰ってきたところをみると、まもなく福島や池田の精鋭部隊が尾張に顔を見せるのも間近いと思われた。不安であったが家康から何らかの返書があるまで、毛利の軍勢を動かすことは止めようと決意した。しかし、黒田長政に遣わせた家臣服部治兵衛はまだ影も姿も現さなかった。   焦 燥  いまや、日本全国が応仁の乱以来の戦国乱世に逆戻りした感があった。家康が投げかけた上杉征伐によって、二百有余の大名、小名が相争うことになった。  八月一日、鳥居彦右衛門の伏見城が上方勢に攻め落とされたころ、北陸の加賀でも戦が始まっていた。加賀の大守であり、豊臣五大老の一人である前田|利長《としなが》も七月二十六日、尾山城を二万五千の大軍を引き連れ出陣した。利家の次男で、利長の弟である能登七尾一万五千石の城主|利政《としまさ》も自兵五千を率いて、当然、軍団に加わっていた。  道は越中から会津を目指したのでなく、なぜか南の北国街道であった。この出陣は家督を相続して以来、利長にとって二度目の難題であった。家康からは北国勢を率いて会津津川口に向えという命令を受けていたが、準備にとまどっている間に大坂方からの檄文が届いてしまっていた。というより豊臣方と徳川方どちらにつくか、家中の意見が別れたままであった。  優柔不断な利長にとって、他国で何が起きているのか少しも判断がつかなかった。唯一の相談相手である母の芳春院《ほうしゅんいん》は、人質として江戸にあった。弟の利政は次男といっても十六歳も年下の二十二歳であり、まだ頼りにはならなかった。しかし弟は血気にはやり、前田家が天下を目指すべきだという志を変えていなかった。  母を徳川家に差し出した以上、旗幟は鮮明であったが、利長は持論を家臣たちに押しつけることができなかった。尾山城での数日にわたる長評定の結果、利長は家臣太田長知の意見を採用した。  軍を西に向け、前田に敵対する相手とは戦うというものであった。おかしなことに前田家の旗幟は、徳川でも、豊臣でもなく前田というものであった。多くの重臣は、前田家独自の判断でこの戦況を乗り切ることに賛意をしめした。利長は豊臣派である高畠定吉を尾山城の留守居として置いてきた。  砂浜沿いに松並木が続いている。海は青く、白波が浜に向かって規則正しくゆっくりと打ち返していた。けだるい夏の日の一日であった。しかし馬上の前田利長は、白い吹き流しの幟に「金」と書かれた馬標を見ながら、またため息をついていた。  尾山城の南わずか四里の松任からは、丹羽長秀の嫡男丹羽長重の領国であった。わずか十四歳で父の遺領である越前と加賀半国の七十五万石という大領国を引き継いだ長重は、家来の狼藉《ろうぜき》を処理できなかったという不始末で、その年すぐに秀吉に領地を召し上げられていた。そして、いまはわずか小松城付近の八万石の領土のみであった。  加賀百万石をうまく引き継いだ前田利長に、逆恨みの怨恨を持つ長重が簡単に道を通すとは思われなかった。現に石田三成からは、北陸探題にするということで調略を受けているようであった。  小松の五里南には大聖寺城の山口正弘、そして越前丸岡城の青山忠元、安居城主戸田勝成、北ノ庄城の青木一矩、敦賀城主大谷吉継らの上方勢の強兵が控えていた。 「兄上、案じるよりいまは仕掛けが先よ」  若い利政はしきりに兄、利長をけしかけていた。  いまさら会津へ向かったところで手遅れで、徳川家の敵は大坂城に変わってしまっている。しかしこのまま大坂に向かえば、四方から敵に囲まれ犬死にするのが落ちであった。かといって動かなければ、家康が勝った時には、母も領国も失うに違いないという不安が利長に先だった。これが出陣の真相であった。何の戦略もなかった。  弟の利政は、兄ほど徳川一辺倒ではなかった。もし豊臣方が勝てば、うまく豊臣に乗り換えれば良いと思っていた。したがって、小松城はそのまま黙って通過することを主張した。籠城している三千の兵を攻めるには犠牲が大き過ぎるし、余計なことをせずに通れば、長重も無理して前田勢に手向かってくることはないと力説した。  案の定、丹羽長重は前田の大軍が北国街道を南下することを黙認した。利政の言う通り、小松城からは何の連絡も追手もなかった。利長はほっとする反面、このまま進めば上方勢に味方することになると、また不安にとらわれた。いつしか軍は大聖寺城近くまで進んでいた。日にちは七月二十九日になっていた。  稲穂があたり一面、黄色く実っている。今年も豊作になるなと利長が考えた時、大聖寺城主の山口正弘からの使者がきた。口上は 「前田殿が大坂方に与力するならお通し申すが、徳川につくなら異議なくお通し申し難きなり」 であった。  正弘は若い時から秀吉に仕え、忠実で優良な家臣であり奉行としても能吏であった。一時期小早川秀秋の補佐役でもあった。  利長の不安は絶頂に達した。小松城から五里も深く、敵中に入ってしまったことになるからである。当然、山口正弘と丹羽長重は連合している。丹羽勢が後方をしたらと思うと、気が気ではなかった。 「兄上、このまま大聖寺城の山口を攻めましょう。敵は数百でござる。一刻もあれば、攻め落としてみせまする」  利政は強気に城攻めを提案した。利家以来の股肱の臣である山崎長徳、村井長頼たちも大きくうなずいた。腹心の誰もが、主君利長の度の過ぎた優柔不断さを嫌っていた。戦国時代の猛者《もさ》の見本ともいえる山崎長徳などは、主君をすでに三回も見限っていた。長徳は主家朝倉家の滅亡後、明智光秀に仕え、本能寺の変で二条城を攻め、山崎の合戦にも生き残った。また故郷越前で柴田家に仕え、賎ケ岳では秀吉と戦い、その後、前田利家に仕えた不死身の戦国武将であった。  大聖寺城は、二十丈ほどの錦城山《きんじょうさん》の山頂に建てられた典型的な山城であった。大聖寺川と三谷川の中州に面し、反対側は断崖と山稜になっている要害でもあった。しかし、守勢はわずか三百ほどであった。利政でなくても、誰もが短時間で城を落とせると思った。  八月二日未刻から攻撃が開始された。城主山口正弘の息子|修弘《のぶひろ》は果敢にも城外に出て、鉄砲で応撃した。両軍とも生死をかけての熾烈な戦になった。  前田家の侍大将富田蔵人は三日の早朝、大手門の攻防で白兵戦の結果、敵弾を受けて戦死した。その後も、利政の家来九里加兵衛や浅井兵部らも討ち死にするほどの大激戦が続いた。  山崎長徳も大手門を守る山口勢の侍大将|蒔田《しだ》次郎と一騎打ちをし、首を取るものの新手の敵勢に危うく首を掻かれそうになり、家人の助けで馬に乗せられ窮地を脱するほどであった。  日も傾きかけた申刻になって、山口正弘親子が自害した。本丸は火炎に包まれ、一昼夜に及ぶ戦闘が集結した。  上方勢にとっては始めての敗戦であった。北陸道を任された大谷吉継は前田軍動くとの報を受けて、すぐに敦賀から手勢千五百と与力の越前安居城の戸田勝成、今庄の赤座直保、丸岡城の青山忠元、東郷の丹羽長正ら二千五百の兵を引き連れて、青木|一矩《かずのり》の府中城に翌四日には入城した。それに大坂城からは淡路洲本の脇坂安治、伊予今治の小川祐忠と朽木元綱らの兵四千が、近江から加勢に駆けつける予定になっていた。  大谷吉継は親しい豊臣家馬廻りの武将たちを指揮して、久し振りに気が高ぶっていた。相手に不足はなかった。ここで前田軍を突き崩せれば、これからの戦は上方勢に逆に有利になると感じていた。  遭撃戦の作戦は簡単であった。小松城の丹羽長重と示し合わせ、北ノ庄と大聖寺の間で挟み撃ちにする作戦であった。吉継は物見を出すと同時に、大谷軍が海路から尾山城を攻めるという噂を流させた。必ず前田軍は兵を二つに割って、帰国組と本軍に分けると考えたからであった。敵兵が半分になれば、味方の八千の兵で充分戦える。作戦を考えている間、吉継は目が見えないことも不快な宿病をも忘れることができた。  その頃、小松城内でも戦評定がおこなわれていた。重臣の江口正吉と坂井直政が、城主丹羽長重に掛け合っていた。二人は、城を出て前田軍と戦うことを懇願していた。前田と大谷軍が戦っている間に、背後に廻り手薄な所を突くという考えであった。地の利を知った地元だけに、負ける訳はないと意気軒昂であった。  小松城の丹羽長重の許には、頻繁に石田三成と大谷吉継から大坂方への与力要請の書状が届いていた。長重は秀吉の勘気と陰謀で父の領国を取り上げられたものの、豊臣家に対する恨みは薄かった。それよりも、もう一度、大功を挙げて父の領土を取り返して、丹羽家を去っていって大名になった長束正家や村上義明らを見返したいという気持ちの方が強かった。その意味で、前田軍を討つことは千載一遇の好機であると捉えていた。  翌八月五日、前田利長は腹が痛くなる話を家老の村井から聞かされた。大谷吉継が北ノ庄から大聖寺に向けて進撃中であるということと、海路にて脇坂安治、小川祐忠の四国勢が尾山城に向かっているという情報であった。  利長の顔色が見る見る内に青くなっていった。いても立ってもいられなかった。すぐにでも兵を連れて退却することにした。家老村井長頼の進言をいれて、前田軍を二手に分けた。長連竜《ちょうつらたつ》、高山右近らが殿《しんがり》となり大坂勢を大聖寺付近で迎え撃つこととし、利長は利政と共に本隊の二万を率いて一路、尾山城に戻ることになった。  利長は兵が少なくなったため、来る時と同じように小松城下を抜けて北国街道をそのまま帰ることを恐れて、白山よりの間道を通ることにした。  日は暮れかかっていた。小松城に物見が慌ただしく、注進に駆け込んでくる。前田軍が二隊に別れ、その殿軍の五千が北国街道を下って、近くの安宅川を渡ろうとしているという情報であった。長重は今だと思った。「出陣」と大声を挙げて、搦手口《からめて》から城を飛び出した。  長重は、全軍三千と共に海岸沿いの砂浜を走った。松並木に隠れて、街道からは丹羽軍の動きは全くといっていいほど分からなかった。四半刻で前田軍の殿軍に追い着いた。  前田軍は、川の手前で夜営の準備に取りかかっていた。飯を炊く煙があちらこちらに立ち上がっている。誰一人として、丹羽軍が背後に近づいているなどと考えもしていなかった。  長重は鉄砲隊を畷《なわて》沿いに潜ませた。そして騎馬隊を安宅川沿いに進ませ、前田軍の進路を遮った。その上で騎馬隊で奇襲攻撃をしかけ、畷沿いに逃げ出してくるであろう敵兵をそこで銃撃して撃ち崩す作戦であった。  前田の足軽が川で鍋に水を入れようとして、川面に顔を近づけた。無作法に、上流から馬を歩ませてくる騎馬侍があった。 「おい、水が汚れるのがわからんのか」  足軽が、馬の主に向かって文句を言いながら顔を上げた。黒糸威の甲冑に身を固めた武将の旗差物は見慣れた梅鉢でなく、笹であった。その笹をしばらく黙って見つめていた足軽は、急に鍋を宙に向かって放り投げた。 「敵だ」  大声を挙げた瞬間、足軽の首もまた空に向かって飛んだ。それを合図に地響きを立てて騎馬の一団が、梅鉢の紋所の陣幕に向かって突進して行った。すぐに、収拾のつかない阿鼻叫喚の戦いが始まった。  夜営の準備中に突如襲われた長連竜の殿軍は慌てふためいて、隊列を崩して逃げ出した。敵の丹羽軍の兵数がどれほどであるかを計算する余裕もなかった。畷沿いに逃げて来た軍勢が丹羽の鉄砲隊に撃たれると、我先と今度は安宅川を勝手に渡りだした。  踏みとどまった長連竜と富田景勝の回りには、数十名の兵士しか見えなかった。坂井直政の兵五百が、首級をあげんと突っ込んでくる。連竜らが覚悟を決めた時、先行していた高山右近が救援に駆け戻ってきた。  逃げた前田軍もしばらくして隊形を建て直すと、数を頼みにして反撃に移った。暮れなずむ安宅川を挟んで、激烈な格闘戦が始まった。しかし勝敗の優劣が決まる前に、日は落ちて戦闘は中止となった。いずこともなく、陣引きの法螺貝が吹かれ始めた。  丹羽長重は、勝ち戦を失いたくなかった。すぐに兵を集めると、小松城に戻ったのである。しかし挙げた首級は、主だった長軍の家臣九名に過ぎなかった。  同じ頃、前田利長は半里先の本陣で夕飼の汁椀を手に取って、吸おうとしていた。その時、「敵襲」という罵声を聞いた。利長は、熱い椀をその場に落とした。現実は、想像をはるかに越える恐怖であった。すぐに利長は家臣達に担ぎ込まれるようにして、馬に乗せられて連れ去られた。利長はそのまま、後ろを一度も振り返らなかった。  一刻後、前田利政率いる二万の本隊が浅井畷に応援に駆けつけた。畷の土手に旗差物、小荷駄、食器などが散乱しているだけで敵兵は一兵もいなかった。それに、手負いの侍も亡骸《なきがら》の一つも見えなかった。いの一番に駆け戻った山崎長徳は地団駄踏んで、地べたに転がっている旗に槍を差し込んだ。戦わずに一目散に逃げた、主君利長の戦下手に愛想が尽きていた。  その夜、北ノ庄城の大谷吉継は兵を動かさなかった。前田軍が国許に帰れば、取り敢えず上方勢の勝ちであったからである。   転 回  八月九日の早朝、一度大坂城から帰った石田三成は佐和山城をまた出陣しようとしていた。まださしたる戦果がないにも拘らず上機嫌であった。伏見城を落として以来、この近江一円に敵はいなくなっていたからである。  三成は、主力の戦場になるであろう美濃方面を自ら志願して兵を進めようとしていた。石田勢六千に女婿の福原|長尭《ながたか》と妹の夫熊谷直盛の二千と、朋友の肥後二十万石宇土城主小西行長の軍六千を加え、総勢一万四千の兵で中山道を大垣に向かって進撃を開始していた。  大垣城まで佐和山から約五里の道中である。美濃大垣城の城主は伊藤彦兵衛盛正で、三万四千石を領していた。一年前に父の彦兵衛盛景が亡くなり、家督と代々の名前を相続したばかりであった。  伊吹山々麓の関ケ原を抜けて、平塚為広の治める垂井城が見える頃、小西行長が心配そうな顔をしながら三成に馬を近づけてきた。為広は既に大坂方として加賀征伐に出陣し、垂井城は留守番だけであったので、軍団はそのまま通過するつもりであった。 「三成、彦兵衛の息子には話をつけてあるのか」 「丸毛《まるも》と川尻から城明け渡しの話がいっている。心配はない」  三成は、大垣の南二里近くに領する美濃福束城二万石の丸毛兼利と、同じく南美濃苗木城一万石の川尻秀長をそれぞれ十万石の高禄で調略していた。そして二人から彦兵衛に美濃半国の恩賞を餌に、上方勢への与力を申し入れさせていたのであった。いずれ美濃と尾張の国境が家康との一戦の場所になると思っていただけに、大垣城と岐阜城はどうしてもそれまでに手に入れておかなければならない城であった。  日が昇り、青空高くその日円が消えた頃、伊藤彦兵衛は大垣城の総塗り込め四階の天守閣から西方の伊吹山を見つめていた。そして、関ケ原の山間の道から石田三成の軍勢が早く見えないかと気をもんでいた。  丸毛と川尻からは、大垣城を差し出せば、戦に勝った後は美濃半国の二十五万石を与えるという話をすでに聞いていた。一奉行の石田三成にそのような大盤振る舞いができるとは思えなかったが、事実とすれば、父彦兵衛が一生かかって得た三万石の何倍かの大々名になれるかと思うと、独りでに心がはずんでいた。この城に居るかぎり、家康が何十万の大軍を引き連れてこようが負ける気はしなかった。この十年間に伊藤家の心血を注いで、大垣城をそれに値する堅固な城に変身させていたからである。  城に到着した三成は、まだ三十歳前後の欲の張った彦兵衛をさしたる時間をかけずに説得した。彦兵衛はわずか千名の家臣で戦うよりも、城を出ることで美濃半国が入ることを選んだのである。  彦兵衛が城を出た後、三成は福原長尭を城番として大垣城に入れた。その他九州勢の立花直次、垣見家純、頼房ら七千の兵が続いて大垣城に入城した。  三成は、大垣城を取得しても喜んではいられなかった。もう一つ、大きな仕事があったのである。それは織田中納言秀信を与力させ、大垣城の東三里に位置する岐阜城を手に入れることであった。岐阜城は織田信長が十年の長きに渡って天下布武を目指した、思いで深い城であった。  城は長良川沿いの金華山の頂上に建てられ、美濃平野を一望にできる高所にあった。大垣城以上に攻めるに難く、守るに易き名城であった。  城主の織田秀信、幼名三法師ほど運命にもてあそばれた人物も珍しかった。織田信忠の嫡子に生まれ本能寺の変で父を三歳にして失ったが、秀吉の主催する清洲会議で織田家の後継者とされた。そして秀吉亡き後、今度は天下分け目の戦の中心となる美濃十三万石の岐阜城主として、その帰趨を全国の大名から注目されることになったのである。  秀信は主のいない安土城に幼くして移され、長く世間から隔離されて育った。織田家縁故の大名たちもなぜか安土城と聞くと気味悪がって足を向けることはなくなり、秀信は世間から忘れ去れていた。  秀吉は信長公の暗愚な遺児である信雄、信孝には辛くあたったが、天下を取らせてくれた義理からか秀信だけには優しかった。秀信は十八歳になって、父の旧城である懐かしい岐阜城に戻された  三成はこの織田秀信に馳走させる手だてとして、うってつけの人材を既に派遣していた。丹波亀山五万石の城主であり、寺社奉行の前田徳善院玄以であった。玄以は長年、秀信の養育係でもあり、誰よりも秀信が話を聞く人物と思われた。  玄以は、石田三成の家臣河瀬左馬助を同道して岐阜城を訪れた。織田中納言秀信は三成からの馳走文を見ると、 「玄以、豊臣秀頼がわしに美濃と尾張をくれるという。信じてよいかな」  秀信の童顔姿と話し方は、とても二十歳になった青年武将には見えなかった。父の旧領であった美濃と尾張を領することができると聞かされて、舞い上がっていた。秀信の世界は、本能寺の変の時から少しも進んでいなかった。そして、七月一日の会津出陣を見送った意味があったと喜んでいた。  しかし、側に控えていた家老の木造具康《こづくりともやす》は信雄の元家臣だけあって、主家没落の原因が秀吉にあったことをよく知っていた。それだけに、秀信の甘さに渋い顔をしていた。  玄以もあまりにも秀信が素直に同意したので、欲のなさに驚くと同時に、事態が本当にわかっているのか、逆に心配になってきた。 「ここに、三奉行からの誓書を持参いたしました。しかし、戦になれば清洲城の福島正則といの一番に戦わねばなりませぬが、よろしいので」 「正則は豊臣一の家臣と聞く。それがなぜ、わしを攻めにくるのだ」  玄以はあらためて、純粋に人を疑わない若者の直言に絶句した。たしかに正則には、家康に与力して織田家の宗主や豊臣家に歯向かう明白な大義がなかった。秀信の言うように、今度の戦いで苦しいのは福島正則や家康の方なのかもしれないと感じた。  美濃の大守織田秀信が大坂方についた結果、他の美濃の小名、大名はことごとく上方勢に雪崩をうって味方することになる。美濃の地は戦国乱世の典型的な土地でもあった。この百年の間に土岐、斉藤、織田、豊臣と常に権力者が代わった。自分の領土を守るためには、時の流れを鋭敏に捕える能力が必要だった。自領を守ることが善であり、その為なら方策は何でも許された土地柄であった。  秀信に味方した主だった武将は西美濃岩村城主の田丸直昌、北美濃|鉈尾山《なたおやま》城主の佐藤方政、太田山城主の原長頼、南美濃高須城主の高木盛兼らであった。やはり秀信が大坂方についたということで、信長以来の織田家の家臣であった名門稲葉家も秀信に同心することになった。郡上八幡城主の稲葉貞通、清水城主の稲葉通重らの猛者大名が味方した。  それに尾張国境の犬山城主の石川貞清はもともと三成の次女珠子の夫で、当初から大坂方に与力していた。美濃国は力攻めをしない限り関東勢は一歩も西に進めない状態になった。  徳川家康についたのは会津遠征に同行した大垣の北一里に位置する曽根城主の西尾光教と南美濃高松城主の徳永寿昌、それに同じ南美濃今尾城主の市橋長勝だけであった。三成は難なく八月十一日には大垣、岐阜の両城に自兵を送り込むことに成功した。  龍山は暑気払いを兼ねて、内裏の裏手にある相国寺《しょうこくじ》の方丈を訪れていた。庫裏の裏側の方丈に、龍山の好きな庭があったからである。白砂に枯山水の庭の中央を、今出川から引いた水が涼しげに流れている。あらためて花の御所と呼ばれて、足利義満がここで政治をおこなった気持ちが分かるような気がした。  久方振りにここ数日、あることを真剣に考えていた。本能寺のような無様な失敗は許されない。朝廷としての判断をだす前に、一人の人物と会うことが必要と考えていた。それは太閤秀吉の正室北政所、落飾した高台院であった。  明日、高台寺で会う手筈がついた折、龍山は一人で考える時が欲しかった。高台院の考え一つで朝廷、の存亡にかかわることになると憂えていた。しかし色々と思いあまるより、本人に直接問いただそうと思い直した。  翌日、高台院は笑顔で龍山を出迎えた。醍醐の花見や、茶会でそれとなく顔を合わせてはいたものの二人きりで、それも秀吉なしで話あうのは始めてのことであった。高台院は親しげに、思ったことを気さくに龍山に話しかけた。  世情の話が一通り終った頃、龍山がとぼけたように問いかけた。 「石田治部少輔は、天下を治める器量がござりますかな」 「佐吉は近江の商人生《あきんど》まれ、商人が侍を御するのは無理や。意地を張る武士と無理を省く商人は所詮、水と油。佐吉も阿呆になれたらいいのにな」 「しかし世間は、三成が豊臣家を仕切っていると」 「いかにも。しかし皆には、この戦はそなた達の内輪喧嘩、お互いに血を見んと分からぬのなら好きにせいと申しております。近衛殿、信長さまも夫も天下、天下と申して血を流し過ぎたと思われませんか。わたしはこうして毎日、お二人があの世で苦しまぬよう線香をあげて祈っております」 「そうでござりますな。切った張ったで天下を治められるなら、苦労しませんな」  龍山はいま京と大坂の町で噂になっている、ある気になることを思い切って聞くことにした。 「最近恐れ多くも、秀頼さまご出生の噂が京の町衆の中に広まっていることを、高台院さまはごぞんじかな」  高台院は顔をしかめて、 「人の口に戸は立てられませぬ。私も因果応報と諦めております。豊臣の天下が続かなくても仕方ありません」  やはり町の噂は本当だった。死期の迫った秀吉が、豊臣家の世継ぎを得るために納得づくで男を寝所に忍ばせて、淀殿に子を生ませたという猟奇《りょうき》迫る話であった。  しかし、高台院は奇妙な話をし続けた。 「信長さまが私を生まなければ、夫もかように苦しまなかったものを」  龍山は高台院の顔を見ながら、絶句した。  それを見た高台院は言葉を足した。 「驚かして悪いのう。信長さまが十六歳の時に侍女に生ませた子が、この祢や」  龍山は信長と家臣秀吉の関係を始めて知った。鳥肌の立つ思いであった。多数の織田家嫡子を抜いて、清洲会議で秀吉が織田家の後継者になった訳の真相を始めて理解した。  しかし女性《にょしょう》ながら豊臣家の行く末を冷静に見詰めている姿は、秀吉以上に天下の王道を知っていると感歎した。高台院のふくよかな顔を見ながら、龍山は自分の腹が決まったことを感じた。  その日はるか遠く会津から、福島正則が誰よりも早く居城清洲に帰ってきた。五年前に関白秀次が高野山で自害後、秀吉から秀次の居城であった清洲城を預けられた。以来、石高は元の伊予十一万石から二十四万石に増えていた。秀吉の姻戚の中で加藤清正に次いでの武功を挙げており、いまや押しも押されもせぬ豊臣家の重臣であった。  清洲と岐阜はわずか五里の距離である。正則も、自分の城の重要性を誰よりも自覚していた。万一ここを落とされたら、尾張一国を失うことになる戦略的な城であった。  正則は五条川の橋を渡り清洲城の大手門をくぐった瞬間、初めて国に帰ったという思いを感じた。しかし足を洗う暇もなく家臣達に、後続してくる大名、諸将の受け入れの手配を命じていた。飯の炊き出し、部屋の用意、馬の飼葉と猫の手も借りたい忙しさであった。  小山評定で清洲城集合を命ぜられた以上、面子にかけて落ち度のないよう万全の準備をするつもりであった。集合第一陣は、妻を失った細川忠興の五千の兵であった。  清洲城は正則が改築、増築して東西十五町、南北二十七町の広大な平城に生まれ変わっていた。それから数日間、昼も夜もなく兵士と騎馬が入城してきた。諸将の数は、徳川の本多平八郎の千五百以外に三万五千人にもなっていた。早く戦を仕掛けなければ、あっという間に兵糧米はなくなると、さすがに剛毅な正則も青くなっていた。  そんな中、美濃の小大名である徳永|寿昌《ながまさ》が健気にも清洲城を出て、自城高松城に帰ろうとしていた。城は東に木曾川を越えて、長良川と揖斐《いび》川の間にあった。  正則は天守閣からその軍列を見ていたが、急に思い出したように大声をだした。 「時延《ときのぶ》を呼べ。徳永寿昌に与力せいと申せ」  もし高松城が敵に落とされていたら、わずかな兵で大兵と戦わなければならない。正則の心情として、敵地に一人で返すことはできなかった。尾張での配下、赤目城主横井時延の千の兵を加勢させたのである。  寿昌は、なにか戦国の時代を楽しんでいる余裕を感じさせる武将であった。五十歳になった今でも、しぶとく生き残ろうとしていた。今回、寿昌ははっきりとした信念を持っていた。この美濃、尾張地区で福島正則に勝てる武将はいない、正則が家康に味方する以上、自分も徳川方につこうと割り切っていた。この年になって、みすみす負ける方につく義理はもう無くなっていた。  寿昌は、増えた二千の兵を率いて木曾川を傍若無人に渡った。家臣がまだ高松城は健在であることを知らせてきていたので、安心して城へ急ぐことができた。  木曾川の浅瀬の流れに愛馬が気持ちよさそうに、しぶきを上げて横切って行く。城が落とされなかったのは幸運だった。この運を生かして一働きせねばならない。大垣城に集まっている上方勢が攻めてくるとすれば、目と鼻の先にある福束《ふくつか》城の丸毛兼利《まるもかねとし》が先鋒になるに違いない。あやつが大仰な顔をする前に城を落としてくれると、寿昌は不敵な思いを抱いて木曾川を渡った。  福束は揖斐川に面した川港であった。古くより伊勢海から大垣に通じる運送の中継地であった。寿昌は、福束城を落とせば、美濃と伊勢の糧道を遮断できることを知っていた。丸毛家は二万石の石高で、常時動かせる兵力は五百人度である。横井時延が加勢してくれたお蔭で、兵は二千になっている。負ける戦ではないと、一勝負かけることに決めた。  最年長の貫禄で、寿昌は与力の横井と市橋に福束城をすぐに攻めることを提案した。二人共、寿昌の案にすぐ乗った。寿昌は自城に帰らず、兵をそのまま北に向けた。夕刻日が落ちる頃、長良川を渡った。福束城まではあと二里もなかった。  夜の帳に一帯がつつまれた頃、寿昌は揖斐川対岸の船と倉庫を焼きはらわせた。城からすぐに、見張りの兵の一団が飛び出してきた。大手門が開かれるや否や、潜んでいた軍勢が揖斐川を渡りそのまま城内になだれ込んだ。敵がまさか清洲城から大垣まで来ているとは、城内の丸毛家の兵は誰一人として気がついていなかった。  城主丸毛兼利は、あわてふためいて城から逐電した。城は半刻もせずに、わずか一里半先の大垣城に救援を出す間もなく徳永寿昌の手に落ちた。七月十七日の上方勢の挙兵宣言から一ヶ月たって、徳川方が加賀の大聖寺城に次いで落とした二番目の大坂方の城であった。八月十六日の深夜のことであった。  大垣城にいた石田三成は、福束落城を翌早暁に知らされた。しかし落城を嘆くより、なぜか、あの丸顔の丸毛に十万石を渡さないで済んだという気持ちの方が三成には強かった。  その日、福束城の戦略的重要性に三成の勘は働かなかった。そのまま、救援の兵を送ることもせず無視をした。小城の一つなどいつでも取り返せる、自分は大軍の総帥であると言い聞かせていた。しかし心中は、小城攻めに手間取って豊臣軍総指揮の権威を失いたくなかった。長く落とせなかった忍城の思いが、自然と心の傷として疼いた。  時折、秋を感じさせる風が江戸城の中を吹き始めていた。家康は障子が大きく開け放れた書院の窓から、赤坂の溜池を茫然と見つめていた。目の前の文机の前には、書き終えた書状が山のように散乱していた。  八月五日に小山から江戸に戻ってから十日間も、この部屋に閉じこもって全国の諸大名に向けて筆を取っていた。今まで月に一通もよく書かなかった家康が、不思議なことに福島正則にはすでに三通、弟の福島高晴にも一通の書状を書いていた。細川忠興には三通、浅野幸長に二通、池田輝政に二通、伊達正宗に三通、それに九鬼守隆、森忠政、加藤嘉明、村上義明、黒田長政にはそれぞれ一通を出していた。  さすがに疲れて老眼鏡を外した。それははるか昔、明智光秀から貰った愛用の眼鏡だった。清洲にいる本多平八郎と黒田長政からは、二日と経たずに出馬の要請状が届いていた。家康がいなければ、いつ福島正則が寝返るかわからないという不安を訴えてきていた。  しかし、手紙を書けば書くほど疑念が沸き上がって、誰も信用できなくなっていた。特に尾張の福島正則と陸奥の伊達正宗の動静が、今度の戦を左右するに違いないと思えた。戦巧者《いくさこうしゃ》だけに、いつ関東勢から寝返ってもおかしくなかった。  大坂方も恩賞を餌に同じように、どの大名にも馳走の手紙を出しているに違いない。徳川家の二百五十万石を分け与えるつもりなら、かなりの大盤振舞いができるはずである。ひょっとするとその面では大坂方の方が有利かもしれないと、家康は筆を休みながら思っていた。敵がはっきりしない現在、軽々しく恩賞の約束はできなかった。  それに、自分自身が江戸から動けなかった。もし徳川家全軍が西へ動けば、会津の上杉景勝と常陸の佐竹|義宣《よしのぶ》はこれ幸いと江戸城に攻めてくるに違いなかった。何か手を打たない限り、一歩もここから出る訳にはいかなかった。  脇に広げた全国地図を見ながら、思案に困った家康は天海を呼ぶことにした。  半刻もせずに天海が春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》凜《りん》として書院に現れた。 「そろそろ、お呼びがかかる頃合いかと存じておりました」  天海は家康に拝謁するなり、直截に切り出した。 「天海、次の手がわからぬ。そちなら、どうする」 「先ず前後に敵を構えることは、避けねばなりませぬでしょう」 「いかにも。東か西か、どちらを取る」 「殿の天下取りのためには、西に向かわねばなりませぬ。しかし、それではこの江戸が留守になります」 「いかにも。して」  家康は天海に問いつめるように、身を乗り出した。 「しからば、江戸が留守でないように、見せかけねばなりませぬ」 「どうする」 「結城秀康殿に会津の国境を固めさせ、後はこの江戸城を秀忠殿に任せられたらよいと思います。殿は三万ほどの軍勢を率いて、東海道をゆっくりとお上りなさればと考えます」  天海に言われるまでもなく、秀康には榊原康正を副将として三万八千の徳川勢を付けて宇都宮城周辺を守備させていた。 「しかし三万では、上方勢にはかなわぬぞ」 「ご心配なく。徳川家は戦う必要はござりませぬ。豊臣大名を戦わせれば、戦う駒に不足はありませぬ」  家康は爪を噛んで考え始めた。天海の言うとおり、徳川の本隊は上杉の押えとして江戸に置いておかねばならない。しかし果して、徳川本軍が戦わずに豊臣の与力大名たちが真剣に戦うだろうか。 「殿は豊臣譜代の大名らが寝返ることを恐れておるようですが、ここは謀略を用い彼ら同志を戦わせれば、徳川身内の血は流さずにすみます」 「いかにして」 「まず、福島正則を扇動して上方勢を攻めさせるが肝要かと。さすれば、正則らの進退が見極められます。秀忠殿の江戸の兵を動かすのは、それからでも遅くはありませぬ」  家康は一理あると納得した。すぐに井伊直政を呼んで、宇都宮城の徳川三万八千の軍監として出立を命じた。そして新たな命令があるまで、絶対に会津国境から動いてはならないことを厳命した。それから本多正信を呼んだ。  正信は天海が同席しているのを知って、皺だらけな顔をより深くした。狡猾《こうかつ》な正信は王道をいく天海の謀略には一目を置かざるをえなかったからである。 「正信、清洲の福島正則に使者を立てたい。誰が良いかな」 「いかような伝言でござるか」 「天海、言うてみよ」 「もともとこの戦は、各々の存念で取り計らうべきものなり。徳川に与力されたくば敵に討ち懸かるが本筋、徳川に加勢頼むは不可思議に候。後の合戦にはお気遣い無用。かような口上でいかがでしょうか」  天海が素っ気なく述べた口上は、家康も正信にも全く意図しなかったものであった。よく考えてみれば、いま東西に敵を受けて一番苦難にあるのは徳川家であり、福島家でも黒田家でもなかった。さすれば天海が申すように、まず客将らがその忠誠心を見せるべきであって、徳川の与力がないと言って憤っている清洲城付近の大名の行動は迷惑千万以外何者でもなかった。 「村越直吉を行かせましょう」  本多正信はすぐに事態の本質を知り、一人の使者を推薦した。 「茂助《もすけ》か」  家康は、昔からの呼び名で呼んだ。村越茂助直吉は古くから家康に仕え、千石取りの旗本であった。ただただ質実剛健、謹厳実直な三河武士の典型であった。小柄で無口な茂助は探さない限り、どこにいるのか分からない存在でもあった。  家康は、すぐに茂助の使者を気にいった。茂助なら、うるさい豊臣の大名たちの中でも、構わずに口上を述べることができると思ったからである。  翌八月十三日、茂助は主君家康から直接受けた口上を頭に入れると、江戸城を発って尾張に向かった。発つ前に浜松城で療養中の堀尾吉晴の元に立ち寄り、加賀井重望から受けた創傷の見舞いも申しつかった。   陣《じん》 定《さだめ》  八月十二日、御所に参議の公卿たちが集められた。元関白二条昭実、一条内基、元太政大臣近衛前久、左大臣近衛|信尹《のぶただ》、右大臣|今出川晴季《いまでがわはるすえ》、言大納言西園寺実益、烏丸光宣、大炊御門経頼、日野輝資、広橋兼勝、勧修晴豊、鷹司信房、権中納言|正親《おおぎ》町季秀、三条公盛、中院通勝《なかのいんみちまさ》ら殆どの参議が出席した。  参議二十九名中、武家の内大臣徳川家康、権中納言豊臣秀頼、織田秀信と参議結城秀康は当然招かれていなかった。  左大臣近衛信尹の口切で、巳刻から陣定が始まった。信尹は近衛前久の男で三十五歳になる。歌道、茶道、書道に秀でており、次期関白候補として誰しもが認める逸材であった。 「細川兵部大輔幽斎より、こたび八条智仁親王に古今伝授の奥義を授けたいとの奏上があった。いかが取り計らうものか、皆様方のご意見をお聞きするのが本日の議定でござりまする。その前に中院通勝が丹後の田辺城より戻っておるので、話を聞いてくだされ」 「田辺城は、豊臣方の軍勢一万五千に取り囲まれております。幽斎率いる城兵は、わずか五百にも満たりませぬ。いまのままでは奥義を伝授するといえども、幽斎は城から一歩も出れぬ有様」  席上の誰しもが、通勝の言葉にうなずいた。 「もともとは三條西《さんじょうにし》家が古今伝授を受け継ぐところ、父、公国《きみくに》が急逝し、幽斎がまた引く継ぐ次第になっておりまする。この際、古今不易の歌道は一刻も早く公卿のもとに戻すことが先決。その意味では親王への伝授は良きことと思われます」  若い三條公盛が大胆な提言をした。 「親王を血に狂った武者どもの所へなど、送れませぬ。勅命で和議でもせん限りは」  豊臣秀吉に関白を譲った二条昭実が、ゆったりと威厳を持って発言した。 「それでは、朝廷は徳川に味方することになりますぞ」  怯えた声で、今出川晴季が口を差し挟んだ。無理もなかった。晴季は豊臣家に肩入れし娘を関白秀次に嫁がせたが、秀次謀反に連座したため娘は断罪、自分は越後に流された驚愕の経験をしていたからである。事と次第でまた豊臣家から仕返しを受けることを恐れていた。  晴季の発言で会議は古今伝授から、徳川か豊臣につくかで参議たちは銘々勝手に話し始めた。席が急に騒然となった。  西洞院|時慶《ときよし》は今年、参議に昇格したばかりで、縁側の端の席に座って小さくなっていた。何とかこの場で多くの参議が豊臣に味方するという流れになることを、黙って期待していた。末席の自分が発言するにはまだ早いと周囲をきょろきょろと見回している時、上席の片隅から太い声が響き渡った。全員が注目した。 「静まられい。この前久、いや龍山が一言申しあげる。およそ朝廷のこと、当世ことごとく有名無実なり。古今の歌道からして、夏草の中に小道消えゆるがごとしなり。しかるがゆえに、朝廷の大事は歌道にあると申せるのではないか。本日は古今伝授のための、勅命の和議を奏上することがしかるべきと存じ奉るが」 「ごもっともなお説でござります。この光宣ご賛同申しあげる」  権大納言|烏丸光宣《からすまるみつのぶ》の賛意で、和議勅命が決まった。息子の光広は、若い公卿の中で一番の和歌の歌い手であった。また幽斎に長年私事している弟子でもあった。それだけに影響力があった。 「また、こたびの内大臣家康殿と権中納言秀頼さまとの争いは、内府ならびに北政所、いや豊臣吉子殿に直々麿がお伺いした所、これは家臣達の内輪争い、両家とも一切預かり知らずと申されておった」 「それでは朝廷はこの戦には、一切かかわり申せずといたしたいと存じます」 「時慶、大坂はよろしいな」  龍山の声に、三成からの恩賞の話が洩れたのかと、一瞬焦った。 「は、はー」  司会の信尹の動議に全員異もなく、うなずいて陣定の会議は終った。早速、天下無事の和議の勅名が奏上され、天皇の裁可が下された。その場で、和議の勅使としてまた、中院通兼《なかのいんみちかね》が選ばれた。しかし、誰からも大坂城と徳川家への使者の名前はでなかった。  八月十九日、茂助は清洲城に到着した。殆ど表情を変えない茂助も、清洲周辺の異様な有様には驚いた。あらゆる道端と広場に何千という兵士と馬、酒、食売り、飯屋、道具屋、遊女、傀儡子《くぐつし》の類が混然として集まり、暑さの中で罵声の混じった異様な臭気を発していた。誰が雇ったのか、或は雇われようとして、全国のいたる所から無頼、浮浪の武者、徒《とも》が集まっていた。  清洲城に先発していた徳川家軍監の本多平八郎が、茂助を神妙な顔で迎えた。集まった大名たちの中では徳川家康の本軍がいまだ江戸を出立していない不満が城内に立ち込め、いまやそれは家康糾弾に変わっていた。平八郎一人では、もはや如何ともできぬ状況にあった。  茂助は旅装を解く間もなく、清洲城の一室に閉じ込められた。 「茂助、殿はいつ出立された」 「まだでござります」 「まだか」  平八郎は落胆した声で言った。 「して、殿からの書状は」 「書状はござりませぬ。口上を授かってまいりました」 「茂助、早く言ってみよ」  平八郎は一喝するような怖い顔で、茂助に顔を近づけた。 「口上は福島正則殿にお伝えせよと、命ぜられてまいりました」 「わかっておる。その前に、わしは知っておかねばならぬのじゃ」 「本多殿、口上は福島様のみにお伝えせよ、と命ぜられております」 「茂助、わしの言うことが聞けんのか」 「何と言われましょうと、殿からの口上は福島正則殿にお伝えせよとのみしか申しつかっておりません」  平八郎の恫喝《どうかつ》にも巌として茂助は首を縦にふらなかった。平八郎は身内ながら三河武士の偏屈さに呆れ、音《ね》を挙げた。 「勝手にせい。正則に首を刎ねられても、助けんぞな」  清洲城の大広間には二十人ほどの大名、小名が詰めかけていた。円座の中央に茂助は座らせられた。目の前に、福島正則のいかつい肩と口髭があった。その回りを黒田長政、田中吉政、山内一豊、池田輝政、堀尾忠氏らの東海道沿いの城主が取り囲んだ。 「村越直吉でござる。これより殿の口上を申しあげる」  茂助は周囲の雰囲気に萎縮しながらも、声だけは大きかった。 「もともとこの戦は、各々方の存念ですべきものなり。しかるに敵に討ち懸からず、徳川に与力求めるは迷惑千万、不可思議なり。向後の戦は、われらに気遣い御無用なり」  剛胆で名の知れた本多平八郎も茂助の口上を聞いて、一瞬黒い顔が青くなった。これではまるで、福島正則たち豊臣大名に喧嘩を売っているに等しかった。 「村越とやら、家康殿の口上はそれだけか」  正則が黒い大きな目を真っ直ぐ見据えたまま、茂助にゆっくりと聞いた。 「以上でござる」  広間の誰しもが、正則の次の行動に恐れを抱いた。正則が立腹した時、何人もの側用人を一刀の下に斬り殺していることを知っていたからである。  黒田長政は、これで正則と家康は手が切れると確信した。今までの苦労が水の泡になる。  その時、正則が手にしていた軍扇で膝を強く叩いた。 「徳川殿の申すこと、ごもっともなり。われらで石田三成ごときの首、挙げられまいでどうしよう。早速、明日より美濃に攻めかかると、家康殿にはご報告あれ」  広間の全員から、ため息とも安堵ともつかぬ声が上がった。 「忠興殿、朝廷は今回の戦は豊臣家の内輪争いと決められたそうだな。間違いはござらぬな」  正則は急に、細川忠興に向かって意外な発言をした。  忠興は昨夜、中院通勝からの書状で、天下無事の和議の勅命が丹後田辺城の両軍に遣わされたことを知った。それを、正則と平八郎には報告していたのであった。 「いかにも。高台院さまも、近衛前久殿にこの戦、豊臣家は相知らぬことと申されたとお聞きしております」  いまや、誰もが事情を把握していた。単なる豊臣家の私闘ということなら、大坂城の秀頼にも徳川家にも関係なく大坂方を攻めることができる。正則の目も輝いていた。この戦、自分で仕切って勝ってみせると意を新たにしていた。  本多平八郎は、客将たちがまだ上方勢と戦をしていないにも拘らず、流れが大きく変わったことを感じた。細川忠興の口添は、殿に報告しておかねばならぬとも思った。  夏の日の夜は短かった。鳥のさえずりで三成は、夜が明けかかっていることを瞼の中で感じていた。障子が白くなっていた。この一ケ月、ゆっくりと寝たことがなかった。いつも頭が冴えてきて、次ぎから次ぎへとやるべきことが浮かんだ。  三成は、何か漠然とした不安を持ち始めていた。一カ月前のあの熱い激情が、どの大名からも消えていたからである。いまでは、あの惠瓊も宇喜多秀家も皆、自分に一目置くようになっていた。すべての情報が三成の手元にもたらされていたが、すべての決断、命令は自分が出さない限り誰も動かなかった。  清洲城に、会津から戻ったあの荒くれ武者共が集まっていることは知っていた。しかし家康はなぜ、江戸から動かないのだ。三成には、その気持ちがわからなかった。動かなければ清洲、に集合した大名たちの気持ちはいずれ徳川から離れていく。その内、誰も真剣に徳川のために働こうとはしなくなるだろう。  三成は目を開いて、寝返りを床の中でうった。その瞬間、襖が開いて黒い大きな影が三成の面前に現れた。驚いてよく見ると、黒糸威しの甲冑を着た島左近であった。 「殿、敵が木曾川を渡り申した。至急、広間にお出で下され」  頭が寝ぼけているのか、左近の言葉がすぐに理解できなかった。 「家康が来たのか」 「いえ、まだでござる。敵は二方から河渡《かわと》と起《おこし》の渡しを渡って、岐阜城に攻めかかるものと」 「わかった、すぐ参る」  三成には、徳川勢なしに福島正則たちが木曾川を越えて攻撃してくるとは、信じられなかった。多分、小手調べに違いないと、具足を身に纏いながら考えた。  大垣城の二の丸の広間には、石田家の宿将たちが完全な戦闘姿で静かに控えていた。小西行長の姿はまだ見えなかった。 「敵はいかほどか」 「物見の知らせでは、それぞれ一万ほどの軍勢かと。先鋒に池田と福島の旗差物が見えたとのこと」  五年前に豊臣秀次の家臣から三成に仕えた前野兵庫助が答えた。 「木曾川の守りはいかほどか」 「それぞれの城に任せておりますので、はっきりとは」  北の犬山城は城主石川貞清が守っており、竹中重門、稲葉貞通、加藤貞泰らの美濃勢の加勢を含めて二千の兵が集まっていた。貞清は三成の娘婿でもあり、秀吉時代|金切裂指物《かなきりさきさしもの》使番として北条攻めで武功があった。三成にとっては、信頼できる武将の一人であった。  岐阜城には、石田勢の与力として柏原右衛門と河瀬左馬助の二千を送っていた。それに鉈《なた》尾山城主の佐藤方政が千、の兵を連れて自ら岐阜城に入ったことを聞いていた。総勢は一万近いはずであった。南の竹ケ鼻城は城主杉浦重勝と、加賀野井城からの加賀野井重望の遺臣たちが守っていたが、総数は千五百に満たず一番手薄であった。  そこに小西行長が細面の顔を眠そうにして、のんびりと現れた。 「弥九郎、戦じゃ。市松が木曾川を渡った」 「敵は朝鮮の猛者どもばかりだ。そなたとそれがしの軍だけでは手に余る。他の武将はおらんのかな」  朝鮮時代の激戦を潜ってきた行長は、三成の言葉にも少しも慌てなかった。 「宇喜多中納言には、伊勢からすぐに大垣へ来るよう伝えてある。ここ一両日には着くはず。島津義弘殿の家中も本日ここへくる」 「それなら二、三日、城方にがんばってもらえばええ」  行長は冷静であった。同じ仲間として朝鮮で戦っただけに、今は敵になった福島、細川、黒田、加藤、浅野たちの力をよく知っていた。上方勢にも、対抗できるそれ相応の武将が必要であった。島津、立花、鍋島、宇喜多、吉川、小早川らの軍勢を内心集めたかった。それまで、各城は籠城して堅く守りを固めればよい。しかし三成がいつまでたっても命令を出さないので、相変わらず武略には通じてないと、行長は苛立った。 「そうは言っても、出陣しよう。ここにいる訳にはいかんしな」 「そなたの六千で墨俣《すのまた》へ行ってくれ。石田勢は河渡の渡しで迎え討つ」  三成の戦術は間違っていなかった。木曾川を渡られた以上、次ぎの防衛点は長良川の渡しだった。  八月二十日の早朝、小西行長は自兵六千を率いて墨俣の渡しへ、石田の侍大将前野兵庫助が三千の兵で河渡へ向かった。朝靄に煙る大垣城を背後に見ながら行長は馬上で、三成にはやはり荷が重過ぎたかと愚痴をつぶやいた。  三成は、総帥が軽率に動いてはおかしいと、城に止まった。島左近も、三成を置いては動けなかった。  日が美濃平野を万遍なく覆った頃、起の渡しを渡った福島正則、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明らの一万七千の軍勢は竹ケ鼻城に攻めかかっていた。わずか八千石の城主杉浦五郎左衛門重勝は救援の使者も送らず、敢然として大軍を引き受けた。寄手の誰しもが、すぐに退散して音を上げると思った。しかし城兵は屈せずに、朝方辰刻から夕方の申刻まで戦い抜いて、全員壮烈な討ち死にを遂げた。  寄手の目標はあくまでも岐阜城であった。五郎左が手向かわなければ見過ごして通過したものと、正則の内心は勇将を失ったことを悔やんでいた。福島方の軍勢も半日に渡る戦闘で、千を越す死傷者を出していた。日が暮れる頃、駐屯地の多羅尾の陣営に池田輝政の老臣伊木清兵衛が使番として到着した。  しかし正則はその口上を聞いて、卒倒しそうになった。 「米野村で織田秀信の軍勢を討ち破り、数百の首級を挙げ勝ち戦でござりました。ついては明朝より、当方は岐阜城に攻めかかる所存をお知らせに参った」  池田輝政、浅野幸長、山内一豊、堀尾忠氏、一柳《ひとつやなぎ》直盛、京極高知らの軍勢一万八千は木曾川で迎え撃った織田秀信の軍勢三千五百を、軽がると、一刻ほどで打ち破っていた。  一柳直盛の家臣大塚権大夫が織田家の武市善兵衛という者を討ち取ったのが、この戦の最初の一番首であった。秀信の重臣|百々《とど》綱家と石田家の与力河瀬左馬助、柏原彦右衛門、それに松田重太夫の二千は這々《ほうほう》の体《てい》で戦場から離脱していた。 「清兵衛、そなたの主人はわれらを置いて抜け駆けをすると言うのか。許せぬ。この正則が着くまで待たぬ時は、三左の首を刎ねると申し伝えよ」  伊木清兵衛は正則の見幕に驚いて、急いで戻るためにまた馬首を北にとった。正直、池田三左衛門輝政は午前中の勝ち戦に上機嫌であった。輝政にとって岐阜城は自分が十年前に城主として五年間、居城としていただけに、自分で取り返すつもりでいたのである。それに大垣城は父恒興と兄元助が小牧、長久手の戦で討死にするまでの居城であったこともあり、何が何でも一番乗りをして両城とも落とすつもりであった。  その晩、夜を徹して福島隊が四里の道を岐阜に向けて駆けた。誰も、疲れているとは言えなかった。もし主人正則に聞こえれば、直ちに首が宙に飛ぶことになると知っていたからである。その後を細川、加藤の部隊が必死に松明を焦がしながら続いた。  戦場は理屈が働かない場所である。生死を賭けて力が続く限りの闘争心と、正しい状況判断できる澄みわたった冷静な心が、勝ち残るための条件であった。その面で、上方勢は寄手の関東勢よりもすべての面で鈍かった。小西軍も石田軍も、持ち場の長良川岸でただ待つだけで動かなかった。  竹ケ鼻城の焼け跡に、黒田長政は取り残されていた。長政は、正則の相変わらぬ児戯《じぎ》がかった行動についていけなかった。このまま岐阜城へ向かった所で、望ましい攻め口が残っているようにも見えなかった。岐阜城攻めは諦めて、新しい敵を求めた方が良策のように思えた。残っていた田中吉政、藤堂高虎、堀尾忠氏、寺沢広高の軍勢を集めれば、まだ一万近くの兵が付近にたむろしていた。  長政は自陣に諸将を招くと、自分の案を披露した。 「われらはこれより一足早く長良川へ出て、待ちぶせしている敵と戦うか、大垣城へ攻めかかるが良策と思うが、諸兄の意見はどう思われるか」 「いかにも、黒田殿の提案はごもっともでござる。必ず敵は墨俣か河渡で待ちぶせしているに違いない」  最年長の田中吉政が賛同した。急遽、黒田長政以下一万の大軍は進路を西に取って進撃を開始した。  翌八月二十一日の朝も靄が深かった。石田軍は、長良川の河渡の土手上で朝餉の用意に余念がなかった。前日に竹ケ鼻城が落ちたことを知ってか、雑兵たちの雰囲気は暗かった。  一方、対岸に着陣していた田中吉政は、息子吉次に物見を命じた。必ずこの近くに敵がいるはずだ、渡れる場所も合わせて探せと念を押した。  吉次は、馬廻りの旗本たち十人ほどを川岸に散開させた。息を殺して、見えない対岸の音を聞いた。川面の音に混じって、人や馬蹄の音が聞こえてきた。間違いなく対岸に敵がいた。吉政は敵の居場所を聞くと、上流に軍を動かした。他の味方の武将たちは下流に向かったのか、近くには見えなかった。  半刻後、蹄の音と法螺貝、陣太鼓、陣鉦の打ちならす音が同時に聞こえた。朝靄が朝日に消えると共に、前野兵庫助には田中吉政の軍勢が石田軍三千に突っ込んでくるのが見えた。しかし防戦する前に、多くの石田方の足軽が我先と逃げ出した。  五町ほど退却した前野兵庫助は、その場で鋒矢《ほうし》の陣形を取らせた。三成の警護役でもある勇将前野も、簡単には引かなかった。槍合せが始まると石田軍は田中軍を中央から押し返して、左右に引かせた。兵庫助は今だと一気に相手を押しつぶそうと下知しようとした瞬間、真っ黒になって右手から押し寄せてくる新手の軍勢が目に入った。それは黒田長政率いる騎馬隊であった。  兵庫助は鉄砲隊にすぐさま命じた。黒田軍の先頭を駆けてくる騎馬大将を打ち倒すことであった。朱色の脇立の兜をかぶった武将は、間違い無く黒田長政その人と思われた。  泥田に馬が足を取られて足速が遅くなった瞬間、銃声があたり一面に鳴り響いた。長政は、馬を撃たれて泥田に叩き落とされた。横にいた家臣の堀平衛門が、すぐさま自分の馬に長政を乗せ変えた。同じく馬廻りの野口佐助も弾を数弾受けて、やはり泥田に顔ごと突っ込んだ。  石田勢の渡辺新之助はこれ幸いと、倒れた大将の黒田長政に向かって突進した。長政に槍をつけようとした瞬間、身体に何箇所も玉を受けながらも野口佐助が大声を挙げて渡辺の背中に向かって突進した。佐助の槍で後ろから突き刺された新之助は肺臓を深くえぐられて絶命した。  黒田軍の後からは雲霞《うんか》のように寺沢、藤堂の軍勢が続いて川を渡っていた。前野は、すぐに退却の貝を吹かせた。あまりにも兵数が違いすぎた。前野は殿《しんがり》を杉江勘兵衛に任せると、一目散に揖斐川を目指して逃げ出した。  殿として残された杉江勘兵衛は九尺の朱柄の長槍を揮って、押し寄せる田中勢を突き払い、突き払いして退却した。その時、田中家の徒士侍西村五衛門に声をかけられた。勘兵衛は、答え返すのもおっくうなほど疲労困憊していた。  腰に差していた投げ槍を取ると、返礼として咄嗟《とっさ》に西村の眉間に向かって投げた。狙いたがわず、投げ槍は兜の眉廂《まゆびし》を突きぬいた。しかし疲れた分だけ槍の勢いは弱く、致命傷を負わせることはできなかった。  六尺近い大柄な西村はそのまま官兵衛に躍り掛かると、足払いで押し倒した。そしてそのまま動けない勘兵衛を組み敷くと、鎧通しでその首を掻き切った。その日、関東勢の中で初めて、石田軍の兜首を得た田中家にとっては、幸先の良い手柄であった。  翌日の朝、山頂の天守閣で岐阜城主織田秀信は毎日見なれた長良川を見て、奇妙な思いに包まれていた。昨日まで畑と川しか見えなかった金華山の周囲に、色とりどりの何百、何千という吹き流しの旗が美しく風に靡《なび》いていたからである。そしてその背後に、大きな黒煙がいたる所に立ち上がっていた。村や畑を敵兵が焼いている火煙であった。  木曾川の守りの手勢がいとも簡単に清洲方に討ち破られ、百々《とど》綱家が青い顔をして逃げ帰ってきてからまだ一日と経っていなかった。話では二千の内、半数が討ち取られたという。秀信はさすがに秀吉側近の大名は戦上手と、妙な感動を感じていた。  そこに、家老の木造具康《こづくりともやす》が暗い顔をして現れた。 「殿、昨日の敗戦で味方の将兵が逃亡し、城内には三千ほどの兵しか残っておりませぬ」 「三成は二千の加勢を送ってきたはず、当方の兵は千しかおらぬのか」 「御意」  秀信も、我家の織田兵の軟弱振りには顔をしかめざるを得なかった。祖父信長公の時代にはこのような事があったのかと、具康に問い正したかった。しかし、すぐにこの青年大名は明るく、 「本丸は余が守る。搦手は石田勢に任せ、そちたちは大手門を守れ」 「この午後には大垣城から援軍も参ります故、御心配には及びませぬ」  秀信は何も答えなかった。  石田家からの援将柏原彦右衛門が稲葉山城の外郭の瑞竜寺砦を、稲葉山砦を松田重太夫の兵数百が守備した。首班の河瀬左馬助は、五百の兵で搦手口に回った。  辰刻から寄手の総攻撃が始まった。岐阜城への登り口は三つあった。七曲口《ななまがりくち》、百曲口、それに水ノ手口であった。福島正則は当然のごとく大手門に通じる七曲口を、池田輝政は搦手門に通じる水ノ手口に回った。時間がかかり峻険で厄介な百曲口は、京極高知に下知された。  寄手の誰しもが、天下の堅城である岐阜城が簡単に落ちるとは思わなかった。数日かかる、いや、それ以上の長期戦になることを覚悟していた。しかし現実には、翌日二十三日の昼には城は陥落していた。秀信が戦を止めさせたと言ってもいい。人の良い天下人の嫡《ちゃく》孫は自分のために多くの将兵が死ぬことに耐えられなかった。  外郭にある三つの砦が焼け落ち、岐阜城と峰続きの瑞竜寺砦を守っていた石田家の援将柏原彦右衛門と稲葉山砦の松田重太夫は自刃した。浅野幸長と堀尾忠氏が激戦の末、両砦の二百名の守兵を殱滅《せんめつ》させていた。それを聞いた搦手口の河瀬左馬助は、家臣の赤尾四郎兵衛が止めるのも振りきって本丸へ逃げ去った。  本丸の大手門に敵兵が迫る頃、秀信は主だった武将三十名ほどを天守閣に呼んだ。兵士たちが血糊にまみれて生死を賭けて死力を振り絞っている瀬戸際に、秀信は一度も袖を通したことがないと思われる朱糸も鮮やかな色々威の腹巻の甲冑を身にまとっていた。そこで平然として自ら筆を執って、感状を書き始めたのである。 「具康、早くここにいる者の名を申せ。そなたらが仕官する際に役に立つ」  秀信の字は太く乱れがなかった。祐筆がいなくとも、充分通用する字であった。 [#ここから2字下げ] 比類なき働き前代未聞の次第見届け候 慶長五年八月二十三日 秀信 [#ここで字下げ終わり]  織田秀信は自分が自刃する代わりに、将兵を助けることを寄手の大将福島正則に申し入れた。あっけなく落城した岐阜城に、福島正則たちも憮然としていた。もともと信長公の嫡孫に刃を向けて死に追いやるつもりはなかったが、それにしても、あまりにも潔すぎる行為であった。  正則は独断で秀信を無理やり剃髪させ、城下の円徳寺に謹慎させた。  清洲に集まった軍勢の美濃攻めはすべてが番狂わせで、予測外の行動であった。寄手の藤堂高虎などは敗走する石田勢を追いかける内に、大垣城を遥かに越して中仙道の赤坂の宿に達していた。したがってその日、大垣城の三成も、墨俣にいた小西行長も、何が起きたのか終日わからなかった。  しかし岐阜城が一日半で陥落したことで、上方勢の指揮官石田三成の評価は大きく失墜した。それによって、美濃の大小名はその旗幟を保留し始めたのである。三成の急使を受けて伊勢街道から宇喜多秀家率いる一万七千の軍勢が、その日の夕刻、大垣城に到着した。そして東海道から、島津義弘の精鋭千名も大垣城近くに集結した。  副大将の秀家の着陣に正直、三成は歓喜した。早速、家臣の阿閉《あつじ》孫九郎を見舞に送り、茶を入れさせるほどの気の使いようであった。  その夜、赤坂の近くの岡山という小山で、藤堂、黒田、生駒、寺沢家の一万の兵が大垣城を見下ろすわずか一里の地点で宿営を張った。その点々とした赤い灯は大垣城近くに対陣した宇喜多勢の陣営の灯と重なって、にらみ合いがその晩から始まった。  その夜遅く、案に相違して、三成は宇喜多秀家と島津義弘の二人から問いつめられた。 「敵は、ここ数日の強行軍と戦で疲れておるに違いない。今宵夜襲すれば、我が軍の勝利は間違いない」  秀家が明快な声で直言した。しかし夜襲を主張する二人に、三成は頑迷に断り続けた。 「この戦は大義の戦でござる。豊臣家に仇なす徳川家康を討つために起こした戦。恩賞狙いの欲深大名を討っても意味はござらぬ」 「三成、さすれば、ここで家康を待つと言われるのか」  秀家が、あきれたように問い掛けた。 「いかにも、総大将の毛利輝元殿にも、当地にご出馬願っておる」  義弘はあらためて、三成の軍略のなさに呆れた。戦を知らない軍監に味方した自分を、今更ながら悔やんだ。家康が来てからは、勝てる戦も勝てなくなることがわからないのかと思うと、それ以上、論議を続けることを止めた。   安濃津  関の陣所にいる三万の上方将兵は飽いていた。滞陣してから半月にもなろうとしていたからである。その間、敵方の城一つ攻め落としていなかった。  八月二十日に折り重なって、二つの書状が吉川広家の許に届いた。一通は、待ちに待った服部治兵衛が持ち帰った、黒田長政からの隠密の返書であった。もう一通は、石田三成からの美濃加勢の督促状であった。清洲城に集まっている荒武者たちが、いつまでも狭い城内にくすぶっているはずはなかった。そろそろ動くことは目に見えていた。広家は、長政の分厚い書状の上書き状を、もどかしい手つきで破った。箇条書きに書かれた筆太の字が目に飛び込んできた。 [#ここから2字下げ] 御内意の通り 内府に申し挙げく候 今度の事毛利輝元殿預かり知らぬ事と 安国寺一人の才覚によるものと内府も承知候 この上は輝元殿へこの旨よくよく申し聞かせ候事 なお御忠節相究め候わば内府直の墨付 毛利輝元殿へ取り候て進ずべく候事 付 御分国の事申すに及ばず 只今の如く 相違あるまじく候事 [#ここで字下げ終わり]  長政の書状の中には、家康の花押はなかった。それでも、取り敢えず広家は満足であった。家康に、毛利家の実情が伝わったと思えたからである。文中の「御忠節|相究《あいきわ》め候わば」という言葉が家康の答だと解釈した。  広家は、直ちに動くことを決めた。動いて流れの中で、この事態を解決する忠節を見つけなければならないと思った。すぐさま宇喜多秀家に、一足先に美濃に赴くことを進言した。そして自分は、この安濃津付近の小城を落してから、すぐに伊勢街道を東上することを約した。  毎朝、安濃津城主富田信高は間近に滞陣する安国寺と長束の軍団を日々見ている内に、自然と度胸がつき始めていた。最初は敵の足軽の顔が見えても武者震いがしたが、いまでは前ほどの恐怖感は消えていた。それでも、城を取り巻いた敵方の軍勢が何日も動かないのは奇妙であった。いっそ、このままどこかへ動いて消えてくれるのではないかと、最近では期待するようになっていた。  信高が小さな五層の天守閣に上って、いつものように周りを見回していた時、狭い階段をきしめきさせながら誰かが昇ってきた。  三畳ほどの広さしかない天守閣の部屋に入ってきた援将の分部光嘉を見て、信高の望みは脆《もろ》くも消え去ったことを知った。 「信高、いよいよ敵が攻めてくるぞ」  分部光嘉は隣の上野城々主であったが、信高の城の方が大きいので一族の武将二百名を率いて、この安濃津城に合流していたのである。五十歳に近い光嘉の言いようは落ち着いていて、長年の戦歴を物語っていた。 「左様でござりますか」  若い信高は慌てて今一度、顔を外へ突き出した。光嘉は何を見ているのかと、呆れた顔をして一緒に顔を出した。 「ほれ、吉川の軍勢がこちらに動いてくる。後に鍋島、長宗我部の隊が続いているだろ」  間違いなかった。安濃津川を越して伊勢街道の脇にある尚世山《なおよやま》に向かって、多数の旗差物、幟が動いていた。まるで白と黒の紙吹雪が風に吹かれて、山を上っているようであった。信高の身体は恐怖で本当に震えだした。 「昨夜宇喜多の軍勢が関から東に向かって出発した。何か、美濃周辺で動きがあったようだ。 ひょっとすると家康殿が参ったのかもしれん。信高殿、覚悟を決められよ。生きるも死ぬも、一瞬のこと」  信高は大きくうなずいた。隣の松坂城主古田重勝は、鉄砲隊五十名と兵士五百名を送って来てくれていた。しかし総数わずか千七百人の守りの内、三分の一は城下の婦女子であった。約束を守って加勢してくれた分部と古田の二人の義侠心には、何よりも感謝していた。  吉川広家は本陣を置いた尚世山で、眼下に横たわる安濃津城を見ていた。毛利勢だけで軽く落せる平城であった。石垣も高くなく濠もなかった。即座に広家は鍋島勝茂を呼んだ。 「当毛利勢は、この安濃津城をこれより攻める。多分、今日中にも片はつこう。大挙して攻めるほどの城ではない。そなた、一足早く松坂城の古田を落してくれぬか」 「いかにも、早速」 「松浦、竜造寺、それに長宗我部隊をつれて行ってくれ。一万にはなるだろう」  勝茂は笑って、うなずいた。どちらも千に満たない守兵の城攻めに一万の軍勢もいらなかったが、広家の好意を有り難く頂戴した。  翌八月二十四日早朝から安濃津城攻めが始まった。天気は快晴であったが、風の強い日であった。広家はいままで敢えて惠瓊や長束の兵を動かさせなかっただけに、開戦となれば面子にかけても吉川家の手勢だけで城を落すつもりであった。  安濃津城の乾《いぬい》の隅櫓《すみやぐら》が一際高く突出していた。その隅櫓に登れば城内も丸見えであることに、毛利家重臣の宍戸元続《ししどもとつぐ》が気がついた。すぐさま、騎馬武者と足軽たちが櫓を目指して走り始めた。その時、城内の分部光嘉も寄手の意図を知った。 「誰か、早くあの隅櫓に火をつけよ。敵に取られては厄介だ」  宍戸勢が櫓に取り付く前に、守兵が手際よく火を点けた。火は折からの風に煽られて、勢いよく黒煙を吐きながら燃え始めた。しかしその火勢は思ったよりも強く、煙で城が見えなくなるほどになった。  それを合図に、先鋒の宍戸元続の手勢が大手門目指して突撃し始めた。戦巧者の元続ならでの采配であった。元続自身も馬に鞭を入れて城門に向かって駆けた。その時戦経験の長い分部光嘉も城門を開かせて、単騎城外に飛び出したのである。 「伊勢上野の城主分部|左京亮《さきょうのすけ》光嘉、お相手つかまる。我と思わん者は名を名乗られい」  古式豊かに颯爽と敵を待つ光嘉の姿を見て、宍戸軍の出足が止まった。戦国の習いとして誰かが名乗り出て、一騎打ちを受けなければならなかった。  その時、悠然と駒を進めて向かったのは、やはり宍戸家の総大将の宍戸元続その人であった。  両騎とも手槍を脇に抱え、馬腹を強く蹴って突進した。騎馬同士が二町ほどの距離を駆けて、すれ違った。通り過ぎた瞬間、殆ど同時に分部と宍戸が落馬した。  重い甲冑を着たまま二人共、手傷を負って起き上がれなくなっていた。両家の家来が駆けよると、それぞれ二人を抱いて撤収した。どちらも首を取られては、これからの士気に差し障るからであった。  序盤の一騎打ちが終ると、本格的な吉川家の攻撃が始まった。激しい白兵戦が城のいたる所で始まった。安濃城一丸になって戦ったものの、多勢に無勢で東と西の郭《くるわ》は一刻後に落されていた。しかし寄手も進撃する都度に、新手の兵を送らねばならなかった。  富田信高も大手門を出て、始めて槍を持って敵と戦った。向かってくる敵は、幸運にもそれほど強くはなかった。数合の突き合いで、相手に手傷を負わせることができた。しかし四、五人と相手した後、息が上り、手が石のように重くなり動かなくなってきたことを感じた。  信高が動けなくなるとわかると敵方は数人で囲み、槍を四方から突き出してきた。いつしか周りに味方は見えなかった。このままでは殺されると覚悟を決めた時、緋縅しの中二段黒革威しの甲冑を身に纏った一人の騎馬武者が槍を廻し、敵を斬り崩しながら包囲陣に入って来た。  兜と面頬に隠されて若武者の顔は見えなかったが、持っている槍で大手門を指した。信高は見知らぬ武者が矢面に立ちふさがっている間に、一目散で大手門に向かって逃げ帰った。信高が門にたどり着いたと見ると、その秀麗な騎馬武者は雑兵との斬り合いを止めて、馬首を返してそのまま大手門を軽がるとと潜り抜けた。  大手門が閉められ信高が大きな吐息で肩を上下させている場所に、先ほどの騎馬武者が近づいてきた。信高は身内の侍ではないと思って、相手の名前を聞こうとした。 「殿、つつがなきや」  その声は女の声であった。驚く信高の目の前に、面頬を取った顔があった。 「きた」  その女性は信高の正室であった。 「殿が討ち死にあそばしたと聞かされ、女の身ながらも一太刀なりと敵に報いんものと、討ち出した所でありました」 「きた、かたじけない」  信高は明るく笑った。妻を見つめるその目は愛に満ちていた。いつ死んでも悔いはないと、その時、心から思った。死の恐怖は、もはや朝露ほども残っていなかった。  天守閣に戻った信高と北は、自刃の用意を始めた。城はなぜか静寂に包まれていた。もはや皆討ち死にしてしまったものと思われた。死ぬ前に、分部光嘉に今一度礼を言ってから腹を切りたかった。あの世で父一白に会っても恥ずかしくない自分にしてくれたのは、光嘉の武者魂だったからである。しかし光嘉の姿も、重臣富田五郎右衛門の姿も見えなかった。  もはやこれまでと、信高は小姓の佐治に介錯を命じた。その時、北が小さな声で叫んだ。 「殿、分部殿が二の丸に引き揚げておられます」  天守閣の高窓から北の言うように、分部光嘉と富田五郎、それに妻の義弟の上田吉之充らしき武将が二の丸に入ろうとしていた。まだ死ねないと信高は思った。 「佐治、分部殿をここにお連れせよ。明日の戦評定をするからとな」  いつしか暑い夏の日は暮始めていた。あたりには静けさと虫の音だけが支配していた。寄手は城攻めを急がず、明日に持ち越したようであった。  静けさの中で、二十数年にして始めて自分が生きているということを信高は実感していた。何と夕日の美しいことか、できることならもっと早くこの美しさに気づくべきだったと、後悔が先だっていた。  その夜、吉川広家は自家の将兵五十三名を失い、沈痛な面持ちでその氏名を冥帳《みょうちょう》に記入していた。その中には、黒田家の使者から帰ったばかりの服部治兵衛の名前もあった。治兵衛は自分が毛利家を裏切ろうしていることを知って、諫言の意味を込めて死んだのだろうか。広家にとって、今日の戦ほど後味の悪いものはなかった。  今日限り戦闘は止めよう。安濃津の城兵の死傷者は五百名を越えていよう。明日、最後の城攻めをすれば、罪のない老幼婦女子の殺生をすることになると思うと、よけい気が重かった。開城を勧めようと考えた矢先、偶然にも二人の僧が吉川広家の本陣を訪ねてきた。一人は高野山青巌寺の開祖|木喰上人応其《もくじきしょうにんおうご》で、いま一人の連れは草津浄善寺の住持であった。  上人応其は木喰戒の修業をしただけに身体は痩身であったが、眼光鋭く、言葉も明瞭であった。元は佐々木氏に仕えた武士だが、三十七歳で出家していた。 「当山の菩提寺の一つが富田家の縁で、こちらに夜分参った。これ以上の殺生は無益と思い、殿に異存なければ、城に入り開城を勧めてみたいと存ずるが」  広家には、仏が遣わした使者と思えた。毛利家の軍監として上方勢に戦功を示す必要はあったが、これからのことを考えると、家康に味方した大名に詰腹《つめばら》を切らせることは得策ではなかった。異存があるはずがなく、素直に上人に頭を下げた。  木喰上人応其は天正十三年、秀吉の高野山攻めの折、和議の代表として交渉にあたり、秀吉から認められた僧であった。大坂方の和議の使者としては適任であった。しかし同じ坊主でありながら、何の人助けもせぬ惠瓊には憤怒の念が別に巻き上がっていた。  翌二十五日木喰上人と連れの僧が城内に入り、終日、開城の談判を進めた。富田信高も分部光嘉も、家康への義理は充分果たしたと思っていた。これ以上、上人の言うように戦ってみても意味がなかった。  翌日、信高は城を開き、城下の妻修寺に入り剃髪した。城には、毛利家の家臣蒔田広定と山崎定勝が城代として送り込まれた。信高は剃った頭のさわやかさを満喫しながら、木喰上人とまだ見ぬ高野山へと向かった。  八月二十七日、鍋島勝茂の軍団が松坂城を囲んだ。城主古田重勝は、安濃津城に送った援兵の家臣小瀬茂兵衛たちが奮戦したことをすでに知っていた。重勝も同じように、これで家康には義理は果たしたと、即座に城を明け渡した。鍋島の一軍は一兵も損なうことなく、次の攻撃地である尾張の福島正頼の長島城を目指した。   出 陣  暑さがいつの間にか消えて、葉月からさわやかな菊月に変わろうとしていた。全国の大名の目は、大垣平野の小山の一点に吸い付けられていた。その岡山という小山を中心に、東西の大名が集まり始めていた。誰しもが、もう遊びは終わりだ、死命をかけた本当の戦がこれから始まるということを肌で感じていた。  岐阜城陥落の知らせは、わずか四日後には江戸の家康の許に届いていた。江戸滞在は一ヶ月近くになっていた。茂助の口上は、思った以上に外様大名に効いていた。茂助には功禄を与えなければならないと、家康は思った。しかし、豊臣家の荒くれ大名たちをこれ以上暴走させることは、止めさせなければならなかった。もしもどこかで致命的な失敗をされては、長年の宿願が消え去ることになる。それに正則ごときに三成の首級を挙げられては、それこそ本も子もなくなる恐れがあった。  東上の決意を固めようとしていた八月の終わり、常陸から嬉しい人物が江戸城を訪れてきた。二ヶ月振りに顔を見せた古田織部であった。織部は常陸五十四万石の佐竹義宣の重臣|人見《ひとみ》藤通を同道していた。人見は家康東征の前に、佐竹義宣の使者として表敬に訪れたのであった。 「織部、佐竹の向背はいかがか」 「茶席で聞き出した所では、佐竹義重は勝つ方につくと申しております。この度、陸奥南郷に出陣した三百の兵を、秀忠殿の所に与力として差し出しました。ただ長男の義宣は内心、上杉景勝と志を一つにしたいようでござります」 「わかった。そちが連れてきた人見を手厚くもてなせ」  やはり家康が見込んだ通り、戦国の猛者義重の性根はしたたかであった。隠居したと言っても、その力は佐竹家内ではまだ厳然としていた。留守中、上杉勢が江戸に攻め込んでくる恐れがあったが、上方勢との戦に敗戦しない限り佐竹軍が南下することはないと高をくくった。  すぐに家康は、宇都宮に滞陣している軍監の本多正信と井伊直政を江戸に呼び戻した。二人は汗と泥にまみれた顔で、翌日には家康の書院に現れた。そこには天海も同席していた。 「九月一日に出陣する。北の守りは、結城秀康と榊原康政の一万八千に任せる。これに蒲生秀行、小笠原久太郎と里見義康を付ける。江戸城の留守居番は、武田信吉と松平康元の一万に命じる。伊達が背後で牽制しているから、上杉も佐竹もよう動かんだろう。様子を見て、広忠は正信と共に中山道を上れ。わしは直政と松平忠吉を連れて、東海道を上る」 「殿、大坂にはいつまでに」 「わしの戦が終わってから、参ればよい」  本多正信は怪訝気に顔をしかめた。 「広忠には大久保忠隣、本多忠政、酒井家次、牧野康成、菅沼忠政らの若手をつける。万一わしが負けたら、すぐに大坂城へ攻め寄せ、秀頼を殺せ。それまでは遊軍として、兵を損なうことは許さぬ」 「上田の真田昌幸はいかがすれば」 「捨て置け」  家康の目はもはや一大名にはなかった。家康の真意は三成ではなく、あくまでも大坂城を落とすつもりであった。その時、天海が発言した。 「殿、それがしも一緒にお連れくだされ。殿の戦振りをこの目で拝見いたしたく存ずる。それに敵が打ち掛かりし時には、影武者としてお使い下され」  しばらく天海の目を見ていた家康は、 「そなたの知恵が役立つかもしれぬ、ついて参れ」  二人だけの思いが通じていた。十八年前の決着をつけなければならないと、家康も天海も期せずして考えていた。井伊直政もなぜかあの伊賀越えを思いで出していた。  九月一日早朝、江戸城の家康は徳川本軍精鋭三万に尾張清洲に向けて出動命令を発した。  同じ日、石田三成も上方勢全軍に大垣城集合の命令を早馬で発していた。北陸北ノ庄城で前田勢と対陣していた大谷吉継、戸田勝成、青山忠元、朽木元綱、赤座吉家、平塚為広らの北陸軍が九月二日、速馬を近江路に向けた。その中に大津城主京極高次がいた。  高次は三十八歳になっていた。率いる二千の京極隊は、どの隊よりも遅く北ノ庄を出発した。北国街道を小谷から東野山に差し掛かかる頃、山路の右眼下に余呉湖《よごこ》が青く光っていた。湖の向こうには賤ヶ岳が静かにたたずんでいる。十七年前秀吉が天下の覇権を賭けて、柴田勝家と戦った思い出の場所であった。高次の胸に、思い出したくない思い出がまたよみがえってきていた。  当時二十歳の高次にとって、本能寺の変は寝耳に水であった。しかし信長がいなくなったことで、高次は長年の屈辱を晴らす絶好の機会が到来したと思った。名門京極家の再興である。父高吉は足利義昭将軍に仕えていたため、反目していた信長から疎まれて蟄居《ちっきょ》せざるを得なかった。そして失意の内にその前年亡くなっていた。本能寺の変後、若い高次は明智光秀の誘いに応じて喜んで味方した。姉竜子の夫である武田元明とも謀って、羽柴秀吉の長浜城と丹羽長秀の佐和山城を攻撃したのであった。  しかし、明智に与力した結果は悲劇の到来であった。山崎の戦の後、義兄の元明は丹羽長秀に謀殺された。高次も秀吉に殺されるところを、姉の竜子がたまたま秀吉に見染られて側室になったことで、あやうく一命を取り留めた苦い経験があった。  そしてさしたる戦功がなかったにも拘らず、妻|於初《おはつ》の姉の於茶々がまた秀吉の側室になったことで、大津に六万石の所領を得る大名に出世することができた。その意味で高次は、常に姉にも妻にも気をつかわねばならなかった。  高次は正直これ以上、豊臣家と拘り合ううことに嫌気が差していた。それに北ノ庄で聞いた話では岐阜城が一日で陥落し、関東勢はすでに赤阪まで進出しているという。このまま上方勢の尻馬に乗っていくと、また本能寺の二の舞になるような気がしてならなかった。妻の妹の於江《おこう》が徳川秀忠の正室として再嫁しているだけに余計、自分の運命が女達に握られていることが疎ましかった。  徳川家康からは、二通の自筆の書状が届いていた。一通目は上方勢から、大津城を死守して欲しいという要請であり、二通目は会津攻めに参加した弟の京極高知が徳川軍の先鋒として東海道を帰国中というものであった。しかし、いずれの書状にも家康の依頼ばかりで、恩賞の話はどこにも書かれていなかった。  気がつくと、前を行く朽木元綱の旗差物が見えなくなっていた。高次は瞬時に路を右に取らせた。山を下って権現坂を越えれば、若狭街道に出ることができる。琵琶湖西岸の西近江路を通って大津城へ戻ろう。今時分、湖西を移動している軍勢はいないはずであった。城に戻って、ゆっくりと情勢を見てから去就を決めても遅くはないと考えた。  高次の勘は正しかった。もし湖東を通って大津へ向かっていれば、瀬田の守りをしていた秋月種長と高橋元種の豊前勢と彦根路で遭遇して、大津へは戻れなかった。運良く九月三日の深夜、居城大津城に高次は戻った。  しかし翌四日の午前中には、京極高次が徳川方に寝返ったという噂が、大垣城の石田三成のもとに届いていた。三成は自然と心が高ぶって激昂し始めていた。  いやしくも秀吉の寵愛を頂いた松の丸竜子《たつこ》の弟であり、豊臣秀頼の叔父になる身分でありながら家康に加担するとは言語道断であった。それに、弟の京極高知は岐阜城攻めに加わったともいう。三成には、京極家は豊臣家の恩顧を忘れ、仁義を外した低俗な家柄としか映らなかった。  他人に対する三成の致命的な欠点であったが、秀吉の仕打ちによって京極高次の自尊心がいかに傷ついていたかまでを慮《おもんばか》ることができなかった。三成は大局を忘れて、大坂から大垣城を目指してすでに石部まで来ていた毛利元康、立花宗茂、、筑紫広門、宗義智らの九州勢の精鋭一万五千を大津城攻めに戻してしまった。  混乱して自分の態度を決められない、もう一人の大名が近くにいた。小早川秀秋である。伏見城攻めの後は、誰の指示にも従わなくなっていた。秀秋にとって、同じ中納言の位である宇喜多秀家の采配は心情的に受けたくなかった。まして軍《いくさ》奉行を自負している石田三成ごときには、直接話しかけられるだけでも虫唾《むしず》が走った。  三成の告げ口で秀吉から激しい叱責を受けたことが、昨日のように思えた。また朝鮮の二の舞になることは正真、御免であった。その為この一ヶ月間鈴鹿山の周辺で鷹狩をして、秀秋は無聊《ぶりょう》を紛らしていた。  しかし重臣の平岡頼勝と稲葉正成の二人にとっては、狩どころの話ではなかった。毎日のように大坂方と徳川方の飛脚が書状を届けてきていたからである。特に黒田長政からの報告で、美濃の状況は手に取るように把握することができていた。いま二人の思いは、如何にして上方勢の陣営から離れることができるかであった。  このまま三成の指揮下にいては、碌なことになりそうはなかった。ただ、大坂城からは主君を関白に推挙するという話がきているだけに、勝手に動く訳にもいかなかった。毎日、二人は顔を見合わせるだけで、これといって何の知恵も浮かばなかった。  九月七日に伊勢から、毛利秀元、吉川広家、安国寺惠瓊、長束正家、長宗我部盛親らの軍団が大垣城手前の南宮山《なんぐうさん》付近に入ったとの連絡を受けた。そこで初めて秀秋は三成の度重なる督促に応じて鈴鹿から石部にまた戻り、佐和山経由で大垣城に向かうことに同意した。  一方、江戸を発った家康はゆっくりと清洲に向かって兵を進めていた。決戦の最後の拠《よ》り所は、長年、労苦を共にした自兵であった。長旅で兵を疲れさすことは禁物であった。しかし家康は最初の宿の神奈川に着くと、直政を呼んだ。 「直政、そなた忠吉を連れて、一足先に赤阪へ参れ。わしが行くまでは、決して豊臣大名たちに兵を動かさすな」  直政は、端正な顔を動かさずに黙ってうなずいた。直ちに簡単な夕餉を取った後、徳川軍団の中でも勇猛、精鋭を持って知られた赤備えの井伊兵三千に出動を命じた。夜空に松明の火の粉が散る中、具足、旗指物、馬の鞍、鐙、鞭まで赤一色の装束の井伊兵は、脱兎の如く西に向かって走った。  天正十年、武田軍に勝利した時、家康は家臣の中で武田二十四将の一番であった山県昌影の赤備を井伊直政に継承させた。赤備はいつも武田軍の先鋒にあって、血に汚れることが見苦しくないよう、また血に怯えないよう、すべてを赤色に統一した武田家の特別な軍団であった。それ以来、井伊直政の赤備も徳川家の先鋒を担うことになったのである。  松平忠吉はその井伊軍団の先頭を走っていた。家康の四男で二十歳になったばかりである。出陣前、自分の介添として井伊直政が選ばれたことで狂喜した。多くの兄弟たちを出し抜いて、先陣を務めることができるからであった。その思い通り、忠吉は馬を思い切って走らせていた。夜空の大気が頬に当たって気持ち良かった。  家康の本軍は九月二日に藤沢、三日小田原、四日三島、五日興津、六日島田、七日遠州中泉、八日白須賀、九日岡崎、十日に尾張の熱田、そして十一日の深夜、駕籠が一つ、清洲城の大手門を潜った。  家康と天海は、城中の奥まった四畳ほどの茶室にいた。家臣といえど、家康の所在を知らさないためであった。 「天海、かような所に隠れるまでもなかろうが」  家康は天海の処置に不満顔して言った。 「殿、これからは絶対に、敵にも味方にも姿を見せてはなりませぬ。次に殿がまみえる場所は赤坂。それまでは隠密に願います」  上方勢はまだ、家康の清洲城到着をしらないようであった。三万もの徳川の大軍が尾張に入ったというのに、物見の一人も現れていないようであった。  天海の予想通り上方勢は烏合《うごう》の衆であり、誰一人としてこの戦を自分の物として受け止めている大名はいないと確信した。 「それはよしとして、どう仕掛けるのだ」 「殿が急に赤坂へ参れば、大坂勢は驚いて大垣城を固めるでしょう。しかし殿が大垣城を見捨てて、佐和山城を攻めると申さば、必ずや三成は関ヶ原あたりに陣をしくに違いありませぬ。城攻めをして敵を籠城させてはなりませぬ」 「わしに中入をせよと申すか」 「少し冷や汗をかかれるかもしれませぬが、敵を誘い出すことがまず先決」 「わかった」 「これより愚僧は、伊賀者の手引きで京へ参ります。美濃にいても戦は片付きませぬ。この戦い、大坂城を落とさねば終わりませぬ」  家康はあらためて天海の深い洞察力に感服した。徳川家の重臣たちは戦に勝つことばかりで、肝心な今度の戦の意義を忘れてしまっていた。秀吉に代わって天下を取るには、豊臣家の居城である大坂城を落とさなければならないのである。 「殿、まず一番に毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出してはなりませぬ。その時は必ずや福島正則が寝返りましょう。次に、丹後の細川幽斎を取り囲んでいる小野木公郷《おのぎきみさと》らの兵を動かさしてはなりませぬ。そしていま大津城を攻めている立花宗茂らも、このまま釘付けにさせることが肝要かと」  家康はしきりに頷いていた。確かに、これらの上方勢の兵が動くだけで七、八万の軍勢になった。天海一人で止めることができれば大功労である。 「頼むぞ、天海。目の前の敵はどうする」 「戦略はただ一つ、殿は戦ってはなりませぬ。もしも徳川の戦振りが悪ければ、日和見大名が寝返りましょう。戦わずに勝つには、敵を寝返らせるのが一番」 「誰を寝返らせるのだ」 「やはり、中納言秀秋と吉川広家の二人かと」  家康はまた感心して頷いた。 「しかし、できるか、天海」 「小早川秀秋の家臣稲葉正成は拙僧の縁続き故、動かせましょう。広家は黒田長政から工作させれば、乗ってまいるはず」  家康が不器用に立てた茶を飲み干すのを見てから、天海は、両足で一気に立ち上った。 「殿のご武運を祈っております」  清洲に吹いている風は生暖かかった。天海は、この数日の両軍の動きで勝敗が決まると確信していた。秀吉の知恵袋であった石田三成だけには、二度と負けたくなかった。   謀 略  天海を乗せた駕籠は、まるで空を飛ぶかの様に走っていた。駕籠を担いで先導しているのは、伊賀組の服部半蔵の息子|半三《はんぞう》配下の者達であった。そしてその両脇を騎馬で併走しているのは、斎藤利光と斉藤角右衛門の兄弟であった。  どこを走っているのか、少しもわからなかった。さすがに身体は疲れて顎が上がり、駕籠紐を持つ手が効かなくなっていた。しかし、走りながら自分の人生が信じられなかった。齢《よわい》七十を越している身がまさか再び京の都に戻れるとは夢にも思わなかったからである。 「天海さま、まもなく山科の里に入ります。いま少しの辛抱をお願い申します」  斉藤角右衛門の声だった。懐かしい地名であった。  明智光秀は、この山科の里で十八年前に死んだ。あれから比叡山の山奥で仏道の修行に入った。いつも身辺は伊賀者が警護しており、生活の心配もなかった。それ故、わずか一年余りの歳月で悟りを啓くことができた。  悟ったことは、人が在るのは今ということだけだった。いまでは妻の顔も、子供達の顔も思い出から消え去っていた。これが自然の摂理だと自覚した。いずれこの自分も消え去って、誰も覚えてはいなくなるだろう。思い出は執念であり、忘却は真理として生きることができるようになっていた。  天海一行は九月十二日の深夜、忘れようとしても忘れられない吉田山の吉田兼見の自宅に滑るように入り込んだ。兼見は、稚児のように狂喜して天海を迎えた。 「よう参ったな、十兵衛。いや、天海僧正」 「此度は十兵衛として参った。天海は忘れてくれ。万一、徳川殿に迷惑がかかっては困る」 「そうやな。十兵衛の方がずっとええ。さー、飯を用意させよう。風呂もすぐに沸かさせるからな」  吉田兼見にとって天海は浪人の十兵衛光秀のままであり、自分も兼和と呼ばれた若き日に戻っていた。 「それよりも、すぐに近衛前久殿に会いたい。知らせてくれ」 「わかっておる。斎藤さまが事前にそなたが来ることを知らせておいてくれたので、龍山殿もおっつけここに見えられるわ」  返す返すも兼見と龍山の深い友情に、天海は感謝した。  半刻後には三人はまた再会していた。三人の顔には本能寺の時のような不安は少しも見られなかった。龍山の狩衣の袂は雨に濡れていたが、少しも気にせずに笑顔で天海を迎えた。 「うれしいの。こうやって三人で会うのは何年振りかの」  三人の思いは、はるか昔の本能寺に戻っていた。あの時の辛さも、今は懐かしい思い出に変わっていた。 「このような夜分、龍山公御自らお出で頂き恐縮の痛みでござります。こたびは今一度、幽斎のために勅使をお送り願いませぬか。後数日、で美濃表では家康殿が戦を仕掛ける手筈になっております」  丹後の田辺城で取り囲まれて篭城中の細川幽斎の許に、八条宮の和議の使者が訪ずれてからすでに半月以上たっていた。理由は、八条宮ご自身が田辺城に移徙《いし》されるまで、頑として幽斎が開城を納得しなかったからである。家康との決戦が迫った今、いつまでも上方勢が勅命を無視して田辺の小城に拘ってはいられないはずであった。総攻撃が始まる時期が目の前に迫っていた。 「天海、そちはそこまで與一郎を思いやるか」  幽斎は光秀を一度は裏切って死に追いやった男であった。しかし、いま恨みも嫉妬も捨て去った天海を見て、龍山は深い感慨にとらわれた。 「相わかった。明日最後の和議の使者をたてよう」  天海は大きく安堵のため息をつくと、頭を下げたまま上げようとはしなかった。その時、廊下から大きな女の泣声が座敷に突き抜けた。その悲鳴にも近い泣声は、吉田兼見の妻伊也であった。夫からすべてを知らされた伊也は、父幽斎のために身命を投げ出している天海を見て、慙愧《ざんき》のあまり許しを乞うのであった。  勅使が龍山の尽力で送られることを知って、天海は供の斎藤利光、角右衛門兄弟を呼んだ。 「家康殿に長年の恩義を返す時が参った。利光、そなたには小早川軍の稲葉正成の所へ行って欲しい。角右衛門は大津城の京極高知の所へ」  天海はそう言うと、二人の耳元に口を近づけて何事かを囁いた。二人は緊張して聞き耳を立てていたが、暫くして合点がいくと大きく頷いて頭を下げた。  翌九月十三日、勅使として、中院中納言通勝、烏丸光宣、三條|実条《さねえだ》の三名が急遽丹後田辺城に下向した。勅使に従ったのは上方勢の前田茂勝であった。茂勝は大坂寺社奉行前田徳善院玄以の二男である。  正式な勅使が田辺城に派遣されると、包囲している小野木公郷以下の上方勢の武将は路を空けて、路端に頭を下げて恭順の意を示した。 [#ここから2字下げ] 細川幽斎は文武の達人にて ことに内裏に絶えたる古今和歌集の秘儀を伝え 親王の御師範にて神道歌道の国師なり いま幽斎 命を殞《おと》さば世にこれを伝うる事なし よって速やかに囲みを解くべし [#ここで字下げ終わり]  細川幽斎はここに謹んで勅諚《ちょくじょう》に随い、十五日、田辺城を開門した。五十日を超す籠城戦が終わり、城は前田茂勝が受け取った。  すぐに、幽斎は前田玄以の居城丹波亀山城に送られた。送られる駕籠の中で、人生の思いがけない綾の面白さ、不可思議さに感嘆していた。かって明智光秀が本能寺の攻撃に出陣した亀山城へこうして送られていくのも、何かの縁と感じていた。しかし、その背後に光秀の恩寵があるとは考えもしなかった。自然と、 [#ここから2字下げ] いにしへも今もかはらぬ世の中に 心のたねを残す言の葉 [#ここで字下げ終わり] と詠っていた。  まさにその日、天下分け目の大戦が関ヶ原でおこなわれているとは、美濃表に急いで向かった小野木公郷ら上方勢一万五千の将兵は露ほども知らなかった。  家康は風邪が抜けないと言って、清洲城から動こうとしなかった。その実、赤坂の前線から本多平八郎、井伊直政を呼び戻していた。決戦を控えて、徳川家としての戦術を決めなければならなかったからである。  家康は苦慮していた。このまま進めば、双方合わせて十万を越す大軍が大垣平野の狭い山野で激突することになる。それに中山街道沿いの山頂を押さえられると思うように身動きできなくなり、戦況次第では徳川家得意の野戦が通用しなくなる危険があった。  半日近く絵図を前に作戦を考えていたが、これと言って良策は浮かばなかった。やはり、天海の考えた小早川家と毛利家を調略するしか無い様に思えた。  いらついた顔で、馳せ帰ってきた平八郎と直政の二人に、小早川と吉川の調略をあらためて命じた。その目途が立たない限り、家康はこれ以上、西進するつもりがなかった。自然と親指の爪を噛んでいた。  いつしか秋風が立ち始め木々の緑が黄色、茶色に染まり、枯れ木が目立ち始めていた。その頃、小早川秀秋の軍勢は佐和山を右に折れて中山道に入り、大垣まであと一日の距離に到達していた。甲冑を通しても風は肌に冷たかった。その日は雲が早く流れ、天気が早晩崩れることを意味していた。  稲葉正成と平岡頼勝は、荒れ果てた僧堂をその夜の宿泊所にしていた。二人の家老は、主君秀秋にどう話をするかで迷っていた。大坂方と徳川方から同時に調略の手紙を受けていたからである。大坂方の差出人は石田三成、長束正家、安国寺惠瓊、小西行長、大谷吉継の五名連署であった。 [#ここから2字下げ] 豊臣秀頼公十五歳に成られる迄は関白職を中納言秀秋卿に譲り渡すべき事 上方|御賄《おまかない》として播磨国一円に相渡すべし 勿論筑前は前々の如くたるべき事 江州において十万石宛 稲葉佐渡守 平岡石見守両人に 秀頼公より下さるべき事 当座の音物《いんもつ》として黄金三百枚づつ 両人に下さるべき事 [#ここで字下げ終わり]  間違いなく、大坂奉行たちは主君秀秋の心を読んでいた。秀吉に疎んじられた秀秋にとって、唯一、関白の地位だけがその心を癒すものと思われた。また上方勢としては、秀頼が幼く戦場に立てない今、豊臣家の正嫡として兵士の馬前に秀秋が出てもらわなければ戦の大義が立たなかった。  一方、黒田長政経由で平岡頼勝に送られたきた本多平八郎と井伊直政連署の書状には、 [#ここから2字下げ] 金吾中納言秀秋殿に対し聊《いささ》か以て内府御如在あるまじき事 御両人別して内府に対せられ御忠節の上は以来内府御如在に存ぜられまじく候事 御忠節相究め候はば上方において二ヶ国の墨付 中納言へ取り候て進むべき候事 [#ここで字下げ終わり]  どちらかと言えば、素っ気のない内容であった。恩賞で頂戴できる上方の国名もなく家康の自筆でもない馳走文《ちそうぶん》をどこまで信用していいか、元黒田如水の家臣であった平岡頼勝にも決断がつかなかった。  その時、小姓の一人が稲葉正成の耳元に呟いた。 「稲葉殿、長宗我部家の斎藤利光とか申す侍が面会を申し入れてきております。判らなければ、お福の兄だと伝えてくれと言っておりますが」  正成の顔色が一瞬変わった。 「すぐ、通せ」  正成は元明智家の重臣斎藤利三の娘お福と五年前に再婚していた。お福の母は、土佐の宗主長宗我部元親の娘であった。お福からは山崎の戦で逃れた兄二人が徳川家に仕えていると聞いたことがあった。しかし、その当人が一人で目の前に現れるとは、剛毅な正成も驚かされた。徳川家の家臣であることが知れたら、戦を前にして興奮している兵士が何を仕出すかしれたものでなかったからである。  斎藤利光は敵陣を通過するために、お福の里である長宗我部の家臣と偽ったものと思われた。利光は思った以上に若く、端正な顔をしていた。甲冑姿でありながら、その静かなただづまいの中に幾多の戦塵をくぐってきた貫禄が身についていた。  正成は僧堂の中で会った瞬間、この男を自分の家臣に欲しいと自然に思った。 「稲葉正成だ。福の兄がよく、この場所に参れたな」  正成はそう言って皮肉ぽく笑った。利光も白い歯を見せて軽く笑った。二人だけが知る秘密の笑いだった。 「福の兄、斎藤利光でござります。早速ですが、主君よりの口上を中納言殿にお伝え申したい。人払いをお願いできますか」  正成は、僧堂から大声で警備の小姓たちを追い出した。家臣の誰もが、徳川家から三千石の知領を受けている旗本などとは思いもしなかった。あくまでも上方勢の長宗我部盛親の家臣だと、頭から決めてかかっていた。 「数日後には清洲を出陣する。ついては金吾中納言殿には、秀頼殿にお味方はご無用なり。秀頼殿は中納言の御血筋でござらぬ故と」 「まことか。秀頼殿は太閤の御子ではないのか、斎藤殿」  利光は大きくうなずいた。 「それ故、それがしは徳川の人質として、ここに参りました」  正成にとっては、やはり信じられないことであった。利光の話が真なら、秀頼の為に戦う正義はなくなる。まして秀秋がこれを聞けば、間違いなく豊臣家に対する憤怒の思いを抱くに違いなかった。しかし、逆にここは敵中である。うまく寝返らないと叩かれる恐れがあった。 「利光、いずれ殿にはお話をしよう。しかし、まわりは大坂方の大名ばかりだ。慎重に事は運ばねばならぬ。して、いかにして今の話を真贋《しんがん》と信じればよいのかな」 「内裏のさる高貴な御方が高台院さまからのお話として直々に聞かれたとのこと、信じるに足りぬと思われませぬか」  利光はあえて龍山の名前は出さなかった。正成もそれ以上、事の真否を聞こうとしなかった。  利光は、妹の福にもう二十年以上会っていなかった。夫の正成がうまくたち回って徳川方に与力してくれれば、福に会う日も近くなる。そう思うと、近づきつつある戦が待ち遠しい感じであった。  稲葉正成から話を聞いた筆頭家老の平岡頼勝は、まだその去就を最終的に決めなかった。しかも大坂方からの関白叙任話も、秀頼出生の秘話も、小早川秀秋にはしないことにした。  頼勝の意思は、やはり高台院の申されるごとく今回の戦には参戦しないか、土壇場で勝つ方に寝返ることがお家の為という結論で、内々決まっていた。なぜなら、上方勢は大軍であっても伏見城攻めを見る限り、その多くの大名が日和見であることを感じていた。真剣に戦う大名は圧倒的に関東勢が多かった。家康がいないにも拘らず岐阜城が一日で落とされたことで、その実力が計算できたからである。  正成も独断で美濃に飛脚を送った。姻戚である美濃八幡城主の稲葉貞通と清水城主の稲葉通重に、小早川軍の去就を知らせるためであった。同門の稲葉家が相戦うことだけは避けたかった。  その日、小早川軍は何事もないかのように斎藤利光を連れて、殿《しんがり》軍らしくゆっくりと中山道を大垣へ向かった。   油 断  九月八日、石田三成は大垣城で夕刻から軍議をひらいた。集まった大坂方大名は宇喜多秀家、島津義弘、豊久、毛利秀元、吉川広家、小西行長、大谷吉継、安国寺惠瓊、長束正家、長宗我部盛親らであった。副大将の小早川秀秋の顔はまだ見えていなかった。それに大津城を攻めている毛利元康、立花宗茂も出席していなかった。  三成の前には大きな絵図が置かれていた。諸将は絵図を囲むようにして着席した。絵図の右側下方に大垣城、中央に杭瀬川《くぜがわ》が絵図を左右に分けていた。そして杭瀬川の左岸の丁度中央に、徳川方が本陣を置いた岡山が描かれている。岡山の背後を中山道が右から左に伸びている。道は左に向かって垂井、関ヶ原の宿と書かれ、その両脇に南宮山と笹尾山があった。南宮山の麓からは関ヶ原に向かって藤川が流れている。 「諸将には早々のご来着、祝着に存ずる次第。早速ながら軍議を始めたい。この岡山に備えている敵方は、家康の着陣を待っているものと思われる。わが方はいかがするか、皆々衆のご意見をお聞きしたい」 「それはそうと、家康はいつ江戸を出たのかな」  島津義弘が鷹揚《おうよう》に三成に問いかけた。 「確か、九月一日に江戸を発ったと、物見より聞いておりますが」 「そうか。早ければ、ここ数日後には。清洲あたりに現れよう」 「家康が見えたら鶴翼《かくよく》の陣を敷いて、包み込むのが良策かと存ずる」  顔全体を白布で覆った軍奉行役の大谷吉継が発言した。吉継には絵図が見えなくても、状況は手に取るように分かっているようであった。 「岡山の右翼には、大垣城の主力を以って当たって頂きたい。宇喜多、石田、小西、島津隊にお願いする。左翼は伊勢隊の毛利、吉川、長束、長宗我部隊に、そして出口の関ヶ原にはそれがしと小早川殿で当たることにする」  大谷吉継の作戦は簡単、明瞭であった。両軍の軍勢が同数としても、上方勢に大垣城という拠点があるだけ有利であった。間違いなく混戦、長期戦になった時、城を持っている方が強いということは皆よく知っていた。  軍議の出席者の誰しもが、戦は長期戦になると覚悟していた。昔、小牧山を挟んで秀吉と家康が対峙した戦を思いだしていた。陣取りから見て、慎重な家康がそう簡単に動くとは思えなかったからである。大坂方の勝利は、いかにして右翼勢が押し込んで、家康を山合の関ヶ原方面に入れ込ませるかにかかっていた。  左翼勢は早速、軍議に従って、九月九日、南宮山の麓に陣をしいた。相川を渡った栗原山に長宗我部盛親の六千、それから街道沿いの宮代村付近に長束正家千五百と安国寺惠瓊千八百の軍勢が備えた。ちょうど、大垣城にも岡山にも一里の距離であった。  毛利勢を率いた吉川広家は宮代村を越すと、左に折れて南宮山に登り始めた。確かに南宮山に登れば、そこからの眺望は大垣平野をすべて見渡すことができた。毛利秀元の本軍一万六千は、吉川広家に勧められて南宮山の中腹まで登らされた。その下に毛利勝長の四千が、広家は自兵三千を一番下の出口に配置させた。二万もの大部隊が南宮山に布陣すると、山中に一気に家紋の花が咲いたように思えた。  吉川広家はとりあえず毛利家軍監として、自分の陣張りがうまくいったことに安堵していた。戦が始まってもこの場所に居る限り、毛利軍を戦場に出すか出さないかの生殺与奪の手配を握れるからであった。それから大坂城にいる留守番家老福原広俊の皺顔を思い浮かべながら、筆を取った。 [#ここから2字下げ] 大垣城の近く南宮山に陣張り候 近々徳川との戦合い起こり候事にも 毛利家は動かざる所存なり そこもとには輝元殿を城より出さざる様くれぐれもお願い申し上げ候 [#ここで字下げ終わり]  慎重な広家は、これから起ころうとしている戦が見えなくなったことに不安を抱いていた。あまりにも多くの大名が参加しており、誰一人として全貌が掴めなかった。いまの広家にとってできることは、戦に参戦せず家康と戦わないことだけが方針となっていた。後は再度、黒田長政を通じて毛利の兵を動かさないという条件で、家康からの正式な所領安堵状を貰う手筈をつけようと考えた。  その頃、大谷吉継は盟友石田三成に大垣城で別れを告げようとしていた。 「三成、わしはこれから一足先に関ヶ原に向かう。秀秋と大津勢をそこで待ち受ける。万一、家康が大垣城を見捨てて関ヶ原に向かった時は、全軍を率いて追い懸かられよ。その時が、勝つ潮時じゃ。間違えるなよ」 「わかった。それより中納言を頼むぞ。どうも頼りない。寝返りはしないと思うが、働かなくても困るからな」  吉継は静かに首を振った。当主小早川秀秋は確かに頼りにはならなかったが、率いる軍団は小早川隆景が手塩にかけて育てた不敗の軍勢であった。朝鮮の碧蹄館《へきていかん》では、明軍十万を撃破した栄光の戦歴を保持していた。小早川軍一万六千と強兵の立花軍三千で家康を迎え討てば、充分関東勢に勝てると確信していた。  大谷吉継は新しく自分の配下についた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座吉家らの四千を越す軍勢を連れて、中山道、北国街道、伊勢街道三道の交差点になる関ヶ原の山中村に向かった。  客将である戸田勝成、平塚為広と兄弟の大谷義冶、木下頼継は、中山道と藤川の交差する山中村の入口で大谷吉継を待って陣を敷いていた。大谷軍の総勢は六千を越す軍団になっていた。  残された三成はまた、大坂城の毛利輝元に何回目かの出陣督促の書状を書いた。できることなら家康がこの岡山の前線に来る前に出馬してきて欲しかった。疑心暗鬼の上方勢の諸将たちも、総大将輝元の顔を見れば安心すると思われたからである。  しかしその頃、大坂城では毛利家家老、福原広俊は輝元に姦計《かんけい》を囁いていた。 「吉川広家からの知らせでは、留守役奉行の増田長盛は家康に通じているとのこと。殿がもし出陣なされば、その機に秀頼殿と淀殿を奉じて寝返るかもしれぬとの話でござる」  人を疑わない輝元は、すぐに広俊の話を信じた。 「さようか。わしはここを動かぬ。そう広家には伝えよ」  あまりの素直さに、広俊は逆に毛利家の将来を憂い始めた。何か、これからよく無いことが起こりそうな嫌な予感を感じた。  家康は九月十三日未明、本多平八郎率いる旗本五百名を連れて、本隊とは別に清洲城を駕籠で抜け出した。隠密裏に赤坂に直行する予定であった。家康の所在と本陣を示す金扇に日の丸の馬標と葵紋の大旗、白旗は旗筒に入れたままであった。  家康は犬山城を通らず、大きく迂回して岐阜城の手前から木曽川を渡った。犬山城主の石川貞清が大坂方についていたからである。しかし美濃の豪族たちは長年の経験で、岐阜城が落ちては、他の小城が生き延びることは地政的に無理であることをよく知っていた。内実、美濃国は一夜にして徳川方になびき始めていた。  家康は岐阜の近くに一泊した後、翌十四日、岐阜城の北側から長良川を渡ることにした。その川筋に鵜飼船が十数艘、停泊しているのが見えた。それらは稲葉|貞通《さだみち》と稲葉|通重《みちしげ》が徳川に随身するということで、渡河する船を用意していたものであった。二人は小早川家の稲葉正成からの提案を受け、美濃稲葉家の方針を大坂方から徳川方に既に変節していた。  家康は、自分の行動が事前に漏れていたことで不愉快な顔をしていた。 「徳川殿、当方で船を手配しておきました。この一帯は稲葉家で押さえておる場所ゆえ、このまま赤坂まで敵に気づかれずに参れます。先導致すゆえ、ご安心くだされ」  五十歳を越した貞通は甲冑を身に纏わず小刀も腰に差さず、羽織姿でそつなく稲葉家の徳川随身を言葉に表した。 「この寒空に、朝から待っておったのか。かたじけない」  いずれにしろ美濃の豪族稲葉家の与力は心強く、家康は自然と礼を述べた。貞通の甥で若い通重が一行を先導した。その日の午後の明るい内に、家康は岡山の本陣に到着した。上方勢の誰しも、家康が大垣城の目の前に着陣したとは知るよしもなかった。  比叡おろしの風が琵琶湖の湖上をかけ抜けていく。風は、冬の訪れを感じさせる冷たさを含んでいた。京極高次は、大津城の本丸から湖上ばかりを見ていた。五町ほどの沖合いには、敵軍である増田長盛の水軍が悠然と行き来をしていた。水夫たちの顔もよく見えた。だからといって、反対側の陸地は見たくなかった。  自城に帰っただけと高次は思っていたが、寝返りの噂は真実となり、すでに六日前から上方勢の攻撃が始まっていた。一万五千の大軍が東の浜町口の橋からも、南の京町口、三井寺口からも、西の尾花口からも堀橋を渡って侵入していた。僅か三千の兵でどうして守れというのか、逆に教えて欲しいくらいであった。  最初の九月八日と九日の二日間の攻撃で、三の丸が敵の手に落ちていた。特に立花、毛利軍の強さは予想を超して群を抜いていた。弟の京極高知の言う、岐阜城を一日で落とした関東勢の精鋭の援軍は、どこにもまだ見えなかった。  しかし敵は、二の丸を攻撃する前に何度も降伏の使者を送ってきた。使者は、木喰上人応其と淀殿の侍女である阿茶の局であった。  阿茶は京極高次の妻於初に、姉の代わりとしてその憂いをくどくどと訴えた。淀殿には、大坂城の目の前で楯突く妹の夫高次の気持ちが少しもわからなかったのである。  しかし妻於初の願いにも拘らず、高次は巌として首を振らなかった。それはまた、京極家の行く道を間違えたとは思いたくない一存だった。しかし、このまま徳川方が自分を助けにきてくれなかったら、そう思うと気が狂いそうであった。  使者が去ってから暫くして雷のような音と共に、高次のいる本丸が大きく揺れた。一瞬、地震かと思ったが、すぐにまた同じ音が近くに聞こえた。地震ではなかった。大筒の音であった。高次はそう気がつくと、脱兎の如く梯子段を下って階下に向かった。  階下の二階に姉の松ノ丸竜子がいたからである。案の定、火薬の匂いがあたり一面漂っていた。天守の板壁が大きく破れ、西の空が見えていた。上方勢が近くの長等山から撃ち出した大砲の弾が空けた穴であった。弾は二の丸と本丸の敷地に、思いついたように間をおいて着弾していた。その度に、天を切るような不快音と地響きが聞こえた。  中央の広間には数人の女性が倒れていた。その中に姉を目ざとく見出した高次は、すぐさま両手に抱え込んだ。 「姉上、姉上。しっかりなされ」  大筒の爆音で気を失ったようであった。傷跡や血痕は見えなかった。高次は、よりによって姉を気絶させた上方勢に激しい憎しみを抱いた。この上は死んでも降伏はしないと誓った。  九月十三日の宵、高次の許に一人の徳川方の密使が敵方の警戒厳重な囲みを抜けて現れた。それは、京から戻った斉藤角右衛門であった。気落ちしている高次に、 「主、家康は大津宰相殿の御忠節にいたく感激しておられます。すでに徳川本軍三万を率いて赤坂まで到着いたしております故、後暫く時をかせいで頂くよう申しつかって参りました」  高次の顔が急に明るくなった。赤坂から大津までは一昼夜の距離である。諦めなくて良かったと心から思った。 「斎藤殿、豊臣からの和議の申し出は断る。明日は城が落ちても、戦う所存」 「この斉藤角右衛門、かっては明智家の家臣でもありました。拙者も御陣に加わえて下され」  高次の口が開いたまま、暫くふさがらなかった。 「何とな。明智の者が徳川殿の直参《じきさん》とは」 「それがしの父は斎藤利三でござります。山崎の戦の後、兄と共に家康殿に御仕えしておりました」 「懐かしいのう。誰か酒を持て。昔話を聞きながら、一献酌み交わそうぞ」  高次の暗かった顔に生気が生まれ、脳裏に明智光秀と武田元明の懐かしい顔が浮かんだ。 「光秀殿の遺恨払い、それに兄の弔い合戦を明日はしようぞ」  本能寺の変後、義兄の元明が秀吉に謀殺されたことと、姉の竜子が秀吉に手篭めにされたことは高次には耐えられない屈辱として、その胸に長く刻み込まれていたのである。それだけに、斉藤角右衛門の登場は夢のようであった。  朝靄が湖面に漂い、大津城の本丸もその黒い影がおぼろげに見えるだけであった。立花宗茂は、大津城を見下ろす三井山の陣中で思案を続けていた。昨夜から、石田三成と大谷吉継の飛脚が相次いでいた。いずれも家康との対決を控えて、関ヶ原口に布陣せよとの督促であった。  正直、宗茂にとっては大津城を攻めるより家康との一戦の方がはるかに望む所であった。しかし、自分にわざわざ大津城攻めを命じて置きながら、決戦が近いといってすぐに呼び戻す石田三成の無節操さに腹が立ち、素直に命令に従えなかった。  一瞬、家康からの馳走文を思い出した。筑前、筑後、肥後など、ご所望の所領五十万石進呈致すという破格の条件であった。しかし、家康が自分の武功を買ってくれたという自尊心だけで、宗茂は満足であった。今は太閤に授かった恩義を返すことが武士の本分と、信じていた。秀吉公から長年頂いた義理に報いるとの一言で、大坂方に味方していた。大坂城で三成はその宗茂の言葉に歓喜したが、褒美についての具体的な話は何もなかった。  しかし今日一日の攻撃で本丸まで落とせるだろう。今夜にでも関ヶ原に向けて発てば、三成への義理は立つと宗茂は考えていた。それに高次の姉妹関係から見て、短兵急に攻め落として城内の婦女子を殺すことはできない。できれば、高次が城を素直に明渡してくれることを期待していた。  それに、宗茂の率いる兵は僅か三千であった。大津城を取り巻いている大半は毛利家の軍勢である。今ここで兵を引き上げれば、すべての軍功は毛利に帰してしまうかと思うと、思い切って撤兵の決断もできなかった。  山を降りて立花家の攻め口である浜町口に向かおうとした時、二の丸の城壁内に見慣れた一文字に三星の毛利の軍旗が二旒も風に靡いていた。宗茂は自陣に向かって、馬の尻に鞭を入れた。これまで三十数回の合戦で一度も負けたことのない軍功からも、毛利元康に本丸を先に落とされる訳には軍歴にかけてもいかなかった。  黒鉄色の筋兜の下から三十二歳の宗茂の若い大声が発せられた。号令以下、立花軍の精鋭三千が筏と船で堀を渡り、中央の橋からは鉄砲を連射しながら先鋒隊が突撃し始めた。石垣に取りついた立花の兵は蛭のようにへばりついて京極軍と戦い、一人、二人と勇敢に塀を飛び越えて中に侵入していった。  午の刻を待たずに二の丸は上方勢に落とされ、天守のある本丸の一画だけが残された。立花隊のあまりの目覚しい活躍に本丸の天守から彼我《ひが》の戦闘を見守っていた高次は気がまた重くなった。負け戦を前にして、妻や姉を己の自我だけで道連れにはできなかった。  敵兵が目前に迫った時、思いを同じくして上方勢の攻撃が止んだ。大坂城留守居役奉行増田長盛の配下の者が、総大将毛利輝元の攻撃停止の命令書を持参したからであった。淀殿は妹の於初が万一にも自害するのではないかと恐れて、輝元に和議開城を勧めたものであった。  半刻後、淀殿の依頼を受けた阿茶の局と木喰上人応其が輿に乗って、また大津城の本丸に入った。 「姉君は、唯一の身内である於初殿がかような無益の戦で命を落とされては、一生の悔いと申されております。高次殿、早う城を開かれ、淀殿に詫びを申されてくださいまし」  淀殿の一番のお気に入りである阿茶の局は、高次と於初の前で無愛想に口上を述べた。局の眼中に姉竜子のことが一言もないことで、高次はまた苦虫を潰したような顔になっていた。  於初が泣きながら、夫の袖を引っ張った。 「相分かった。城を明渡す。それがしは高野山にでも蟄居する。木喰上人、明日わしを一緒に連れてってくれ」  高次は妻の顔も見ずに、諦めたように上人に呟いた。自分は一生、裏目に賭ける人生なのかと、改めて思いきらざるを得なかった。  かくして九月十四日、十日間に渡る大津城の包囲戦はあっけなく幕が降りた。   杭瀬川  黄昏《たそがれ》の風に、各陣所で炊く飯釜の白煙が西に流れていた。島左近清興は自兵五百を率いて大垣城を出た。愛用の兜の前立てに付けられた三尺の朱の天衝《てんつき》が一際、軍列の中で目立っていた。馬上の左近は不安に駆られて、城内にいる気分にならなかった。  あまりにも敵方の情報が少なかった。家康はどこにいるのだ。岡山の福島、黒田、細川、それに浅野、池田も動こうとしていなかった。敵方は風の止まった旗のようであった。長年の経験で、敵は何か企んでいると感じていた。  杭瀬川沿いに左近は兵を上らせた。対岸に徳川方先鋒中村氏次の陣幕の紋所が見える位置まで近づいていた。しかしその周囲は葦が深く、都合良く敵兵から気づかれていなかった。  五町ほどの距離で左近は兵を止めた。左近の不安は前方の敵よりも、後方の南宮山に陣取っている味方の毛利、吉川と長宗我部軍であった。両軍とも山の中腹まで登り、動こうとはしていなかった。戦を前にしてあのように高い所に陣張りしては、火急の時に後れを取ってしまう配備であった。誰か使番を毛利秀元と長宗我部盛親の所まで行かせて、山の麓に下ろさせようと考えた。  家康はすでに岡山の本陣にいた。本陣の仮小屋からでも、真正面に大垣城の勇姿が見えた。石田三成も同じようにこの岡山を眺めているかと思うと、感無量であった。敵ながらよくこれほどの大戦をこさえてくれたかと思うと、感謝の気持ちが湧き上がっていた。  家康着陣を聞いて、黒田長政がすぐに駆けつけてきた。 「御着陣、祝着に存じます。毛利家は、当方に御忠節を果たすと申し送ってきております。また南宮山の麓におる吉川広家の言によれば、大坂城の毛利輝元は当地に出馬せずとの確認状を受けておるとの事でござります」  家康は珍しく饒舌《じょうぜつ》に、長政に軽口を叩いた。 「どのような風の吹き回しかな。毛利は弁当を食べに中国からわざわざ美濃まで来るとは、殊勝なことじゃな。昔の父御の頃と時代が変わったのかな」  吉川広家の父元春が備中高松で秀吉を追撃しようとしたことを知っている家康にとって、広家の甘さが逆に腹に据えかねた。二万もの軍勢がいれば、徳川軍と一戦するのに不足はないはずであった。 「金吾はどうした」  今度は急に不機嫌な声で、長政にまた問いただした。 「小早川の家老二人とも要領を得ないままで、しかと当方に与力するとは、まだ」 「平岡頼勝は元黒田家の家臣ではなかったか」  長政の返答に不満気に、 「秀秋が去就をまだ決めぬとすると、立花宗茂や毛利元康がそろそろ大津から戻ってくるではないか。事を急がねば。直政、即刻、軍議を開く。諸将を集めよ」  家康は久し振りに苛立っていた。決戦を前に、一つの落ち度も許されなかったからである。  そこに、小早川軍に合流した斎藤利光からの急使が到着した。隠密は道阿弥《どあみ》と呼ばれる甲賀者であった。道阿弥は本能寺の変後、安土城に出向こうとした明智光秀を瀬田の大橋を焼いてまる一日食い止めた、近江瀬田領主山岡景友の出家姿であった。その後、秀吉の御咄衆《おとぎしゅう》として仕えたものの石田三成とは折り合いが悪く、いまでは家康の親派になっていた。  家康は書状を見るや大声を発した。 「わしが着陣したことを知らせる。旗を立てよ」  利光の書状には、小早川家はどちらにも与力しないと書かれてあった。小早川秀秋が参戦しないとなれば、強腰で押しても怖くなかった。この岡山に徳川の旗を立てれば、優柔不断に日和見を決めている上方大名は驚くだろう。家康は自分が前線に到着したことを知らせることで、先手を打つつもりであった。  島左近も大垣城の石田三成も、岡山の頂上に二十旒の白旗と三葉葵紋の幟旗が七旒、急に翻ったことに気がついた。三成は、家康の着陣とは思いたくなかった。しかし大坂方の軍勢の中では、波の輪のように家康着陣の話が広まった。そして事実、半刻後、家康の本隊三万の軍勢が威風堂々と中山道から大垣城を見ながら杭瀬川を渡り、岡山本陣の背後の赤坂に布陣したのである。  島左近は不敵にも、いまだと感じた。家康着陣で喜んでいる敵方に仕掛けようと考えたのである。家康の目の前で一泡吹かすことができれば、明日からの戦に大いに役立つと思った。  薄暗くなり始めた杭瀬川の葦の叢《くさむら》に兵百五十を残すと、左近は敵の目も気にせずに渡り始めた。対岸の中村一忠と氏次の陣兵たちが、あわてて動き始めた。  杭瀬川を渡った左近は、鉄砲隊と騎馬隊を川岸の林の中に密やかに隠させた。中村軍の陣柵の前には、稲穂が重く垂れた田圃が広がっていた。島隊の足軽たちがその稲穂を刈ると、火打石で焼き始めた。完全な挑発であった。  中村氏次の鉄砲隊が、石田の足軽目指して火を吹いた。それでも、陣笠《じんがさ》足軽たちは構わずに稲を刈りつづけていた。田の中の稲束があちらこちらから燃え上がると、柵が開かれ一騎の騎馬武者が躍り出てきた。  中村軍の先手大将の野一色《のいしき》助義であった。白一色の陣羽織を纏い、背には金の三幣の指物を差し、大鹿の角の兜をかぶった勇壮な武者姿であった。後に続いて、中村氏次の精鋭百騎が飛び出した。  島隊の足軽たちは、あっという間に騎馬隊に追いまくられた。時々踏みとどまって戦ってみるものの、またすぐに背を向けて杭瀬川方向に我先と川を渡って逃げ始めた。それを見た野一色助義も兜首を追い求めて、騎馬隊を率いて杭瀬川に馬を入れた。  その時、後方から乾いた音が一斉に響き、馬上の武将|成合《なりあい》利忠が川面に崩れ落ちた。左近が潜ませた鉄砲隊の一斉射撃であった。助義は、戻って撃たれる危険よりも川を渡ってしまおうと、そのまま残った騎馬を対岸の土手に駆け上がらせた。しかし、そこに待っていたのは島隊の槍衾であった。  かっとなった助義が構わずに槍をかわそうとした時、横手から一人の騎馬が寄せてきた。 石田家鉄砲頭の海北《かいほく》市郎右衛門であった。野一色の太刀が空中に舞うと同時に、海北の兜も飛んだ。しかし馬から転げ落ちたのは助義であった。海北は首を斬られる前に、手にした短銃で相手の胸を撃ち抜いていた。  同じく石田家の猪尾甚太夫は中村家の勇将の成田平左衛門と斬り合い、相手が疲れたところを首尾良く刺止めていた。島隊の善戦を見ていつのまにか、宇喜多隊の先手大将明石全登率いる八百が後詰めとして要撃してきていた。  それを見て今度は関東勢が中村隊を救援するために、遠江横須賀城主の有馬豊氏が二百の兵を率いて自陣から飛び出した。豊氏は一目散に、川岸に残っていた左近の鉄砲隊に襲いかかった。鉄砲の応射はなく、鉄砲足軽たちは蜘蛛の子を散らすように川の浅瀬をつたって逃げ始めた。有馬隊も、中村隊と同じように杭瀬川を渡った。  今度は、対岸に潜んでいた島隊の水野庄次郎ら百五十人が応戦した。石田家の家臣たちは強かった。数合の槍叩きで有馬騎馬隊の武将の多くが馬から落とされ、首を掻かれた。  その激戦の中、石田家の横山監物も有馬勢の稲葉右近と馬上で槍を合わせて戦った。お互い組み打ちになり監物が右近を組み敷いたものの、近くにいた右近の若党らに襲われ逆に頸を落とされていた。  本陣の仮小屋の二階からその戦闘を見物していた家康は、不機嫌に声を発した。 「あの虚《うつ》け者どもを引かせい。戦をしたことがないのか」  慌てて家康は、本多平八郎に撤兵を命じた。いまや、単なる小競り合いから本格的な戦闘に入ろうとしていたからである。宇喜多家と小西家の本軍が動こうとしていた。それにつれて連鎖的に前面の浅野、池田の陣が応戦し始めようとしていた。  平八郎は直ちに馬廻りの旗本五十騎を引きつれて、岡山の本陣から杭瀬川を目指して駆け下りていった。一群が戦場に到着した時、残されたのは、首を取られて空しく転がる甲冑に包まった味方の残骸であった。  そこに単身一騎、大坂方の武将が駆け戻って、本多平八郎の馬前で輪をかいて馬を回した。 石田軍で一番首を取った、林半介という若武者であった。  平八郎は、自分の昔を彷彿させる若者を無視して軍を返した。長久手で豊臣勢を破った家康を追ってきた秀吉の馬前で、行軍を阻止するために馬を回したことが懐かしく思い出された。  家康は着陣早々、縁起でもない負け戦を見せられて心中憤っていた。しかしここは堪忍のしどころと、笑顔を浮かべて軍評定を召集した。 「各々方の存念を聞きたい。これより大垣城を攻めるのも一手と思われるが、何か良い手はござらぬかな」  誰に言われるまでもなく大垣城攻めは愚策中の愚策と、家康自身思っていた。数万の軍勢が立てこもる城を攻めたら、いつ戦が終わるかわからなくなる。その間に万一、豊臣秀頼を奉じて、毛利輝元あたりが大坂城の軍勢を率いて来られてはえらいことになると考えていた。本音は大垣城を中心に集まっている上方勢を城から誘い出して、野戦で迅速に決着をつけることであった。  「いかにも、これより全軍で押し出して、大垣城にいる三成の首を叩き斬ることにしようではないか」  浅野幸長が目くじらを立てて、吼えるように賛成した。父の長政が石田三成の讒言《ざんげん》によって領土を失った遺恨だけでこの戦に参加したと思われるほど、三成を不倶戴天の敵として憎んでいた。池田輝政も賛意を示した。 「それがしは大垣城攻めには反対である」  幸長に負けない大声が上がった。福島正則であった。 「大垣城は堅城でござる。ここで手間をかけるより、一気に大坂城に向かい毛利輝元を降し、諸将の妻子を助けることが肝要ではないか」  正則が正論を吐いた。他の大名の多くも、一日も早く大坂に舞い戻れれば幸いと内心考えていた。本多平八郎もすぐに賛成した。  しかし、黒田長政は内心、正則の案を愚弄した。大坂城に行けば、豊臣秀頼と戦うことになるのである。豊臣家一の忠臣を自負する正則が大坂で戦えるはずはなかった。 「それでは大垣城の押さえに池田殿と浅野殿には残って頂き、他は大坂へ向かうとしよう。がその前に、治部少輔の佐和山城を攻め落とすことはいかがかな」  家康が、もっともらしい顔をして断を下した。石田三成の居城を落とすと聞かされて、誰も反対しなかった。大垣城を攻めるより、やりがいがあるように思えた。 「出発は明朝とする」  思った以上に慌ただしい作戦であった。出席した大名の誰しも、このまま素直に佐和山に行けるとは思っていなかった。どこかで敵と遭遇することになると、覚悟していた。  日の暮れた葦の原に、冷たい驟雨《しゅうう》が振り始めていた。大垣城では上方勢の気勢が上がっていた。小気味良く家康の面前で敵将の兜首を三十以上取ったことは、島左近や明石全登にとっては鬼の首を取った気持ちであった。誰しも漠然と感じていた不安感が、大坂方の将兵から消えていた。戦えば勝てる、という自信が表れていた。特にそれは、石田三成の胸の中で強固な信念となっていた。  三成の許に、重要な早馬が相次いで到着した。一頭は、山中村に布陣した大谷吉継の使者であった。小早川秀秋の本隊が松尾山に布陣した、という知らせであった。松尾山は中山道を下って、関ヶ原に入る右側に位置していた。三成の作戦通り、これで中山道は塞がれたことになる。  いま一つは忍びの情報で、今しがた行われた家康の軍議では、東軍は大垣城を攻めずに佐和山城を攻めて、それから大坂に向かうというものであった。  すぐに、三成は主だった大名を召集した。しかし出席してきた大名は、大垣城内にいる顔なじみの者だけだった。小西行長、宇喜多秀家、島津義弘と甥の豊久、それに石田家から島左近と蒲生郷舎、その他信長公七男の織田信高、伊藤盛正、福原長堯、熊谷直盛、相良頼房、垣見家純らの面々であった。城外の安国寺惠瓊、長束正家、長宗我部盛親、それに毛利家一族は顔を見せようとしなかった。  三成は気が焦っていた。家康が大垣城を攻めずに関ヶ原を抜けて、佐和山城に向かうことは許せなかった。豊臣家の総帥でもある自分の存在と事前に立てた作戦が無視されたことは、何よりも三成の自尊心を傷つけた。敵の背後を追う無様な姿を思うだけで不愉快になった。  時刻は酉の下刻を回っていた。驟雨は霧雨になって降り続いていた。三成は、今夜中に先廻りして関ヶ原の隘路《あいろ》で家康を迎え撃つ新しい作戦を主張していた。 「それなら、今夜にでも家康の本陣に夜討ちをかけるが易きこと」  島津豊久が、落ち着いた声で平然と答えた。 「夜討ちは、家康を逃がすだけではござらぬか」 「家康は、そなたを討ちに参っておる。逃げる訳はなかか」  今度は当主義弘の薩摩弁が暗い広間に広がった。 「しかし、金吾中納言と大谷吉継の兵だけでは、関東勢を防ぎきれぬと思われるが」  三成は夜討ちの案を無視して、家康が東上することだけを懸念していた。 「それでは関ヶ原に参ろう。どこで家康を討つのも変わらぬ」  明るく宇喜多秀家の声が響いた。上方勢の副大将である秀家の意見は重みがあった。 軍議は一転して、関ヶ原で家康を待つことに決まった。 「大垣城の留守番を福原、熊谷、相良、垣見の諸将に御願いする。先鋒は、夜討ちの件もあるので島津殿にお願いしよう。二番備えは石田隊、三番は小西、殿《しんがり》はこの宇喜多が務めよう」  秀家の言葉は澱みなかった。夜行軍の総数約三万、大垣城には七千の兵しか残らなかったが、それで充分だと秀家は思っていた。 「あいや、しばらくお待ちを。先鋒は石田家で務めねば、この戦の大義が立ち申さぬ。是非とも、この石田家島左近清興に命じられよ」  島左近が大声で秀家に噛みついた。 「ほう、左近殿は明日は死ぬおつもりかな」  島津豊久がまた、傍若無人に石田家を比喩した。出席者の誰もが、三成の官僚主義に辟易していた。天下分け目の戦に面子と理屈だけで作戦を立てられては。勝つ戦も勝てなくなると、真剣に豊久は思っていた。 「それでは今日の勝ち軍に免じて、やはり先鋒は石田隊にしよう。島津殿は二番備えで我慢していただこう」  秀家は、面倒を避けるかのように妥協した。  島津義弘も豊久も沈黙したままであった。秀家も、島津の力を軽んじているようだ。これ以上話ても無駄と二人は思った。明日の戦こそこの島津の力を使わなくていつ使うのかと、義弘の胸中は怒りに燃えていた。島左近は侍大将として務まっても、十万の兵力を動かす戦術はないと判断していた。  改めて義弘は、ついていないと思った。やはり、国元の兄義久の言葉が正しかったようだ。義久は、この戦に反対して兵を送ってきていなかった。集まった兵の千余りは、薩摩から手弁当で駆け参じた義兵ばかりであった。 「毛利と長宗我部には何と伝える」  小西行長が重苦しい雰囲気を壊すかのように、静かに三成に聞いた。 「惠瓊から作戦を伝えさせよう。各隊に話している時間がない。槍合わせが始まったら、狼煙《のろし》で合図をする。挟み撃ちにすれば勝利は間違いない」 「当然だな。しかし、惠瓊まかせで大丈夫か」  行長の杞憂は、三成の心中を見抜いていた。惠瓊が毛利家軍監の吉川広家をうまく口説けるか、確かに心配であった。 「これより、わしは惠瓊の所に参る。それでは皆様、御先に失礼仕る」  三成は一刻もこの場にいられなかった。毛利をうまく動かさねばならないと気が焦った。  すぐに、先鋒として三成の軍団には出陣命令が下った。総勢八千の大軍であった。先備は島左近、前備が前田兵庫助、後備は大山|伯耆《ほうき》、遊軍として大庭三左衛門、それに織田信高と伊藤盛正が付き従った。関ヶ原までは杭瀬川を渡り、栗原山から南宮山への間道の通称|牧田道《まきたみち》といわれる山間の狭い道を通ることにした。四里の道であった。  雨夜は暗く、松明なしで道は良く見えない。道は、馬一頭通すのが精一杯であった。時刻もよく分からなかった。多分、戌刻を回ったばかりと思われた。石田軍は大垣城を出ると、長宗我部盛親の陣地で焚かれている栗原山の篝《かがり》火を目印に進んだ。風が吹き始め、高い樹木の下を通る時には必ず雨露が顔を濡らした。  三成は下腹が痛くなってきたことを感じた。これで良かったのだろうか、その不安感が腹をさしこましていることを自覚していた。しかし、これしか取る道はなかったこともよく知っていた。明日には、いままでの不安を一掃できるだろう。そう思うと、下腹の痛みが少し和らいできたように思えた。  栗原山の麓から、三成は山には登らず使番を送った。そしてそのまま、間道を安国寺惠瓊のいる宮代村に向けて直進した。栗原山に布陣している長宗我部盛親を、よく知らなかったからである。  長年、四国で覇を唱え、権勢を誇った父親の宗主長宗我部元親は前年の五月に伏見で没していた。盛親は二十五歳にして、土佐二十二万石の家督を受けついだばかりであった。  三成の使番として渥美孫左衛門が訪れ、明日の戦の作戦を逐一述べ終わった時、盛親は無感動に言った。 「夜明け前までに中山道の垂井まで押し出すと、治部少輔殿にお伝えしてくれ」  いままでの伏見城攻めも安濃津城攻めも、大坂方には何の戦略、戦術もなかった。数に任せての場当たりの戦法でしかなかった。しかし総大将の家康が現れた今、誰よりも戦経験の深い家康が本当に関ヶ原の盆地に軍勢を入れるだろうか。見す見す死地に赴くような作戦を家康が仕掛けるとは、どう考えても考えられなかった。あの狭い山間で前後から挟み撃ちにあったら、逃げる場所はないからであった。盛親は独特の勘で、何か仕掛けがあると感じた。迂闊には動けないと思った。  長宗我部盛親の返事を聞いた三成は、逆に満足した。腹の痛さはいつの間にか消えていた。  惠瓊は、村の唯一ある小さな神社を占拠していた。篝火が鳥居の回りを囲んでいた。遠目からも、一目瞭然で大将の居場所が分かってしまう明るさであった。三成は舌打ちをしながら、 「左近、采《さい》を取れ。先に関ヶ原へ行ってくれ」  石田軍は、常に上方勢の先頭にいなければならなかった。一刻も捨てる暇はなかった。それに三成は、石田軍を篝火の明るさに晒して、徳川の物見に行動を知られたくなかった。  すぐさま、南宮神社の本殿に三成は通された。火鉢の炭火を前にして一息ついた。身体は冷え切って、手の感覚はなかった。女と見間違うような稚児姿の小姓が茶を持参した。その熱い茶を飲み干すと、ゆっくりと話す気分になれた。関ヶ原で家康を待ち伏せる作戦を惠瓊に話していると、勝てる気がしてきた。どう見ても、負ける布陣ではなかった。 「惠瓊殿、毛利家には黒の狼煙を合図に、中山道から関ヶ原に後詰めをするようお話し願いたい。よろしいな」 「わかっておる。吉川広家も、勝てる戦で躊躇《ちゅうちょ》はせんだろう」  惠瓊も楽観していた。三成以上に、上方勢の作戦を高く買っていた。 「家康が動くのは明朝か、今夜かな」 「まだ、我々が動いたことは知らぬはず。多分、明払暁には。しかしそれはそうと、広家はどこにいるのだ、惠瓊」 「ふむ、わしにもわからぬ。。多分、この後ろの山の上におるだろう。夜分なら、半日かかるかもしれぬ」  言葉には元気がなかった。南宮山は、戦をするより見物する場所であった。惠瓊ならずとも毛利軍が日和見をしていることは、あのような山頂に布陣したことで予想がついていた。  三成は、これから雨で滑る山道を登っていくのは難儀で、最初から諦めていた。不安ではあったが、毛利家は惠瓊の責任において処理してもらおう。その代わり、一つの良案を思いついていた。  立花宗茂と毛利元康の連合軍が大津城を本夕刻に落とした、という吉報を受け取っていたからである。今晩急げば、明日の午後には関ヶ原に入れるに違いない。少し参戦が遅くとも、一万五千の精鋭が加われば鬼に金棒だと思えた。元康が到着すれば、本家の秀元が黙って傍観する訳にはいかないだろう。  そこに、甲冑の上に雨合羽を着た長束正家が現れた。長束軍は、安国寺惠瓊のすぐ背後に陣を構えていた。 「よいところに来たな。新三郎」  三成は珍しく本名で正家を呼んだ。正家の顔は雨に濡れていたからか、冴えなかった。 「早速だが、大津にいる毛利元康と立花宗茂を至急、関ヶ原に呼んでもらえぬか。明日の戦には是非とも間に合わせたいのだ。そなたの家臣は、この辺の道には詳しいからな」  長束正家は近江水口の城主であった。大津は水口の隣宿であった。 「訳のないこと。誰かを行かせて、先導させよう。水口から間道を回れば、南宮山の麓の牧田に出られる」 「これはよい。侍従頼むぞ」  今度は正家を官位で呼んだ。  三成の気分は今や爽快であった。毛利と立花たちが駆け参じてくれれば、間違いなく昼前には戦場に来られるはずである。勝利を確信し始めていた。疲れも眠気もどこかへ飛んでいた。  目前に松尾山の黒い影が見えてきた。よし金吾中納言秀秋だけは自分が念を押そうと、馬を向けた。   関ヶ原へ  雨が雨戸を強く叩く音がする。時刻は深夜を回ったかもしれない。赤坂の庄屋の家を借りた家康は薄い蒲団の中で、着衣のままでまどろんでいた。敢えて強攻した佐和山城攻めに上方勢がうまく反応して大垣城を出てくれるかどうか、いまいち心配であった。もし秀家や三成が堅実であれば、城を出ることはないと思えた。しかし三成は自分の手の内を知って先手を取るような気がしてならなかった。三成の欠点である頑《かたくな》な性格が戦法にでてくれれば、成功であった。  雨戸を叩く音ではなかった。それは小姓が板戸を強く叩く音だった。家康はすぐに起き上がった。 「何事だ」 「敵が大垣城を出て、動いております」 「よし、出陣だ。用意をいたせ」  待ちに待った機会が到来した。敵は、術中にはまって動いたようであった。すぐに供の者に具足をつけさせながら、茶漬けを立ったまま掻き込んだ。珍しく沢庵をかじりながら、参杯の飯を飲み込んだ。これから始まる一日は何も食べられないと、予感が走ったからであった。  広間にはすでに松平忠吉、本多平八郎、井伊直政らの重臣が集まっていた。 「福島正則、京極高知、藤堂高虎、田中吉政らは、すでに先発いたしております」  赤具足一色に身を固めた井伊直政が早口で報告した。 「よし、正則に負けるな。一番槍は必ず徳川がつけよ」  これからの天下の仕置のためには、徳川家が一番先に槍をつけなければならないと、家康は決意していた。  直政は我が意を得たりと、三千六百の赤備えの兵を率いてその場から飛び出した。松平忠吉の兵三千がその後に従った。 「正成、関ヶ原に出陣せよと、全軍に伝えよ」  成瀬正成は家康の小姓であり、使番であった。 「松平康長と津軽為信は殿として、大垣城に備えさせよ」 「南宮山の後備えを池田輝政、浅野幸長、それに山内一豊と有馬親子に命じよ」  家康は次々と指示を与えた。岡山の本陣は、篝火の炎で昼の如き明るさにつつまれた。各大名への使番の命令は簡単であった。中山道を西へ進めということと、戦が始まった時に使用する合言葉と合印の伝達であった。  合言葉は「山が山」と問えば、「麾《さい》が麾」と答えることで決められた。合印は右の肩につける角取紙《すみとりがみ》であった。戦術は中山道を西進し、敵と遭遇したら戦うという乱暴なものであった。 血気盛んな関東勢にとっては、それだけで充分であった。  徳川方の軍団が出発したのは寅の刻に入っていた。しかし道は通りなれた中山道一本であり、夜中の霧雨けむる道でも迷うことはなかった。加藤嘉明の三千と細川忠興五千の大軍団が福島正則の後を追って、慌ただしく出発していった。次に筒井定次の二千八百、寺沢広高の二千四百、生駒一正の千八百、金森長近の千百、古田重勝の千、織田有楽の四百五十の兵が先鋒部隊の後に続いた。  取り残された軍団は、家康の本隊三万と黒田長政の五千四百の兵であった。長政は、進みたくてもまだ動けなかったのである。吉川広家からの最後の使者を待っていたからであった。  南宮山の毛利軍が徳川に味方して兵を動かさないと約束しない限り、長政は家康を関ヶ原に進ませる訳にはいかなかった。寅の下刻に、待ち望んだ福原広俊の弟元頼が毛利家人質として、隠密たちに守られて顔を出した。  口上は、明日の合戦には手合わせを休めるであった。長政は、元頼に黄金一枚を気前良く与えた。すぐに後顧の憂いはなくなったことを家康に知らせ、黒田軍に早駆けを命じた。しかし肝心の家康は、吉川家からの人質の話しを聞いても、なぜか無言で長政を無視した。  それを見た長政は、調略だけでは家康がまだ不満と感じていることを知った。すぐに、明日の戦に功を立てることに頭を切り替えた。晴れた夜ならば、一里四方の狭い関ヶ原に十万を超す兵馬が侵入すれば、それは一目瞭然の光景であったに違いない。しかし雨と霧に包まれた関ヶ原の盆地は、五十間先の人影も消し去ってしまっていた。それでも夜道を夢中で馬を走らせた。  軍団最後尾の黒田軍はいくつもの友軍を追い越し、敵の前面に割り込もうとしていた。目標は石田三成の首であった。進撃中、石田軍の所在を探しに物見を十名以上、派遣した。  それに、長政はもう一つの心配を抱えていた。その懸念は、家康からくどく言われている小早川秀秋の去就であった。家老の平岡頼勝の返事は、いつも適当で信用できなかった。もしも小早川軍が大坂方についたままであれば、黒田家への恩賞は望め無いかもしれないとも思った。  馬上で思いついたまま元黒田家の家臣で平岡頼勝をよく知っている菅六之助と益田与助を松尾山へ送った。二人には、必ず頼勝を口説いて徳川方に寝返りをさせるよう、厳命した。菅と益田は事態の重要性を肌身で感じたのか、緊張の面持ちで闇夜に消えた。  おりしも、一人の影武者が南宮山の麓の間道を小走りに走っていく姿があった。長束正家の隠密であった。行く先は、大津にいる毛利元康と立花宗茂の陣所であった。  白い霧の中を切り裂く鋭い音がすると同時に、その影武者の頚動脈から血があたりに飛び散った。隠密は首筋に手を当てる間もなく、その場に倒れ伏した。伊賀者が使う吹き矢であった。数人の黒い姿が林の中から現れると、回りを見渡しながら、倒れた隠密の懐から油紙に包まれた書状を取り出した。そして、あっという間もなく散開して、その場から消え去った。  同じ頃南宮山の吉川広家の所に安国寺惠瓊の使者が訪れて、黒色の狼煙を合図に関ヶ原の出口を押さえて欲しいとの依頼を受けたばかりであった。広家は黙ってうなずいた。  それから広家は、大津の毛利元康宛に書状をしたためた。しかし中身は、身内に対する策略であった。徳川家康が中入りして佐和山から大坂へ向かっている故、そのまま大津にて待ちうけることを指図していた。毛利元康と立花宗茂の一万五千の兵員を、関ヶ原に来させないことを画策していた。毛利家を戦わせないことが主家に対する大義と、広家は固く信じていた。  事実、物見からは、徳川家康の本隊と思われる大軍が南宮山の麓を走る中山道を西進している報告がもたらされていた。もし晴天であれば、その壮観な隊列をここから見ることができただろう。広家は残念だと、戦を前に子供のような好奇心を隠さなかった。  皮肉にも、広家の書状は翌日の早朝、大津の陣営に届けられた。毛利元康は不審に思いながらも、立花宗茂と共に兵をその場に止めたのである。  中山道を家康は駕籠に乗っていた。当然、敵は関ヶ原で待ちうけているに違いない。本陣をどこへ置いていいのか、駕籠の中で家康は迷っていた。  安全策を取るか、渦中に活路を見出すか、ふんぎりがつかなかった。最後尾の垂井《たるい》あたりにいれば、万一負け戦の時には無傷で退却できる。しかし、そこでは相手にも致命傷を与えることはできない。天下取りの戦はこの手で采を取らねばならないと、家康は断を下した。 「直次、本陣は桃配山《ももくばりやま》に置く」  側に控えていた使番の安藤直次は驚いたが、顔には出さなかった。桃配山は南宮山の真下にあたる。もし毛利の大軍が逆落としに攻めかかってきたら、総崩れになる危険な場所であった。 「桃配山は壬申の乱で、大海人《おおあまと》皇子が本陣を置いた縁起の良い場所だ。そのように、いかめしい顔をするな」  家康は天海から、この桃配山に陣を置くことをあらかじめ指図されていた。関ヶ原盆地の入口に立つこの小山からは、晴れていればすべての関ヶ原の光景が見渡せたからであった。  松尾山の小早川秀秋も、山頂に作られた仮陣屋で何も見えぬ下界を見つめていた。瓶子を何本飲み干したか、とっくに忘れていた。もう一ヶ月以上も、毎夜同じような繰り返しであった。無骨な荒くれ武者の中で、女も無く余興もなく、一人酒を飲むことは拷問のような思いであった。もし明日、家康との戦が始まれば、この辛い思いも終りになる。戦の帰趨よりも、秀秋にとっては一日も早く福岡の城に帰りたかった。うつらうつらした時、平岡頼勝と稲葉正成の二人が神妙な顔をして入室してきた。秀秋は露骨に嫌な顔をした。 「何事だ」 「只今、石田治部少輔殿がお見えになりました」 「三成がか」  その声が終る間もなく、陣小屋の板戸が開かれて、黒色縅の具足を身に纏った小柄な武将が現れた。秀秋は一瞬、誰が入ってきたのかわからなかった。それが石田三成だとわかるまで、かなりの時間が必要だった。 「戦姿《いくさすがた》は珍しいのう。三成、血相変えてどうした」  秀秋の態度はどこまでも横柄であった。 「金吾殿、いよいよ家康の首を挙げる時が到来しました。明日の戦に勝てば、金吾殿には関白をお引き受け戴きます」 「三成、そちがわしに関白の位をくれるのか。偉くなったものだ」  秀秋の心中は屈折していた。慶長の役で石田三成の讒言《ざんげん》により、太閤秀吉から肝が凍るほどの叱責を受けたことが、いまだにわだかまりになって胸に渦巻いていた。関白の地位よりも、三成がいまだに自分に命令することに反発した。 「もう少し、物の言い様に気をつけよ。そなたに、わしの戦振りを指図されるつもりはない」  秀秋の言葉は酔った暴言か、真実の言葉なのか、三成にはわからなかった。 「明朝、緑色の狼煙が上がったら、家康の本陣に攻めかかって頂きたい。よろしいな。わしは陣張りに忙しい。これで御免」  三成は酔っている秀秋を無視して、両家老に自分の言いたいことだけを述べると、踵を返して供廻りの渥美孫左衛門と共に山を去った。見送った平岡頼勝は暗い雨空を見ながら、独言《ひとりごと》をつぶやいた。 「治部、明日も雨かもしれん。狼煙はみえぬがよ」 「平岡、頼勝」  急に闇夜から自分の名前を呼ばれて、振り向いた。そこに二人の武将が立っていた。側の松明を近づけると、若い一人は朱の具足を纏い顔の右頬が大きな痣《あざ》になっていた。いま一人は老人で五尺ほどの背の低い武将であった。頼勝は見なれた風体から、すぐさま黒田家々臣の菅六之助正利と益田与助と気がついた。 「おぬしらは敵ぞ。早く中へ入れ。気づかれたら面倒じゃ」  頼勝は周りを見渡しながら、陣小屋の中へ誘い入れた。 「殿からの言付で、明日の戦では徳川に与力してくれとのたっての頼みだ」  黒田家では一番古手の益田与助が、単刀直入に切り出した。 「わしの一存ではどうにもできぬ。それに三成は、殿に関白の地位を渡すと言っておるしな」  一方、菅六之助は正直、小早川家の動向などどうでもよかった。主君が相変わらず家康に慮っていることが面白くなかった。戦は敵の首を獲って勝つことで、調略などをする気持ちが知れなかった。剣術には絶対の自信を持つ新免流皆伝の六之助は、 「まあよい。われらは、これより帰って明日の戦の準備をせねばならぬ。石田三成の首はこのわしが挙げる、負け戦をする馬鹿はおらんよって、戦が決まると思うたら、徳川に寝返ればよか」  六之助の大言壮語に頼勝は苦笑いした。 「まあ、明日になればわかること。そなたら早く帰れ」  頼勝は気もそぞろに、二人を早々に小屋から追い出した。  その晩の一連の出来事を、近くで気づかれぬ様に斎藤利光がじっと見つめていた。そして、一人静かに山を降りて行った。  帰り道、三成の心はいつしか外の冷たい雨と同じように変わっていた。そして同時に、身体が心底から冷え切っているのに気がついた。悄然として旗本数騎を率いて、四半刻もかけて松尾山を下ると、その西麓に陣取っている大谷吉継を訪れた。時刻は卯の刻に近かった。あと一刻もすれば夜が明けるだろう。  吉継は、冷え切った三成を優しく迎えた。 「三成、この酒を飲め。身体が温まる」  普段酒を飲まない三成であったが、茶を待つ余裕はなかった。苦い酒が喉元を熱く通っていった。 「吉継、味方は着いたか」 「この絵図のように陣取りをさせた」  関ヶ原の絵図に、各隊の位置と陣形が祐筆によって克明に描かれていた。 「お主の為に用意しておいた。わしは、このような物はいらん」  三成は吉継の好意に深く感謝すると共に、もはや目も見えなくなった輩に心から憐憫の情を抱いた。  大谷吉継の作戦は明瞭であった。中山道を西進してくる関東勢を、中山道と北国街道の交差点で迎え撃つ鶴翼の陣形であった。右備えの中山道は大谷吉継の軍団、左備えの北国街道は石田三成、その間を島津と小西軍で前備えとなり、中央の先備えは宇喜多軍が鋒矢の戦端の陣形になっていた。後は状況に応じて、山間に布陣した小早川軍と毛利軍団が敵の弱い所に押し出していけば勝てる戦術になっていた。それに伊勢街道に出る逃げ口を大津からの毛利と立花の加勢が塞げば、敵は袋の鼠同然であった。  石田三成はまた身体が熱くなった。勝てる布陣であった。三成は包帯で巻かれた吉継の手を抱くと、 「紀之介、武運を祈るぞ。わしはこれから秀家殿の本陣に寄ってから、笹尾山に行くことにする」  吉継はうなずいたが言葉はなかった。三成は後ろを振り変わらずに、その場を立ち去った。ひょっとすると二度と会えないかと思ったが、未練になると紀之介の姿だけを背中に刻み付けた。   会 戦  九月十五日の夜が明けようとしていた。雨が止んで空は白んできたが、まだ白い霧が空と地を覆いつくしていた。先鋒の福島正則は、中山道が北国街道と伊勢街道とが分岐する地点あたりで兵を止めた。間違い無く、この先には敵が待ち伏せていることを感じとっていた。無言の中に、殺気だった気が前面一杯に立ちこめていた。後続の藤堂高虎、京極高知、寺沢広高の部隊は福島隊の背後で止まった。福島隊は六千の大兵力である。それを越して前にでることは至難の業であった。  戦に参戦した以上、軍功を挙げなければ、何の為に莫大な軍費を使ってここまで来たのか甲斐がなかった。最初に京極隊三千が中山道から左にそれて、藤川に向かって野原を直進し始めた。すぐに藤堂隊の二千五百と寺沢隊の二千四百も、遅れじと京極隊の後を追った。  藤堂高虎は戦は所詮運と勘に尽きると、長い戦経験から達観していた。いかに強兵を持ち、戦略が正しくても、大将に勝機を掴む一瞬の閃きがない限り、戦に勝つことはできない。高虎は独特の勘で岐阜城攻めと同じように、他人の誰しもが考える定石を取らなかった。  中山道の左側には、自分の部隊以外に味方はいないことを知っていた。高虎は、松尾山に向かって進めと命令を発した。前日、大坂方の脇坂安治からの密使を受け取っていた。それによると、脇坂軍は大谷軍と行動を共にして松尾山の山麓に布陣しているが、徳川方とは手合わせを控える故よしなにと、書状には書かれていた。  脇坂は最初から、今日の戦を天秤に掛けていた。勝つ方につこうと、その意味では最初から真剣に戦う気がなかった。藤堂高虎とは朝鮮の役で親しくなり、負傷した高虎を自分の軍船で名護屋城まで送り返したことがあった。高虎なら自分の気持ちが分かってくれると、戦の直前に連絡したものであった。  そのためこの日、義理堅い高虎は脇坂に戦をさせないために、自軍を最左翼の松尾山付近に誘導したのだった。  桃配山の麓に陣を敷いた家康も白い霧の流れの中に、生まれて初めて感じる表現しがたい緊張感で全身が固く金縛りにあっていた。もしもこの霧の上から敵が釣瓶《つるべ》落としに攻めかかってきたら、という不安感も消えなかった。家康は、焦燥と緊張で親指の爪を強く噛んだ。そして、背後に靡いている浄土門旗の「厭離穢土欣求浄土《えんりえどごんぐじょうど》」の字を見上げた。  大坂城を三ヶ月前に去ってから、いままで天下取りのための周到な準備を続けてきた。江戸から大坂に戻る時には実に二百通近い自筆の書状を全国の大名に送っていた。その結果、小早川も毛利軍も動かないという。多分、上方勢の動員数は、多くても四、五万と思われた。万に一つ、負ける戦ではなかった。  しかし、脳裏からは不安が消えなかった。一つは、前進し過ぎたのではないかという心配であった。周囲は、物音一つしない静けさに包まれていた。  その時、一頭の騎馬が大きな尻を見せながら後退してきた。乗馬の騎士は使番の野々村四郎右衛門であった。乗り手の緊張が移って、馬が興奮してしまっていた。床几に座っている家康の顔近くまで、馬の後退が止まらなかった。  家康は急に立ちあがり、腰の小刀で馬の尻に切りつけた。 「どけ」  馬は嘶《いなな》くと同時に、前方に走り始めた。 「誰か、物見はおらんか。調べてまいれ」  家康の回りには常時、二十名の使番がいた。しかし、その時、皆、斥候に出払って付近には誰もいなかった。苛立ちは余計激しくなった。その時、小姓の持つ旗指物の旗先がまた家康の顔に当たりそうになった。腹立ちまぎれに、瞬間的にその指物の柄を切り払っていた。三葉葵の旗が地面にストンと落ちた。  同じ頃、黒田長政率いる五千四百の黒田軍団は全員が走りに走っていた。中山道を垂井から右に折れて相川沿いに伊吹村を抜けて、丸山の付近に到着していた。しかし左手の前方はすでに細川忠興の軍団五千が位置しており、それより前面に出ることは不可能であった。物見の報告では、細川隊の左前方は加藤嘉明の軍三千がすでに位置しているとのことであった。  長政は正直焦っていた。大坂方の調略に気を使いすぎていて、出陣に遅れてしまっていた。戦が始まれば、敵将の首を取ることが一番の功績である。他家の後塵を拝しては、今までの努力がすべて無駄になる。味方の後方にいては、戦の仕様がないのである。こんな狭い地形で戦を仕掛けた三成に、また憎しみを抱いた。それに兵を動かしたくても、霧で進む方向が分からなくなっていた。近くに控えていた、警護の黒田三左衛門と後藤又兵衛に話しかけた。 「この霧では、敵はどこにいるかわからぬ。遅れを取っては一大事。それに、三成の居場所もまだわからぬ。どうするぞ」 「幸いに、我が軍より右手には友軍はおりませぬ。このまま山添に笹尾山方面に向かって進めば、間違いなく味方より前面に出られると思いまする」  黒田三左衛門が軽やかに答えた。 「殿、ご注進」  黒田家で物見一番と呼ばれた毛屋主水が帰ってきていた。 「この先の笹尾山に石田の陣が敷かれております」 「でかした、主水。全員進め」  長政は、ついていると感じた。まさか自分がいの一番に石田三成と槍合わせができるとは、思わなかったからである。  もう一人、一番槍を目指している武将が徳川方にいた。言わずもがなの井伊直政であった。徳川家の為にも、絶対に他家に先鋒は譲れなかった。しかし、この関ヶ原の狭い盆地に十万の将兵は多すぎる。それに各隊が独自に動いているために、どこが最前線なのか少しも分からなくなっていた。井伊隊の周りには松平忠吉と筒井、細川、加藤、田中の軍勢が密集していた。  直政は精鋭の旗本三百を本軍から抜くと、 「これから物見に出る。行く先は天満山《てんまやま》。ひた走りに走れ」  中山道と北国街道に挟まれた三角地帯の中に二つの小山があった。北天満山と南天満山と呼ばれていた。直政は戦法の常識として、上方勢の主力はこの天満山の間の平野に展開しているに違いないと思っていた。  霧の中を多数の赤い点が走っていく。音は雨露の草葉に吸い込まれてほとんど、聞こえなかった。五町ほど走って、直政は立ち止まった。自分がどこにいるのか、分からなくなっていたからである。その時、前方から黒い甲冑姿の武将が見えてきた。馬上の直政は瞬間、敵かと身構えた。 「山は山」  相手が叫んだ。 「麾は麾」  味方であった。二人の武将が、歩いて直政に近づいてきた。  一人は老年の武将で、六尺ほどの宝蔵院流の十文字槍を小脇に抱えていた。それに奇妙なことに、背中には旗指物の代わりに笹の葉を背負っていた。 「それがしは福島左衛門大夫正則が家臣、可児《かに》才蔵」 「同じく竹内久右衛門」  直政は一瞬拙いと思った。相手が悪かった。よりによって、先鋒である福島隊に遭遇してしまったようであった。言い訳を考えなければならない。 「徳川家々臣井伊兵部少輔直政。これより大物見《おおものみ》に参るところでござる」 「お帰り下され。当家の主より本日の先手を申し付かっておる。これより先は何人といえど抜け駆けは許さぬ、お通しできぬ」  案の定、福島正則の寵臣である可児才蔵は妥協しなかった。 「井伊直政殿、物見にしては大人数すぎませぬか」  才蔵が今にも斬りかからんばかりの形相を見て、竹内久右衛門が助け船をだした。相手は徳川家一の重臣である。不都合が有っては主君に傷がつくと、久右衛門は気を回した。 「それもそうだ。ここに兵は残して置く」  険悪な雰囲気を打ち壊すように、直政は瞬時に答え返した。騎馬武将だけ三十騎ほどを集めると、そのまま馬を走らせた。可児才蔵は徒歩である。止めようがなかった。直政にとって数は問題でなかった。今日の戦に一番槍を突くことでよかったのである。  辺り一面は相変わらず霧であった。直政は、構わずに馬を全速で突進させた。五十間ほど先の小山に薄っすらと幟が見えてきた。旗の紋所は丸に十字であった。それに杉の樹の頂上部分に、枝葉だけが足軽の笠のように残っていた。下枝を払ってその場で本陣の馬標を作る島津家伝統の一本杉の馬標であった。間違いなく、前方に見える陣幕は敵方島津隊の陣所であった。 「鉄砲を構えよ。島津の陣だ」  直政の号令で十騎ほどの騎馬が並列に並んだ。 「放て」  霧の中に乾いた銃声が辺り一面に響いた。直政は、島津の隊士たちが反撃してくる前に馬を自陣に引かせた。この人数では戦うには少なすぎたからである。取り敢えず先鋒の役目は果たしたことで、直政は満足であった。  時は九月十五日辰の中刻であった。ここに関ヶ原の戦の火蓋が切られた。  井伊直政の放った鉄砲に腹を立てたのが、抜け駆けされた可児才蔵と関東勢先鋒を自認する福島正則である。床几からすくっと立ちあがると、 「馬ひけ。懸かれ」  正則は馬に飛び乗ると、脱兎の如く馬を走らせた。 「許せぬ、直政」  可児才蔵は歯軋りして悔しがった。  福島軍の陣鉦、法螺貝、太鼓が狂ったように吹き鳴らされた。霧はいまや消えつつあった。福島隊の先鋒千名は先駆けされた音の方向に向かって突進した。百間ほど前面に宇喜多軍の旗指物、幟が乱立していた。異様な閧の声が挙がり、可児才蔵を始めとする福島の先鋒軍が突撃を始めた。騎馬、足軽千人ほどが一団となって南天満山で待ちうける宇喜多一万七千の陣営に討ち懸かった。  福島隊が泥田の田圃を超えて南天満山に駆け上がろうとした時、小山の中腹から雷のような大音声が発せられた。明石全登率いる宇喜多鉄砲隊千丁の一斉射撃であった。福島隊の前衛の騎馬と兵、数列が一斉に倒れこんだ。  宇喜多隊の銃声音は関ヶ原盆地全域に響き渡った。銃声を合図に水が引くように霧が晴れて、関ヶ原のすべてが見渡せるようになっていた。すぐ近くの笹尾山にいる石田三成は勿論、遠く半里離れた桃配山の徳川家康の耳にもこだました。 「鉄砲が一度しか鳴らぬぞ。なぜだ」  家康は銃声を聞いて、その焦燥感は絶頂に達した。まわりの若い近習たちは、主君の問いに返答できなかった。関ヶ原の戦場に集結した軍団の中で、徳川家だけが実戦を長くしていなかった。徳川家の実戦は、秀吉と戦った遠く十六年前の小牧、長久手の戦で終っていた。  その時家康の馬の口取りが三河弁で横柄に答えた。 「とのよ、戦は始まりましたぞな」 「おぬし、何をもって言うぞ」 「槍合わせが始まったら、鉄砲など撃てるかよ」  すがりと呼ばれた年老いた家康の口取りは、長年、戦場にいて戦を知っていた。 「さらば鬨の声をあげよ」  軍目付けの奥平貞治が音頭を取った。 「えい、えい」 「おう」 「えい、えい」 「おう」  鯨波《げいは》の音が関ヶ原の草原に谺《こだま》した。しばらくして、負けじと上方勢の鯨波が山彦のように聞こえてきた。  最右翼に位置した黒田長政は、相川の手前で兵を止めていた。運良く、石田三成の陣立ての前面に黒田隊は進出していた。霧の切れた先、五町ほど前方の小山に石田軍の白地に黒の九曜紋の幟を見た。そして一段下がった所に、左右に二つの馬防柵が十町ほどの距離で作られていた。  笹尾山の中腹に三成の本陣は置かれていた。山の前に広がった草原に第一陣の蒲生|郷舎《さといえ》の千名が右翼を、同じく左翼は島左近の千名が固めていた。二陣は前野兵庫助と高野左馬助、三陣は大山伯耆と大場土佐、最後尾の四陣は蒲生|将監《しょうげん》、高橋権太夫が守備していた。  天満山方向で銃声が聞こえるや、黒田隊の法螺貝が吹かれた。黒田家も五千の兵を千人づつに分けて先手大将は黒田三左衛門、次鋒後藤又兵衛、三番井上弥太郎、四番菅六之助、殿の大将が黒田長政であった。先鋒の三左衛門は隣の細川隊が仕掛ける前に、島左近の陣所に向かって飛び出した。  いまや全線において、両軍の将兵の激突が始まっていた。時刻は巳の刻に入って空は晴れ上がっていた。関東勢の寄せ手はそれぞれ勝手に相手を見つけて、上方勢に突撃を繰り返していた。功をはやる黒田、細川、加藤、筒井、田中の軍団一万八千は最右翼に位置する石田三成の陣に攻めかけた。寄せ手の客将の誰しもが本音で目指したのは、石田三成の首であった。当然のごとく石田家の陣営には三倍もの寄せ手が押し寄せて、激戦が始まった。  しかし、石田一番隊蒲生郷舎の家臣荻野鹿之助の激しい銃撃と羽箭《うぜん》に阻まれて、関東勢は竹矢来の一の柵までも行けなかった。運良く近づいた兵も、整然と柵から迎え撃つ将兵に蹴散らされた。  石田の兵はなぜか皆強かった。柵から飛び出した先手の荻野鹿之助は、勇敢にも寄せ手の田中勢に向かって一番槍をつけた。田中の雑兵は苦も無く突かれ、斬られ組み伏せられた。  上方勢の中央に位置する宇喜多秀家の一万七千の大軍も、泰然自若として動かなかった。最も強兵と目された宇喜多軍に敢然として立ち向かったのは、福島正則の六千であった。  明石全登が率いる三千の前衛は、福島隊の六千とぶつかっても引かなかった。銃撃は正確で、的確に福島勢を打ち倒した。倒れる味方を飛び越えて攻め寄せた福島勢も、馬防柵から飛び出した宇喜多の槍兵にまた突き崩された。青地に兒の白字の旗が、黒地に白の山道の幟をいつも押し返していた。  石田隊と宇喜多隊の間の陣は島津家であった。島津豊久と長寿院盛淳《もりあつ》が侍大将を務めていた。兵は、遠く薩摩から駆け参じた忠臣たち僅か千名であった。この島津の陣地に、徳川家の最精鋭である井伊直政と松平忠吉、それに本多平八郎の軍勢が、関東勢の先手を追い越して後方から攻めかかった。  上方勢の軍勢の中で一番の強兵は島津の軍団であると、直政も平八郎も感じていた。戦は、わずかな油断から大敗を喫することがある。二人とも、島津軍が少数といえど他家に任せる訳にはいかなかったのである。  島津の赫々《かっかく》たる戦歴は、秀吉の九州征伐や朝鮮の役で実証済みであった。特に二年前の慶長三年、日本勢を朝鮮から撤兵させるために、わずかな兵数で明と朝鮮の連合水軍を泗川《しせん》で打ち破り、敵の名将|季舜臣《りしゅんしん》を戦死させていた。それを知っている細川、加藤、福島、黒田、藤堂など朝鮮出兵組は、誰も島津隊に向かって本気で撃ちかかる者はいなかった  案の定、状況は厳しく、徳川勢は天満山の山裾の小高い台地に陣した柵にも取りかかることができなかった。島津勢は一人として木柵から出てこなかったが、近づくと必ず数十の兵士が撃ち倒された。  声もなく静まりかえった島津陣に、徳川の寄せ手は怖気づいていた。今は誰一人として、柵に取り付こうとする足軽も武将もいなかった。徳川先鋒大将の松平忠吉は地団太を踏んで、前線に飛び出そうとした。 「忠吉殿、いまは攻めるは匹夫《ひっぷ》の勇なり。ここはお待ちくだされ」  井伊直政が必死になって忠吉を止めた。忠吉が攻めかかれば、これ幸いと島津は全軍を挙げて忠吉の首を討ちに掛かる恐れがあった。戦が始まったばかりの序盤に、万一、徳川から兜首を献上することになっては、負け戦につながることになる。直政も平八郎もまだ動けなかった。  左翼に位置する大谷吉継、義治、木下頼継、戸田重政、平塚為広の五千を攻撃したのは、藤堂高虎と京極高知の五千であった。京極と藤堂隊も、大谷勢の先鋒隊の戸田、平塚勢のわずか千五百の兵に押されていた。林越しに小川祐忠、脇坂安治らの旗差物が不気味に乱立していた。藤堂高虎はもし約束を違えられて横腹を突かれれば、あっという間に自軍が崩壊する不安があった。強気で前には出られなかった。  唯一、戦場の喧騒から除外されていたのが小西隊の六千であった。小西行長は、島津と宇喜多勢の中央後方に二の陣として待機していた。戦機を見て押し出す予定であった。  関東勢も小勢の古田織部、織田有楽、金森長近、生駒一正らは二陣として、後方で待機中であった。当然、家康本軍三万の旗幟も動かず戦況を傍観していた。  半刻があっという間に過ぎていた。三成は笹尾山の本陣から前線を見渡していた。間違いなく、命がけの死闘が目の前に展開していた。正直いままで、これほどの近さで矢玉が飛ぶ場所に身を置いた経験はなかった。しかし、今の気持ちに恐怖感は少しも感じられなかった。どちらかと言えば、誇らしい安心感であった。それは、石田家の将兵がどの家中よりも目覚しく戦っていたからである。長年戦では役に立たないと、多くの大名から卑下された屈辱感を一気に晴らしている感じであった。  朱色の三尺天衝兜に浅黄色の陣羽織を着て、麾を振り上げながら先頭で馬を走らせていく武将が遠眼鏡に映った。島左近清興であった。島隊千は黒田家の三陣までを崩して、三町ほど押し戻していた。敵は、幅三間ほどの相川の向こう岸まで後退しているようであった。  右翼では、前野隊がやはり細川勢を相手に優勢に戦っていた。前野兵庫助も華麗に馬を駆って、自軍を激励していた。細川勢の馬印「有」の字が下がるたびに、両脇の加藤と筒井隊もずるずると後退していた。  細川忠興は自兵に下がるなと叱咤していたが、陣立てが崩れないように防ぐだけで精一杯であった。嫡男忠隆自身も前野勢と斬り合っていたが、警護の馬廻りの侍たちに回りを取り囲まれ後退させられていた。  三成は勝てると思った。三陣の大山|伯耆《ほうき》の軍勢が朱の丸三個の旗差物を立てて、細川隊に向かって丘を下っていくのが見えた。三成の兵は後一陣を残すだけになっていた。兵が足りない。毛利と小早川の加勢が山を下る間、まだ戦っていない島津隊を前線に出そうと三成は考えた。  すぐに、老臣の八十島《やそじま》助左衛門を使番として呼んだ。 「敵が崩れ始めている。島津勢に攻めかかれと申せ」 「狼煙を上げよ。黒と緑だ」  毛利勢と小早川勢に出撃の狼煙を指示した。空は伊吹山の頂上までも見える快晴になっていた。風のない笹尾山の頂上から、黒と緑の煙の柱が空に向かって高く昇っていった。これなら南宮山の吉川、安国寺達も見逃すことはないと三成は安心した。しかし松尾山の頂上付近には一品の赤旗が紅葉のように乱舞していたが、少しも動いていなかった。  八十島助左衛門は旗本の磯野平三郎と入江権左衛門を連れて矢玉を避けながら、笹尾山の裏手から五町ほどの距離を馬を走らせて島津の陣にたどり着いた。 「石田三成の使番、八十島助左衛門でござる。島津の御大将義弘殿にお取りつぎ下され」  磯野と入江はすぐに馬を降りた。しかし助左衛門は騎乗のまま大声で叫びながら、島津の柵門を通ろうとした。数人の武将が馬の前に立ちはだかり、助左衛門を止めた。 「降りられい」 「合戦中だ。火急の口上ゆえ、このまま参る」 「降りられい」  同じ言葉を発したのは、島津の先手大将である山田|有栄《ありなが》であった。島津の軍法では、馬を下りずに当主に目通りすることは戦陣中でも許されなかった。 「馬を止める暇があるなら、敵に討ちかかられよ。まだ戦わぬのは島津だけぞ。怖気づいたか」  八十島助左衛門の悪口に有栄は助左衛門の右腕をすばやく掴むと、そのまま関節をにじって地上に叩き落した。助左衛門は馬上から簡単に落とされた恥ずかしさと恐怖で、今度は言葉が出なくなった。  去勢を張って立ちあがった助左衛門は、何も言わずにまた馬に跨がった。 「すぐ敵に討ちかかられよとの、殿よりの口上でござる。申し伝えた」  馬上から素っ気無く再度、口上を述べると、そこから馬腹を蹴って助左衛門は駆け去った。 助左衛門の家臣磯野平三郎は、同僚の入江権左衛門にあわてて叫んだ。 「そなたはここにいて、島津との使番を頼む」  磯野は入江を島津の陣所に残すと、すぐに助左衛門を追った。しかし助左衛門は石田の本陣ではなく、そのまま北国街道を西に駆け去って行く。 「八十島殿、どこへ行く。本陣は右でござるぞ」  磯野の大声も聞こえないかのように一目散に駆けていった。平三郎は気がついた。八十島助左衛門は戦場から逃げようとしていたのである。仕方なく平三郎は馬を止めた。軟弱な臆病者を追いかけている状態ではなかった。逆に馬上で、三成に報告する台詞《せりふ》を考えていた。 [#ここから2字下げ] 関ヶ原八十島かけて逃げ出でぬと 人には告げよあまり憎さに [#ここで字下げ終わり]  死を前にして狂歌を創っているようでは不謹慎かと思ったが、聞いた三成の渋くなる顔を思い浮かべると、笑顔が一人でにこぼれた。  空と雲は高かった。さわやかな秋の日が関ヶ原に訪れていた。南宮山までは干戈《かんか》を交える音は聞こえなかった。しかし間違いなく、黒と緑の狼煙がいま伊吹山の麓に立ち上がっていた。  安国寺惠瓊はその時になっても、三成との肝心な約束を果たしていなかった。黒色の狼煙は毛利軍への出動命令であることを惠瓊自身がまだ吉川広家に話してなかった。  しかし、狼煙を見て逆に惠瓊は諦めた。今使番を送っても広家は毛利勢を動かさないだろう、という読みであった。それは、南宮山の毛利勢の布陣を見れば一目瞭然であった。もし戦う気が有れば、このような所にいつまでも滞陣しているはずはなかった。それに、後方の栗原山の長宗我部軍も兵を動かしていなかった。  多分、家康は毛利勢の同心を見て兵を関ヶ原に進めたに違いない。あの狭い盆地で奇襲されたら逃げ場がないぐらい、僧侶の惠瓊でも理解できた。この状況を打開する手は一つしかないように思えた。それは安国寺隊自身が、前面の浅野幸長と池田輝政の軍勢に先鋒として撃ちかかることであった。しかし、敵は両軍合わせて一万の大軍である。自軍はわずか千八百である。一人では戦うすべがなかった。  自分は侍ではない。あくまでも軍監にしか過ぎない。島津勢のように釣野伏《つりのぶ》せの戦法で自分が囮《おとり》になり、毛利軍を引きずり出すほどの能力も自信も当然なかった。それができるならとっくに自分が天下を取っていると頭の中で理屈をこねくり回していた。しかし、時間の猶予は許されなかった。取り敢えず、惠瓊は使番を吉川広家のもとへ送った。  毛利家の軍監である吉川広家の所には長宗我部盛親、毛利秀元、長束正家からの使番、物見がすでに度々、指示を仰ぎに駆けつけていた。広家の本陣からは関ヶ原が遠望できなかったが、狼煙が数本空に上がったところを見ると、間違いなく東西の軍勢が死闘を始めていることを察することができた。  目の前に見えるのは南宮山から中山道の出口を防いでいる池田軍の揚羽蝶と、その左手後方に浅野軍の白と金の柄弦《えづる》の旗差物であった。このまま全軍に命令して前面の敵に駆け下れば勝てるという、長年、戦地でとぎ澄まされた戦感を吉川広家は感じていた。  しかし広家は一言、 「しばし待て」  誰が注進に来ても、床几に座ったまま同じ言葉しか発しなかった。  戦闘は一刻以上続いて、時刻は午の刻に入っていた。  いまや、すべての陣営で将兵が目前の敵と入り乱れて戦っていた。後方で戦を見守っていた関東勢の古田重勝、織田有楽、金森長近、生駒一正らの二陣も、島津と宇喜多の間に布陣していた小西行長の陣に向かって攻めかかっていた。  唯一、関ヶ原でまだ戦闘に参加していないのは徳川本軍三万と、上方勢では松尾山に布陣した小早川秀秋の一万六千と、その麓の藤川沿いに待機している脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保の四千の兵士だけであった。  桃配山の家康の本陣には心地よい風が幔幕を抜けて、付近の樹林の葉を揺らしていた。戦の干戈の音がなければ、鷹狩に絶好の日よりとも思えた。家康は横手に置かれた机の上の作戦図を眺めながら、親指をまた噛み始めていた。使番と物頭からの報告を聞く限り、戦況は関東勢にとってかんばしいものではなかった。  家康の居る場所からでは前線が遠すぎて、よく将兵の動きが見えなかった。戦況を有利にする手立てを探さなければならなかった。前方近くに見える「本」と書かれた旗差物を見ながら、叫んだ。 「本多平八郎を呼び戻せ。それから奥平貞治を呼べ」  しばらくして、十九女池《つくもいけ》の前線にいた本多平八郎が自慢の鹿角の黒兜を被って、家康の前に現れた。 「平八郎、どうする。このままでは、松尾山が気になって動けぬぞ」  長い戦歴で家康の見る目は鋭かった。右翼の黒田、細川隊が石田勢に押されているのも気になったが、一番懸念されるのが左翼であった。福島隊は宇喜多勢と戦うのに必死で、少しも余裕がなかった。最左翼で大谷勢と戦っている京極、藤堂隊は五千に満たない軍勢である。今、松尾山の小早川秀秋率いる二万近い一団が山を降りて討ちかかれば、左翼は簡単に崩壊すると思われた。それに、後方の毛利の軍勢がまた気になった。二万を超す軍勢が黒田長政の言では手合わせを休めると聞いていたが、それも、この関ヶ原の戦況次第ではいつ変心するかわからない不安があった。  本多平八郎も主君家康の意味する所を知ってうなずいた。 「殿、この際思いきって前へ出ましょう。ここにいては遠すぎまする」 「かれらが打ち懸かってくるのではないか」 「前衛が崩れてからでは遅すぎまする」  忠勝の作戦は、総大将の家康を最前線に出すことによって、逆に悪戦苦闘している客将たちを安易に引かせないことを考えていた。もしも友軍のどこかが崩れた時の備えと最後の詰めに徳川三万の本軍は温存しておかなければならず、いずれにしろ徳川の本隊は前線にはまだ出せなかったからである。  家康の背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「殿、松尾山から戻って参りました、斎藤利光でござります」  驚いた家康は振りかえった。そこには間違いなく、清洲城から天海と一緒に京へ旅立った利光が立て膝で控えていた。 「利光、どうした」 「小早川秀秋はいまだ、どちらに付くとも決めておりませぬ。計略が必要かと」  その言葉に家康は利光の方に顔を寄せた。利光は家康の耳元で小声で話し始めた。黒い大きな目が輝いた。暫く思案した後で大きく首を縦に振った。 「貞治、そちは利光と共に松尾山の秀秋の所に即刻参り、当方に味方させよ」  家康は、側に控えていた軍監の奥平貞治に大事を公言した。貞治も、小早川軍が上方勢に加勢すれば今以上に戦が厳しくなることは、言われなくても分かっていた。しかし、どうやって寝返りさせるのか見当もつかなかった。  黙っていると、家康の癇癪《かんしゃく》が爆発した。 「何をしている。はよう行かんか」  貞治はあわてて一礼すると、斎藤利光の先導で本陣から駆け去った。すぐさま徒士侍を五十名と騎馬侍十騎、それに鉄砲隊を二十名率いて出発した。  一行は桃配山の麓を迂回して十九女池の手前から鳥頭坂《うとうざか》の牧田路に入り、藤川沿いに松尾山を目指した。近くに敵兵はいないものの回り道をした結果、松尾山まで半刻はかかりそうに思えた。  次に家康は毛利勢の押さえとして、中山道に配置した後陣の山内一豊と有馬則頼、豊氏親子の三千に関ヶ原の左翼に廻れと使番を走らせた。小早川勢が攻め始めた時の押さえが必要であったからである。しかし、本陣を前進させる勇気は家康にはまだなかった。それから午の中刻頃まで躊躇し続けた。  最初の局面の変化は、右翼の島左近と黒田長政の戦いから始まった。黒田家の二十四将はそれぞれ力戦し、お互いの隊と隊がぶつかる度に兜首を必ず挙げていた。  後藤又兵衛は石田家の侍大将大橋掃部を運良く見つけて名乗りを挙げた。赤毛黒尾の馬に乗って、黒糸縅の鎧に十文字の槍を提げた勇壮な大橋の姿は、相手にとって不足はなかった。二人は騎馬上で槍を突き合い血闘を続けたが、最後は組合って地面に倒れ落ちた。又兵衛の方が一回り身体が大きく力も強かった。大橋はとうとう組み敷かれて、頸を切られた。  先手大将の黒田三左衛門も、石田隊の足軽頭の村山理介を討ち取っていた。しかし、劣勢は隠し様もなかった。何時の間にか戦線の黒田勢は相川から押し返され、一刻を過ぎてもまだ川を渡れずにいた。  黒田長政はまた馬上で焦っていた。こんな筈ではない。思った以上に石田勢は手強かった。兵士は、死ぬことを少しも恐れていないようであった。死を超越した戦士に死の恐怖を感じている兵が何人懸かろうと勝てはしなかった。いまや島左近の突撃は、黒田家の兵士にとって鬼神の如く逃げ惑う対象になっていた。 「六之助、誰か横手に回って、あの島左近を撃て」  正攻法ではなかったが、いまは恥も外聞もなかった。このままでは、黒田隊が崩壊しそうであったからである。  四番隊長菅六之助は鉄砲組頭の青木一左衛門を呼ぶと、早速、五十名ほどの腕利きの鉄砲隊を作らせた。そして、相川の上流に向かって徒歩で密やかに上らせた。  馬柵が開くと馴染みの朱色の三尺天衝き兜に浅黄色の陣羽織を着た島左近が、また雷のような大音をあげて十字槍を振り回しながら押し出してきた。兵数は五百を超しているようであった。黒田勢は川岸で恐怖を抑えながら身構えた。  島左近率いる騎馬の一隊が相川沿いの小山の麓を駆け去ろうとした時、鉄砲の一斉射撃の音と土煙が近くで上がった。相川山と呼ばれる小山の草原に潜んだ黒田の鉄砲隊であった。弾丸はすべて一騎に集中して斉射された。先頭を走っている馬が前足を折って、首から地面にぶつかった。そして、その騎乗武将が鞍からゆっくりと崩れ落ちた。すぐさま回りの騎馬侍も急停止して、鞍から飛び降りると慌てて落ちた武将に駆け寄った。脇腹から鮮血が噴出していた。側の草が見る間に赤く染まった。  両軍とも同時に、撃たれた武将が石田家の重鎮島左近であることを知った。左近は味方の将兵たちにいま一度替え馬の上に担ぎ上げられると、鞍の両側を騎馬に支えられてそのまま自陣に向かって走った。引き鉦《がね》が打たれ、全員が退却し始めていた。  黒田長政は瞬間的に声を挙げた。 「かかれ、攻めよ」  大将の音頭で黒田隊の全員が奮起した。我先と相川を渡り、石田軍の馬柵に向かって突撃し始めた。一瞬の間に攻守が逆転していた。  自然と石田軍は馬柵の中に引き揚げていた。それに代わって黒田、細川が勢いを盛り返し、加藤と筒井の軍勢が横手から応援に回っていた。  黒田長政の麾下伊丹兵庫は、引き下がる石田勢の安宅作右衛門と戦った。しかし安宅の槍に突き伏せられて、背中に乗られた。それを見た黒田三左衛門は大声を出して、再度名乗りを挙げて槍を突き出した。安宅は無念の内に腹を突かれて、その場に倒れ伏した。それでもよそ目から見れば石田軍が退いて戦の始まる状態に戻っただけで、関東勢が勝ち軍になったわけではなかった。  田中吉政の一隊も再度、石田隊の蒲生郷舎の陣に向かって突撃を恐る恐る始めていた。恐れていた鉄砲の銃撃はなぜかなかった。田中吉政の甥である田中総兵衛はそのまま柵内に飛び込み、鉄砲頭の田中権太夫を斬り倒した。中村釆女は弓長の佃宗右衛門と戦い、それをし止めていた。  石田隊が押されていても、すぐ横手の島津隊は相変わらず動かなかった。前線に出た吉政はいま自分の側面を島津に攻めかかられるかと思うと、考えるだけで冷や汗がでた。しかし奇妙なことに、島津隊は誰も柵の中から出てこなかった。  島津義弘は本陣の中で、床几に座ったまま微動だにしなかった。己の兵は千名に満たない。しかし、この大軍が右往左往している戦局の間に、家康の首を挙げる機会が必ず訪れる。それを辛抱強く義弘は待っていた。侍大将の島津豊久と長寿院盛淳も御大将の意思を聞かずとも同じ考えであった。枝葉末節な局地戦は最初から無視していた。  家康は遂に痺れを切らした。戦局は午の刻を過ぎようとしていたが、さしたる変化はなかった。どの大名も攻め手を欠いていた。家康は、本軍を戦線に投入しようと決断した。南宮山からも松尾山からも、まだ何の知らせもなかった。  もはや毛利も小早川も動かないと判断してよいと、覚悟を決めた。家康は、本陣を中山道に沿って半里ほど進ませた。ちょうど徳川先鋒の井伊直政が陣を敷いていた所まで直進した。  そこは間違いなく関ヶ原の中心地であった。逃げ隠れは絶対にできない場所であった。前面には両軍の将兵が入り乱れて戦っていた。そしてその先に石田、島津、小西、宇喜多の幟が風にはためいているのがよく見えた。家康は緊張感で身が引き締まった。  一方、石田三成も笹尾山の本陣でいらついていた。島津に使番を出した八十島助左衛門は、一刻を過ぎても帰ってきていなかった。島津勢は相変わらず兵を動かさずに、柵内にこもったままであった。  鉄砲傷を受けた島左近は一命を取り止めたものの、出血がひどく動けない重傷であった。いまや、笹尾山の柵の外側は敵方の将兵が溢れていた。何とかせねばならないと思った時、視界の切れる松林の中に葵の紋に白旗がなびく新しい陣を見つけた。  三成は瞬間的に、それが家康の本陣であることを直感した。これで家康との雌雄を決することができると、初めて侍としての勇気が全身に満ちた。 「国友から運んだ大筒を用意せよ。目標は前面の田中、黒田の兵に向けよ」  三成は凛とした声で、大筒の頭である大場三左衛門に命じた。自領の鉄砲鍛治専門の国友村で特別に造らせた一貫匁大筒、三門であった。  突然、天地を切り裂く大音響が関ヶ原に谺した。最初の砲弾が、右翼の田中吉政軍の中央で炸裂した。砲筒の中に突き固められていた鉄丸、鉛玉が一町四方に飛散した。その円陣の中の人馬はことごとく打ち倒され、阿鼻叫喚の情景が出現した。  第二弾は黒田隊に飛翔した。長政は、あやうくその弾丸の着弾地から逃れた。三発目は田中隊を大きく飛び越えて、その背後の生駒隊に着弾した。大将の生駒一正は臆面もなく、「退け、退け」と喚き叫んだ。わずか三発の大筒で、寄せ手はまた後退して大きく引き始めていた。  三成は大筒の威力に感動するとともに、生まれ変わったように戦機を見つけていた。いまや石田方の前面には大きく穴が空いたように、動いている人馬は誰一人として見えなかった。 「前野兵庫助と大山伯耆、それに大場土佐を呼べ」  三成は人生最後の瞬間に、文官から武人の侍大将に変身していた。 「あの先に見えるのが家康だ。そなたらの兵はまだ疲れておらぬ。全軍を率いて突撃せよ」  呼ばれた前野以下の三人は感激していた。三人とも、きしくも羽柴小一郎秀長に仕えた馬廻黄|袰《ほろ》衆十三人の同輩であった。早くして亡くなった秀長への厚い忠誠心が、今は石田三成の死を賭けた忠義に繋がっていた。  家康は右翼前面の寄せ手が脆くも崩れるのを見て、怒りが頂点に達していた。この手で小憎らしき三成の首を掻き切ってみせると、年甲斐もなく興奮した。 「本陣を進めよ」  金扇の馬標《うまじるし》は右に大きく迂回して北国街道に入った。石田三成の本陣まであと五町もない場所で家康は陣を止めた。家康と三成の意地が、二人をお互いに顔を見合わせる距離まで近づけていた。しかし、その時点で家康はまだ三成を過小評価していた。  石田軍の馬柵が数カ所、同時に開かれると、騎馬の一団が笹尾山から一直線に家康の本陣に向かって黒い矢のように進み始めた。その後を徒士の兵士千名ほどが続いた。すぐに、家康本陣の旗本である酒井忠次の千名がその前面を防御した。  回りの将兵が気づく間もなく、石田の先手大将前野兵庫助が酒井忠次の軍団に激突した。また、その戦闘に周囲の目が吸い寄せられている時、石田軍の後衛から大山伯耆が率いる一団が右手に飛び出し、家康の本陣の横手を目指した。  馬上の大山から家康の陣幕が見えたと思った瞬間、横手から徳川の一隊が現れ前面の道を塞いだ。本多平八郎の一隊五百であった。  家康の眼前で真の決闘が始まった。どちらも引かなかった。血しぶきが、あたり一面の草原を赤く染めた。徳川旗本の服部仲は、襲いかかる何人もの石田勢を家康の目前で食い止めていた。しかし石田と徳川以外の将兵は、誰もその血戦に入ろうとしなかった。  半刻後、多勢に無勢、いつしか兵庫助、伯耆、土佐の声も聞こえなくなっていた。石田隊は、家康を討つ最後の機会を独人で戦い力尽きていた。  家康は石田勢の猛攻を支える平八郎や忠次の働き振りを見ながら、左右に目を巡らしていた。島津隊が動いたら危険だという恐怖感であった。しかし島津の十字の旗は動いていなかった。  同じ時、その戦い振りを反対側の斜面から見ていた島津義弘は、静かに独り言のようにつぶいやいた。 「治部少輔、遅かったな」  三成が今少し戦の麾を振ることを早く覚えていたらという、同情の念であった。それに今、戦術として島津勢が家康を攻めたら、その首を挙げることはできるかもしれなかったが、徳川三万の囲みから逃げ出すことは叶わないと思われた。義弘には、島津家の興廃を賭ける大義がそこに見えなかった。  そのころ、徳川軍監奥平貞治と斎藤利光の一行は松尾山の麓に到着していた。麓から見上げる山並に、まだ小早川家の三頭巴の旗は止まったままであった。安心すると同時に関ヶ原の中心では戦が詰めに入っている雰囲気を感じ、二人とも焦りが出ていた。しかもこの戦の渦中、家康の使番といっても、小早川の兵士が自分たちを通してくれるかどうか、奥平貞治には不安であった。それに、このまま後半刻も戦が続けば、関東勢から裏切りがでるかもしれなかった。また南宮山の毛利が動けば、形勢がどう転回するか分からなくなると思った。  その時「伍」の字の袰《ほろ》をなびかせて、徳川使番の騎馬が近づいてきた。 「山上郷右衛門だ」  使番の山上郷衛門は目ざとく奥平たちの一団を見つけて、丘を駆け上がってきた。 「殿はお怒りでござる。小早川家が当方に味方せねば、鉄砲を撃ち放てとのきつい命令で」  家康にとって石田三成の息の音を止めるためには、小早川家の去就を知らなければ総攻撃の命を出せなかったからである。鉄砲の射撃は完全な踏絵を強要していた。それで秀秋が徳川に歯向かえばそれでよし、動かなくてもよしと開き直っていた。 「左様か」  奥平貞治の声は震えていた。ここで鉄砲を放てば、小早川軍は一気に我らを踏み潰すことは間違いなかった。ことさら戦を見合わせるという秀秋に銃を向けて、性根を知るためだけに威嚇するという主君の決断に疑問を抱いた。 「本当に撃てとおっしゃったのか」  今度は利光が問いただした。わずか二十挺の銃の引き金を引くことで徳川家の興廃を決めることになるかと思うと、躊躇せざるを得なかった。しかし時間の猶予がなかった。主君に忠実な貞治は、鉄砲頭の布施孫兵衛に射撃の準備を命じた。鉄砲隊の兵士たちはすぐさま、火薬と弾丸を詰めた早盒《はやごう》を銃筒に差しこんだ。 「奥平殿、お待ちくだされ。ここは計略が必要かと」  斎藤利光が貞治を引き止めた。 「昔、備中高松での戦の折、小早川隆景が秀吉を逃がすために、黒田隊の殿に小早川家の旗を立てさせたと聞きました。昔に習って、石田の旗をここに立てさせましょう。さすれば、石田が小早川を裏切ったと思うはず」 「われらを石田の者に見たてる所存か。しかし石田の旗はどうする。手に入れると言っても難儀じゃぞ」 「かような事もあるかと存じて、伊賀者に主だった大名の旗を集めさせておきました。殿にも先ほど、この件ではお許しを頂いております」  貞治が回りを見渡すと、何時の間にか小荷駄や具足櫃《ぐそくひつ》がいくつか側に置かれていた。利光が箱を開けると、そこには真新しい白地に幾旒もの九曜紋の旗が種々たたまれていた。  利光の奇策に貞治は感じいった。石田の鉄砲隊が小早川軍に撃ちかければ、多分、小早川秀秋は激怒して逆に味方の石田勢に攻めかかると思われたからである。 「よし。ここは、われらだけの秘密じゃ。利光、旗を立てよ」  利光はすぐさま数人の徒士に命じて徳川の葵の紋の代わりに、石田の白旗を丘の一番高い所に立てさせた。そこから十町も離れていない小早川の陣の足軽たちは、何が起きたのか分かっていなかった。 「小早川中納言金吾の陣に向かって、放て」  鉄砲組頭の布施孫兵衛の声があたりに響いた。矢楯を抜けた数発の弾丸が足軽を撃ち倒した。しばらくして再度、一斉射撃の音が松尾山に谺した。  肝心の当主の小早川秀秋は本陣の小屋に入ったまま、朝から一度も顔を見せていなかった。相変わらず二人の家老は黙ったまま、その入口で待っていた。黒田家から前夜、人質として送りこまれた大久保猪之助が、近くでやはり不安気に立ちすくんでいた。  東西両軍はもう二刻以上戦っていた。力の限界であった。もしどちらかにつくとすれば、いまが潮時であった。 「頼勝、どちらが優勢か」  急に小屋から、酒に酔った秀秋が赤い顔を出して問いただした。もともと、どちらにも味方しないという自分の方針を気に入っていた。戦わなければ誰からも叱られずに済むという、単純な子供心であった。 「どちらとも、ただ、徳川の本陣近くでかなりの人馬の動きが急でござります」 「家康も口ほどでもないな。昼飯が終っても、戦が片付かぬとは」  そう言うと、また小屋の中に入ってしまった。秀秋の判断は的確であった。関東勢は七、八割の軍勢がすでに戦場で戦っていたが、上方勢はまだ半数も参戦していなかったからである。  突然、頂上付近の本陣にも鉄砲の発射音が聞こえた。伝令の注進が矢継ぎ早に、平岡頼勝と稲葉正成のもとに届けられた。 「石田の鉄砲隊が当方に撃ちかけております」 「なに、石田だと。間違いないか」  頼勝は困惑した。なぜ、味方に撃ちかけるのか。戦を見合わせていることで、徳川方に通じたと思われたのか。  一方、稲葉正成はその報告を不審に感じた。石田隊はここから一番遠い笹尾山に陣を敷いている上、徳川方の武将と激戦を繰り返している。その最中に、使番もなく急に撃ちかけてくるとは考えられなかった。しかし、正成はその疑問に口を閉じた。  外が騒がしいのに気づいて、当主の小早川秀秋が小屋から出てきた。 「何事だ」 「麓の石田家の鉄砲隊が当方に撃ちかけてきております。足軽数人が負傷したという報告が」  頼勝の返答を聞いた秀秋は、瞬間的に眉間に立皺を寄せた。 「何とな。治部の兵がわが軍を攻めたと。許せぬ。頼勝、すぐに山を降りてその者どもの首を挙げよ」  秀秋は、相手が三成の兵と聞いて逆上した。その剣幕を見て、頼勝も頭を下げるしかなかった。このまま山を降りて石田勢に打ち掛かれば、完全な寝返りである。豊臣家の正嫡ともいえる秀秋がはたしてこのような一時の感情で動いていいものか判断できなかった。しかし、これで戦局は一気に関東勢が有利になることだけは間違いなかった。家康は裏切りの恩賞をどう考えるだろうと、頼勝は思った。 「何をしている。それがし自ら山を降りる」  秀秋の異常な激昂を見て、頼勝と正成はすべてを諦めた。なぜなら、その原因が主君の奥深い心の襞《ひだ》にあることを見抜いていたからである。  そして秀秋本人もまた、今日までの心の不安が何から生まれていたかを知った。慶長の役で朝鮮在陣中、急に太閤秀吉から名護屋城に呼び戻された日がその自信喪失の発端であった。  それまでの秀秋は弱冠十七歳の日本軍総大将として全軍の指揮を取り、その采配は各大名の注目の的であった。しかし秀吉が見たこともない恐ろしい形相で、今にも自分を殺すかのように部屋中に響く大声で叱責した時、義父への愛情は霧散した。そして太閤の叱声が終った時、筑前、筑後三十八万石の領土が越前十二万石に減封されていた。  朝鮮で敵兵を自ら斬ったことでなぜそのように叱られるのか意味が、全く分からなかった。しいて負け戦の不都合に大将として責任があるとすれば、それはもともと秀吉が命令したこの無謀な戦そのものに問題があると、若い秀秋は黙って下を向いて反発していた。  秀秋も眼下で必死に戦っている上方勢に寝返ることは好ましいこととは思わなかったが、秀吉や秀頼、まして三成にはもはや何の義理も感じていなかった。いまは、朝鮮で果たせなかった鬱憤と屈辱を晴らす機会が到来したと考えていた。 「わが敵は石田三成ぞ、馬曳け」  秀秋は、君主といっても器用に馬を繰ることもできた。いまや小早川軍一万六千の各侍大将には、使番を通して攻撃命令が伝達されていた。松野|主馬《しゅめ》、杉原重治、村山越中、伊岐真利、滝川出雲らの武将であった。  松野主馬は先手の頭《かしら》であった。しかし主君の伝令を受けて不審に思った主馬、は何度も使番の石垣宇之助に問い正した。 「おぬし、先ほど鉄砲を撃ったのはあそこに見える兵だぞ。石田の旗が立つ前は徳川の葵の旗が立っておったが、おかしな奴らだ。騙されているかもしれん。おぬしの命令を聞く前に、わしが行って確かめる」 「主馬《しゅめ》殿、殿直々の命令でござります。早く軍勢をお進めくだされ」  二十歳に満たぬ小姓の宇之助に重臣の松野|主馬《しゅめ》の説得は端から無理であった。主馬《しゅめ》の抵抗に仕方なく心細い顔をしながら、また山頂に急いで馬を返した。  松尾山の麓に、主馬が率いる千五百の鉄砲隊が出口を塞ぐように鎮座していた。その軍団が動かない限り、後続の兵団は山を降りられなかった。兵が動かないのを知って、しばらくしてから稲葉正成が駆け下りてきた。 「主馬、なぜ兵を動かさぬ。敵は上方勢ぞ」 「この期におよんで徳川になびくのは、忠義に反するぞ。正成」  三十一歳ながら小早川家筆頭家老の稲葉正成に、老練な主馬が意見した。 「いかにも。しかしながら主君が命じた以上、我らは主君の忠義に反することはできませぬ」  正成が苦しそうに弁解した。 「しかし奴らの素性を確かめてからでも、兵を動かすのは遅くあるまい」  五十町ほど前方に、鉄砲を撃ちかけた一団が見えた。石田家の旗指物がなぜか不自然であった。 「それがしが、治部少輔の存念を確かめてまいる」  正成も、誠に石田の兵が小早川を敵として撃ちかけてきたのかどうか、自分の目と耳で確認したかった。もし彼等が石田勢でなければ、末代までの恥じになる危険性があった。家臣が止めるのを制止して単身、正成は馬を敵の集団に向かってゆっくりと歩ませた。  一町ほど手前で馬を止めると、 「それがしは小早川家々老稲葉正成、御手前らは石田家の家中と見受けるが、何故、味方の当方に撃ちかけるのか」  正成は、稲葉家の大馬印である赤布の袰《ほろ》を背にしていた。その声を聞いて、やはり一騎の騎馬侍が近づいてきた。二人が目を見合わせた瞬間、正成が叫んだ。 「おぬし、利光ではないか」  利光が松尾山を去ったことを知らなかったので驚いた。 「正成殿、わが主君は家康殿でありますが、じつの主君はお側衆の天海僧正であります」 「して、それが」 「元わが主君、明智光秀の仮の姿でござります」  正成の驚愕した顔は、兜の中の面頬を通しても隠せなかった。 「なんと、明智光秀が存命と申すか」 「主君の敵は秀吉であります。かって小早川家の当主隆景は備中高松で秀吉を逃して、天下を取らせたお人。輪廻は繰り返すと申します。小早川秀秋殿は家康殿に天下を取らせるために生まれたお方と、それがしは信じております」  正成は絶句した。光秀が生きていたとは、天地が動転する話であった。かって光秀の忠臣であった斎藤利光は小早川秀秋をして、豊臣家を護持しようとする大名たちと戦わせようとしていた。もし隆景が存命でこの場におれば、今度は秀吉への遺恨を晴らす戦いをし掛けるかもしれないと思った。正成は暫く考えた後、大きく頷いた。 「それがしも美濃の生まれ、光秀殿にお味方しよう」 「有りがたきお心差し。これで、晴れて父利三のもとに参れます。いざ、攻め懸かって下され」  正成は軽くまた頷くと、馬首を自陣に向けた。小早川の隊に戻った正成が後ろを振りかえると、今一度、鉄砲が小早川軍に向かって放たれた。それを合図に、稲葉正成は麾を大きく振った。 「敵は目の前の石田勢、懸かれ」  強く高く法螺貝が吹かれた。軍旗が大きく振られ、勇壮な出陣太鼓が叩かれた。ついに小早川の精鋭一万六千、正確には松野主馬の軍団以外が動きはじめた。  斎藤利光は小早川軍が動くのを見て、満足げに奥平貞治に言った。 「奥平殿、ここは私が務めます。すぐにお逃げくだされ」 「利光、ここで逃げては、殿に天下を取らすことはできぬ。斬って斬りまくるだけだ。心配するな」  貞治はすでに、討ち死にする覚悟を決めていた。戦が終る頃には当然、自分はいない。しかし徳川家が天下分け目の戦に勝ち、小早川秀秋が寝返ったという事実だけが歴史に残ればよいと、素直に達観していた。  利光は、大軍が攻め掛かってくる前のわずかな静寂にひたっていた。思い出されるのは、とうとう会えずじまいになってしまった妹お福の面影であった。 「福、許せよ」と心で泣いて、腰の脇差を抜いた。  それから斎藤利光、奥平貞治、山上郷衛門、布施孫兵衛らの一群が、小早川軍の黒い流れの中に覆い隠されるのにさほど手間は掛からなかった。   裏切り  小早川軍は何事も無かったかのように石田家の鉄砲隊を殲滅《せんめつ》すると、松尾山の麓を左手に折れ上方勢の最右翼側に位置する大谷軍に向かって進撃した。  藤川を渡ると、戦わずに待機している大谷軍の与力である脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の軍勢の背後を通り、大谷吉継の本陣がある藤川台を目指した。先鋒の指揮は、松野主馬に代わった平岡頼勝であった。  藤堂、京極勢と戦っていた大谷軍の侍大将平塚為広は、松尾山を降りた小早川軍の異常な動きにすぐに気がついた。平塚は、癩病で見えなくなった吉継に代わって大谷軍の指揮を取っていた。すぐに戦っている兵を引かせると、向かってくる小早川軍に備えた。思いたくもない最悪の状況が目の前に起こりつつあった。馬廻りの一人を呼ぶと、小早川軍の変心を伝える使番を大谷吉継の許に走らせた。  小早川裏切りの報告はすぐに、藤川台に陣を敷く大谷刑部吉継のもとに届けられた。吉継は兜も甲冑も身に纏わず、ただ直垂の上に白の小袖を着て顔を同じく白の絹布で包んでいた。完全な死装束であった。そして、いつでも動けるように板輿の上に座っていた。  使番の報告を聞きながらも、少しも表情を変えなかった。 「義治と頼次に、小早川に討ちかかれと命じよ。それに脇坂、小川らには、背後より挟み撃ちにせよと伝えよ」  吉継の長男義治と次男木下頼次の二千は、まだ戦闘に参加していなかった。何が起きるか分からない戦と戦前から感じていた吉継は、自兵の旗本を温存していたのであった。自軍が二千、それに与力の四千強の兵を投入すれば、小早川が裏切っても押し返せると考えていた。  両軍の先鋒同士が藤川を挟んで激突した。大谷隊の鉄砲が激しく、川を越す小早川軍に向かって撃たれた。小早川軍は戦意がなかった。すぐに進軍は止まった。逆に大谷軍が川を渡って押し返した。その中でも、平塚為広と戸田勝成の奮戦は目覚しかった。わずか数百の兵で、槍を振り回しながら数倍の敵の中に突入して入った。  平岡頼勝は自軍の不甲斐なさに呆れながらも、兵を引かざるを得なかった。すでに、五十人ほどの味方が討たれていたからである。その時、頼勝は右翼の赤地に白抜きの輪違《わちが》いの旗が動き始めたのを見た。  脇坂安治の軍勢千名ほどが横手から、平塚と戸田の軍勢に突っ込んでいた。脇坂軍の寝返りであった。すぐに、脇坂の隣に陣を敷いていた朽木元綱の部隊六百も合流していた。形勢はその瞬間、大海の潮の流れが変わるように、四方から関東勢が大谷隊を囲み始めた。その接点である大谷義治と木下頼次は、元気を取り戻した藤堂、京極隊だけでなく、後衛から上がってきた金森長近、織田有楽、古田織部、それに有馬豊氏、山内一豊の部隊とも戦うはめになっていた。  急に目の前に現れた脇坂の将兵を見て、平塚為広は激怒して怒鳴った。 「逆心か、甚内、汚いぞ。お前は死ぬまで貂《てん》か」  為弘は同じ秀吉の馬廻りで、甚内と呼ばれた昔からの脇坂安治を知っていた。朋輩と言え明智家を裏切り、今また自利の為に豊臣家を平気で裏切る、浅ましい畜生のような気質の安治を許せなかった。貂は脇坂安治の馬標であった。  馬上の為弘は、腰に巻いた打飼袋《うちかいぶくろ》を解いて地面に捨てた。中から一巻の巻物を取り出すと、側の小姓にそれを渡した。そして兜をその場に捨てると、髻を切り髪をざんばらにして、笠標も捨てると、身元不明の侍に変身した。身を隠しながら脇坂安治と小早川秀秋を探して、愛用の十字槍で討ち果たすつもりであった。供回りを制すと、為弘は敵軍の中に単身乗り込んで入った。  戸田軍の三百の兵も、乱戦の中で次々と命を落としていた。その中心で戦っていた戸田|勝成《かつしげ》は、疲れきって槍を落としてしまった。すぐにその槍を拾おうとした隙に敵兵に刺された。そして、たまたまそこを通りかかった織田有楽の息子長孝に首を討たれてしまった。 「戸田武蔵守勝成さま、討ち死になされました」  本陣の大谷吉継の許に悲報が続々ともたらされた。関ヶ原の草原は二刻を過ぎて、松尾山の麓から上方勢の隊列が崩れ始めていた。それと期せずして、草原の上に雲の影が幕を引くように、黒く走っていく。日は黒雲に消えて、辺りが急に暗くなっていた。  脇坂、朽木の寝返りに続いて、小川祐忠、赤座直保の隊も節操なく豊臣家を裏切っていた。今は敵となった二万の寝返り勢を前にして、一度|綻《ほころ》びた隙間を埋めることは不可能であった。  いつか平塚為広も脇坂安治を追い求める内に、力尽きて武運つたなく、山内一豊の家臣樫井庄兵衛と壮絶な格闘の後、討ち取られていた。  その頃、大谷の本陣に、平塚為広の辞世の巻物を小旗持ちの湯浅五助が届けた。そして、吉継の前でたどたどしく読み上げていた。 [#ここから2字下げ] 名のために捨てる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば [#ここで字下げ終わり]  吉継はそれを感慨深く聞いていた。前夜、万一のことを考えて為広が書き残したものであろう。為弘に歌を返そうと、吉継もまた死を前にして一句詠んだ。 [#ここから2字下げ] 契りあれば六つの巷《ちまた》に待て しばし遅れ先立つことはありとも [#ここで字下げ終わり]  しかし、返歌を返す暇はもはやなかった。 「五助、味方はいかほどか」 「二、三百ほどかと」  目が見えなくても、事態がどうなっているか、吉継にはわかりすぎるほどわかっていた。いまや、本陣の前に見える大谷勢は一割にも満たなかった。 「そろそろ、わしは腹を切るが、若い者には落ち延びよと伝えよ」  この関ヶ原で負けても、豊臣勢にはまだ大坂城がある。秀頼殿が大坂城におられる限り、まだこの戦は終るとは思えなかった。今は一人でも多くうまく逃げおおせて再起を計って欲しかった。 「五助、首は敵に渡すな。三成にも、すぐ落ち延びよと申せ」  吉継は腹を切る瞬間になっても、三成を応援したことに悔いはなかった。武士といえど所詮、自利の為にしか生きられないのが世の中の定めと達観しながらも、わが身一人でも秀吉の為にその命を賭けて忠義を果たしたという心地よい満足感であった。 「五助、頼むぞ」  吉継は頭に被った白布を取り去り、小袖の襟を引き揚げて腹を出すと、そのまま青みがかった白刃を腹に刺しこんだ。  五助はこれ以上、主君を苦しめたくなかった。吉継が腹に刺さった脇差を返す間もなく、五助太刀が吉継の頸に打ち込まれた。五助はきれいに地面に落ちた生首をその白布で包むやいなや、小脇に抱えて脱兎の如く中山道を京に向かって走った。  誰にもこの首は渡せない。涙を流しながら叫んでいた。 「殿、おれと一緒に敦賀《つるが》に帰ろう。もう、こんな戦はまっぴらじゃ。帰りましょう」  一方、戦場の最左翼は奇妙な静寂に包まれていた。時刻は午刻を過ぎて、未刻に入ろうとしていた。徳川の本陣まで攻め寄せた石田勢の大半は、その手前で無惨な屍をさらしていた。  家康は石田軍前野兵庫助らの最後の猛攻を交わしてほっとした時、軍監の奥平貞治と使番に出した山上郷右衛門がまだ松尾山から帰ってこないことに気がついて苛立った。左翼の小早川勢の動向がわからない内に、石田軍への総攻めの命はまだ下せなかった。  勝負が決まって死を覚悟した相手と戦うには、おざなりでは殺せない。相手と同じ真剣な気持ちで戦わない限り最後の詰めはできないことを家康は、長年の経験で痛いほど感じていた。決して気は抜けなかった。そこに、使番の大久保助左衛門が息を切って駆けつけてきた。 「殿、小早川軍が大谷勢に向かって攻めかかり、大谷の与力、脇坂、朽木らも当方に味方して寝返っております。ただ」 「どうした」 「奥平貞治、山上郷衛門、布施孫兵衛、それに斎藤利光殿、いずれも討ち死になられました」  家康は爪を瞬間的に噛んだ。死を賭けて彼等は小早川秀秋を寝返らせたのかと思うと、無性に悔しかった。秀秋が寝返ったことの嬉しさよりも、その為に無二の家臣が死んだことの方が悲しかった。  しかし、小早川金吾中納言秀秋の寝返りは、関ヶ原の戦場の兵士たちに稲妻の速さのように広がっていた。狂喜したのは関東勢の足軽、雑兵たちであった。まさか太閤の連枝《れんじ》が本家を裏切るとは、考えられない事態であった。その理由を推し量る前に誰しもが、これでこの戦は勝ったと思った。  一方、上方勢の将兵は全身から戦う力が抜けていった。誰の為に一死を賭けて戦っていたのか。豊臣家に対する恩義からではなかったのか。太閤秀吉の甥が豊臣家を自分自身で見捨てるとは、狂気の沙汰だった。小早川軍の寝返りは、多くの兵士に戦う大義を無くさせた。語るまでもなく、戦場から後ろを見せて離脱し始めた。  上方勢の中で最初に崩れ始めたのが、小西行長の軍勢であった。六千もの兵を持ちながら、小西勢は伏見城攻めから関ヶ原まで一貫して戦う気のない軍隊であった。なぜなら、大将の行長に正直その気がなかった。小西軍団は朝鮮の七年間に渡る戦争で、その精気をすべてすり減らし使い果していた。  当時、秀吉はなぜか小西行長を日本軍攻撃の一番隊に指名した。常に先頭に立った小西軍は独り、平壌まで進出したこともあった。秀吉の死後、釜山浦から撤退した日本軍最後の一兵は小西軍であった。行長は充分、生前の秀吉に義理を果したと思っていた。三成のように、秀吉亡き後までも豊臣政権を存続させる気力はもはや残っていなかった。  いずれにしろ小早川勢が寝返ったと聞くやいなや、小西軍の多くの将兵が旗を捨てて北国街道を西に向かって逃げ始めたのである。行長も、敢えてそれを止めなかった。小早川が寝返り、毛利が動かない戦で家康に勝てる訳がないと、諦めきっていた。いずれにしろこの戦いは仕切り直しだと、冷静な行長の頭は考えていた。  この上は、大坂城までできるだけ無傷で帰ろう。将兵が我先と目の前から逃げ去って行く姿を見ながら、行長自身は床几に座ったまま動かなかった。一言、三成には立ち去る挨拶をしなければならないと感じていたからである。  一方、一番の貧乏くじを引いたのが戦場中央の宇喜多隊であった。右の大谷隊が玉砕し、左隣の小西隊が逃げ去った結果、宇喜多秀家の部隊だけが関ヶ原に残ったことになったからである。侍大将の明石全登も、戦況の急展開に唖然としていた。  いまや孤軍奮闘の宇喜多隊目掛けて、関東勢全員が押し寄せてきているようであった。午前中から戦っている福島、本多、井伊隊は勿論、有馬、藤堂、京極、寺沢、生駒、金森、山内らの新手に大谷勢を打ち破った寝返り組の小早川、脇坂、朽木、小川までが加わっていた。 「殿、戦はこれまででござる。お引き下され」  明石全登は、南天満山の八幡社の境内に置かれた本陣に駆け戻ると、総大将の宇喜多秀家に撤退を進言した。すでに二千人以上の死傷者が出ていた。 「ならん。馬を曳け。これより人非人《にんぴにん》、秀秋の首を掻っ切って参る。あの子倅、許せぬ」  秀家は憤って床几から立ち上がると激しく大声を出した。豊臣家の嫡子でありながら寝返るとは、到底信じられない暴挙であった。豊臣家を潰してまで、家康の家臣としてひれ伏す発想は、名門の秀家にはとても考えられなかった。 「お怒りはごもっとも。しかし、いま参れば死にまする。ここは、再起を期して大坂城までお引き下され」  全登の言うように、今まで雄雄しく戦っていた宇喜多の黒地に白餅三つの旗差物が潮の引くように後退していた。旗、幟が捨てられ、消え去っていくのが遠望できた。躊躇している秀家の馬の轡《くつわ》を取ると、 「進藤三衛門、殿を大坂に間違いなく案内せよ」  嫌がる秀家を二十騎ほどの馬廻り衆が取り囲むと、伊吹山を目指して駆け去った。時刻は、未の刻に入ってからまだ四半刻もたっていなかった。  全登は残った将兵たちを集めた。最後の突撃をするつもりであった。それに、できるだけ主秀家の追手を阻止する時間を稼ぎたかった。目の前に集まった兵は二千も残っていなかった。しかし、全登はそれで充分だった。いまや、敵の方が死にたくないと思っているからであった。宇喜多の兵一人が敵方の三人に匹敵した。  笹尾山の石田三成本陣もまた静まりかえっていた。前方から、ひたひたと関東勢が押し寄せていた。敵兵はいまや隊列も崩れて、各家臣がばらばらに入り乱れていた。戦の結末が見えた瞬間どの将兵も兜首を探して、野良犬のように戦場をうろつき始めたからである。すべての寄せ手が、いまや石田三成の本陣に向かって進んでいるようにも思えた。  三成も、小早川軍の寝返りを目の当たりにして放心状態であった。いまは何と強弁しようと、負け戦を認めざるを得なかった。本陣で最後の麾を取っているのは蒲生郷舎であった。  郷舎は床几に腰掛けたまま動かなかった。近くには、やはり蒲生家から三成に招聘《へい》された侍大将の北川平左衛門、蒲生将監と高野左馬助、それに生き残っている石田家の主だった武将が集まっていた。青木市左衛門、渥美孫左衛門、小幡信世、千田釆女、水野庄次郎らであった。郷舎の息子の蒲生大膳と島左近の子島信勝もその中にいた。撃たれて出血多量で動けなくなった左近は、昼前に戸板で佐和山城に向けて移送されていた。  三成には腹心の阿閉孫九郎、中島宗左衛門、森九兵衛の姿が見えなかった。三成が秀吉の近習でまだ五百石取りの時に、その扶持《ふち》全部を出して召抱えた忠臣の渡辺勘兵衛の姿も見えなかった。いずれ百万石の城持ち大守になれた時には十万石を与えようと約束したことが、空しく思いだされた。 「殿、ここは負け戦でござる。潔くお引き下され。敵をそれがしが防ぎます。磯野平三郎、殿を取り敢えず佐和山城までお連れせよ」  郷舎が悠然として、諭すように伝えた。 「相わかった。必ず今一度、再起する。それまでの辛抱だ、許せよ」  三成は恥も外聞もなく、そのまま馬に乗った。このままでは死んでも死にきれないと、思ったからである。十騎ほどの騎馬が笹尾山を逃れる三成の後を追った。  三成が去った後、蒲生郷舎は静かに部下たちに告げた。 「これより家康に石田家の戦い振りを見せるによって頑張れや。しかし、命は惜しめよ」  郷舎は戦に負けたといっても一時のことであり、できるだけ多くの将兵に生き帰って再起を期して欲しいと心から考えていた。残された石田軍の千名ほどが最後の突撃を試みた。すでに与力の伊藤盛正と織田信高らは逃げ去って、影も姿も見えなかった。  石田軍の必死の反撃に、寄せ手の雑兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。しかし関東勢の猛将たちは、良き戦い相手を探しだすまで引き下がらなかった。戦場のあちらこちらで死闘が始まった。  半刻ばかりの間に石田家の武将たちは力尽きて、次々と討たれていった。東新太夫は加藤嘉明の家臣原甚兵衛と槍を合わせて討死に、服部新左衛門は福島正則の臣石川貞政に討たれた。黒田三左衛門は、蒲生家から高禄で召抱えられた勇将の一人である蒲生将監を激戦の中で討ちとっていた。  星兜に緋縅の鎧を着た島左近の嫡子信勝は、藤堂高虎の甥玄蕃と出会った。すぐに組討して若年ながら大剛の玄蕃を組み敷いて、その頸を掻き切った。しかし、そこに駆け寄った玄蕃の郎党の山本平三郎なる者に背後から槍で刺され、信勝は父の名に恥じずに絶死した。  蒲生郷舎も馬に乗り戦場に繰り出した。敵兵を何人斬ったか、何時の間にか愛馬が深手を負って動けなくなっていた。徒歩立ちになった時、敵の大将織田|有楽《うらく》に遭遇した。郷舎は大声で有楽を呼びとめると、太刀でその高股を斬って馬上から落とした。有楽は、恐れおののいて逃げ出し始めた。  郷舎が追うと、数十人の郎党どもが必死になって立ちはだかった。二人ばかりを切り倒したが、背後から槍で突かれて地面に倒れたところを討ち取られてしまった。  蒲生郷舎の子大膳はすでに兜首を挙げていたが満足せず、最後の力をしぼって敵の中に駆け入ろうとしていた。しかし使番から父の死を聞くと、諦めたように辞世の歌を詠んだ。 [#ここから2字下げ] まてしばし我ぞ渉りて三瀬川 浅み深みも君に知らせん [#ここで字下げ終わり]  大膳はそのまま二度と笹尾山に帰ってこなかった。  関ヶ原の修羅場と好対照に、南宮山の将兵たちは無聊《ぶりょう》を囲っていた。二刻が過ぎて、大坂方のどの軍団も戦場に打出す機会を逸したと感じていた。吉川広家の言い訳を聞くまでもなく、長束正家、安国寺惠瓊、毛利秀元、毛利勝長もこれから単独で死地に押し出して戦うほどの勇気はなかった。各隊の物見から持たらせられる報告は、いまや完全に上方勢の不利を伝えるものばかりであった。小早川秀秋の寝返りを聞いてからは、各隊とも逃げ支度が始まっていた。  吉川広家は顔には出さなかったが、内心してやったりと思っていた。毛利勢を出陣させなかったことで三成が負けて、これで家康に貸しを作ることができた。大坂城に帰ってから、家康が自分に感謝する顔が浮かんだ。広家は急に殊更《ことさら》いかめしい顔をつくって、 「全軍に告げよ、陣払いをして大坂城に戻る」  南宮山の木々を通して、山に法螺貝の音がこだました。  その音と旗指物が動くのを見て一番焦ったのが、栗原山を降りて中山道の垂井近くまで進出していた長宗我部盛親の軍勢六千であった。動かない長束、安国寺隊を追い越して敵方の池田、浅野勢と顔を見合わせる距離まで前進していたからである。兵を引けば、これ幸いと敵は追撃してくるに違いなかった。  家老の吉田政重と吉田康俊は憤然として、毛利勢らの遠い引き鉦を聞いていた。 「えい、いまいましい。戦わずに引くとは。康俊、わしが殿《しんがり》を引き受けるによって、そなたは盛親殿を連れて大坂城に早う戻れ」  政重は覚悟を決めた。池田輝政、浅野幸長の一万の兵達は本戦に加われなかった不満を、まず一番先にこの長宗我部軍に向けてくるだろと推察したからである。政重が予想した通り、逃げ帰る長宗我部軍は兵の大半を失う破目になった。  未の上刻、石田軍を始めとして上方勢は崩壊して、殆どの兵とその旗幟は関ヶ原に見えなくなっていた。寄せ手の兵達はようやっと戦が終ったと知って、その場所で腰を下した。命を失わなかったという安心感が余計、疲労感を倍加させて、身体を動かせなくなっていたからである。思い思いにうずくまり、ひっくり返り、黒くなった空を見上げていた。武将たちも、馬を降りてまた草原に腰を下した。誰しもが、島津の丸十字の幟だけがまだ戦場に残っているのに気がついていた。しかしそれも戦が終ったことで、どの将兵にとっても無視する存在でしかなかった。島津は降伏する支度でもしているのだろうと、気にも留めなかった。  空が暗くなり、雲が低く垂れ込めているのに気がついた時、一陣の強風と同時に大粒の雨が降り出してきた。死んだ将兵の涙雨のようであった。杉木立の中、奥まった社の前で島津家総大将島津義弘と副将の島津豊久、長寿院盛淳、それに山田有栄と新納旅庵が立ったまま話し合っていた。 「いかがする。戦にならぬ戦になってしもうた」  義弘にとって敗戦したことよりも、豊臣家の小早川秀秋が寝返ったことが驚きであった。島津家の武士道には、戦の最中の裏切りという行為はなかった。 「一度、大坂まで戻りましょう」  甥の豊久三十五歳が諦めたように言った。長寿院盛淳と新納旅庵もうなずいた。 「仕切り直しをするか。しかし、このまま後ろを見せて逃げると思われるのも恥さらしだ。家康の馬前を通って帰ろう」  義弘が、さらりと白い歯を見せて笑った。瞬時に豊久は、その意を汲んで大きく兜を振った。それは戦いながら引く、島津家お得意の捨て奸《がまり》の戦術を示唆していた。  一本杉の馬標が切り倒された。そして島津の陣営の柵が開かれると、先備えの島津豊久の騎馬を先頭にすべての将兵が一筋の線になって飛び出してきた。馴染みの旗差物はなく、大坂方の袖の合印もなかった。朝鮮で石曼子《しまんず》と明軍《みんぐん》に恐れられた島津軍勢の再来であった。人数は千名にも満たなかったが、その迫力と気勢は一万もの軍勢に匹敵する勢いであった。殿は長寿院盛淳である。義弘の姿は軍団の中に紛れて見えない。  前面の田中勢と福島勢が、その気勢に押されて自然に道をあけた。どの将兵も止める勇気はなく、驚いてただ通過するのを見送るだけであった。難なく前衛の部隊を通りぬけた島津勢は、そのまま直進して家康の本陣を目指した。  まさかと、誰しもが思った。この期に及んで徳川の本陣に攻めかかるとは、気狂い沙汰であった。家康は、島津の黒い集団が自分に向かってくるのを見て床几から立ちあがった。顔面が蒼白になるのが自分でもわかった。石田勢の突進の時と、その恐怖感が違っていた。  驚いて前面に立ちふさがった井伊直政と松平忠吉の軍勢に、早くも右備えの山田有栄が槍を突きかけた。 「早く、あの者たちを討て」  家康の大声が本陣に響いた。その声を待つまでもなく、同じ様に顔色を変えたのは旗本の本多平八郎であった。三千ほどの兵士がすぐ、家康の本陣の前に槍衾を作った。  島津勢の多くの将兵が、槍の代わりに短筒と馬上筒の銃を所持していた。先鋒の島津の騎馬隊が徳川軍と遭遇しても、その進撃速度は変わらなかった。島津の部隊は走りながらも、立ちはだかる相手を正確に打ち倒していた。今まで見たことのない新しい戦の光景であった。  徳川の厚い隊列が裂けて、島津の軍勢が現れてきていた。家康は恐怖のあまり言葉もなく、立ち尽くすだけであった。  長柄を持った先頭の豊久は、二町ほど先に葵の紋所の陣幕を見た。偶然にも、道を遮る者はなかった。あの中に間違いなく家康は居る。このまま全軍で突っ込めば家康の首を獲ることができると、豊久は確信した。 「叔父御、打ち申すか」  豊久は後ろを振りかえり、義弘を探すように大声を出した。義弘も、目前の家康の本陣に気がついていた。 「捨て置け。国に帰らねばならぬ」  義弘にとっては、ここで家康の首を刎ねても、島津の利になるとは思えなかった。それよりも、家康の心魂を寒からしめることで島津家が立ち行くことの方が大事に思えた。  豊久はすぐに義弘の魂胆を理解すると、殿軍の長寿院盛淳に先鋒に廻るよう指示した。義弘は麾を大きく振ると、右手前方を指した。それは牧田街道に出る方角であった。  直進すると思われた島津の軍団が、家康の本陣のすぐ前で大きく右に旋回して横切っていく。走る方向は、桃配山と松尾山の山間の鳥頭《うとう》坂を目指していた。家康はとっさの事で何が起きたかわからずに、数百の騎馬と将兵が一町ほどの目の前を通り過ぎるまで呆然と立ちすくんでいた。馬蹄の跳ねる泥土が、自分の顔まで飛んでくるようであった。  その瞬間、家康は激怒した。島津義弘の意図を知ったからである。 「誰か。あの者どもを討ち取れ」  ここで島津勢をこのまま逃がしては、自分が小牧、長久手の戦で負けた秀吉の立場になって、一生、島津には頭が上がらなくなる。  すぐさま前線を抜かれた井伊直政と松平忠吉、それに本多平八郎の部隊が慌てて後を追いかけていく。彼等にとっても恥辱であった。何としても島津全員を討つと、直政は馬上で真剣になっていた。徳川旗本の名誉を賭けた壮絶な追撃戦が始まった。  殿《しんがり》になった島津豊久は追いつかれる度に、その場で踏みとどまった。そして数十の兵士が、その楯になって斬り死にしていった。鳥頭坂の手前で、最後尾の殿軍の一団がその前後を包囲された。このままでは、皆討ち死にをしてしまう。豊久は、当主義弘の身代わりになる覚悟を決めた。  緋色の猩猩《しょうじょう》の陣羽織を着た豊久はそのまま馬を返して、追手の軍団に駆け入った。後を十騎ほどの家臣が追った。  豊久は、徳川家中最精鋭の本多平八郎の軍団に囲まれた。奮戦するも本多隊の長槍が四方から繰り出され、豊久の身体は宙に舞った。馬上から落ちた身体に、寄せ手の武者が群がり集まった。兜がすぐに取られた。 「違うぞ」  星兜の下から現れた顔は、凛々しい若武者の死に顔であった。  その間に、井伊と松平の部隊が本多隊を追い越して烏頭坂を駆け上った。坂の頂上から、五十人ほどの島津の一団が駆け下りていくのが見えた。 「あれが義弘ぞ、逃がすな」  井伊直政は大声で叱咤した。ここで義弘を逃がしては、関ヶ原の戦もすべて無駄になると思った。  今はまた殿になった長寿院盛淳は、後ろを振り返った。坂を数百の軍団が、喚声を挙げながら駆け下りてくるのが見えた。盛淳は、今度は自分の番だと思った。 「殿、お別れにその陣羽織を下され」 「わしもすぐに参る」  盛淳は大きく兜を横に振った。 「殿はどんなことがあっても、薩摩に帰らねばなりませぬ。どげんことがあっても、殿を国許に連れてまいれ」  盛淳は、側の忠臣|中馬《ちゅうま》大蔵に厳しく言い渡した。ここでもし当主が討ち取られれば、島津家がなくなると案じたからである。無理やり義弘から大鳳凰の刺繍の陣羽織を受け取ると、すぐに甲冑の上からその袍《わたいれ》を纏った。盛淳は主人の身代わりとして死ねることで、薩摩武士の面目を果たすことができると思えた。  最後の騎馬団が結集した。十五騎であった。全員、鉄砲に玉を込め直した。盛淳たちの突撃は三度に渡った。 「島津維新、推参」  大声で敵の囲みの中に駆け入ろうとした時、盛淳の眉間を一発の銃弾が撃ち抜いた。陣羽織の大鳳凰が、一瞬空に飛び上がっていくかのように馬上から消え去った。  また影武者によって邪魔された井伊直政と松平忠吉は、先頭で馬を並走させていた。直政は完全に激情していた。先頭の義弘の一団は、牧田川を越えて伊勢街道に入ろうとしていた。もし栗原山にまだ上方勢が残っていたら、義弘を討ち逃すことになると焦りが生じた。  牧田川の手前で馬を止めた。大きな石が川原一面に広がり、道は消えていた。馬の早足で、その川原を駆け抜けることはできなかった。直政が道を探そうとして下を向いた瞬間、乾いた銃声が一発こだました。  鋭い痛みを右肘に感じた。銃声の音の方向に、一人の薄汚れた武士が肩膝を着いて座っていた。それと同時に、二人の島津兵が草陰から太刀で斬りつけてきた。抵抗する間もなく、右の太股を切られて直政は落馬した。背後の馬廻りの家臣が、驚いて島津の敵兵に向かった。  二人はそのまま一目散に川原を抜けて、対岸の山林に駆けこんで姿を消した。斬りつけた武士は、島津の陣営に残った石田家の家臣入江権左衛門であった。いま一人は、島津の侍大将山田有栄であった。  徳川の大将井伊直政を撃った柏田源蔵という若武者は逃げ遅れて、供廻りと斬り合いになっていた。直政の負傷を知って激昂した松平忠吉も、その斬り合いに参加した。剛の源蔵は死を忘れて、大将の忠吉に向かって大上段に刃を振り落とした。抜刀流の切れ味鋭く、忠吉の柄をかすった。忠吉は、右手を切られて刀を落とした。しかし源蔵はすぐに供廻りの武者に囲まれて、壮絶な討ち死にを遂げた。  二人の徳川の大将が重傷を負って、追手の徳川勢の前進が止まった。  黒雲が立ちこめあたり一面が暗くなると、すぐに激しい雨が降り始めた。雨の白い滝に消されて、もはや島津兵の人影はどこにも見えなかった。本多平八郎は、手傷を負った忠吉と直政を本陣に送り返すために引き貝を吹かせた。帰路、この無様な負け戦を何と家康に報告しようかと平八郎は悩んでいた。  その間、島津義弘は馬と具足を捨てて、牧田川の渓谷に沿って伊勢路の駒野を目指して下っていた。疲れきった義弘を急造の板輿に乗せて、中馬大蔵ら最後に残った十数名の家臣が代わる代わるに担いで付き従った。豊久を初め多くの家臣を死なせた悔いで、義弘は終始無言であった。   勝 鬨  関ヶ原に本降りの雨が落ち始めていた。雨しぶきの中で動いているのは武具を集め死体を片付けけている黒鍬者《くろくわもの》と落武者狩りの集団だけであった。  どの将兵も我に帰った後はその雨の冷たさで身体中が冷え切り、強烈な空腹感に襲われていた。しかし雨足が強く、火を起こせる状態ではなかった。仕方なく生米を水に浸して、ふやけるのを待つしかなかった。  家康は兜を締め直すと、本陣を藤川台に移すことにした。藤川台は大谷吉継が陣を置いていた場所で、雨をしのぐに適当な陣小屋が有ったからである。日は暮れかかり、小屋にはすでに灯が点けられていた。  家康の本陣が藤川台に移ったことを知った関東方の主力武将たちが、得意満面と参賀の言上に次々と現れた。最初に黒田長政、次に福島正則が駆けつけた。特に織田有楽は、戸田勝成と蒲生郷舎を討ち取っていただけに自慢気であった。  しかし、肝心の家康の顔は少しも冴えなかった。戦に勝ったと言っても、上方勢の大将は石田三成を初め、皆逃げ果《おお》せていたからである。誰からも、敵方大名の兜首は運ばれてこなかった。討ち死にしたという大谷吉継の首もなかった。逆に徳川方は、松平忠吉と井伊直政が重傷を負っていた。それに、本日の勝ち軍の隠れた功労者である奥平貞治と斎藤利光の姿は当然見えなかった。 「各大名に申し上げる。主だった敵将が大坂に立ち戻る前に、至急召し捕られよ」  家康は大声で威嚇するように、顔を見せた大名に同じ言葉を発した。確かに宇喜多秀家、石田三成、小西行長、島津義弘、安国寺惠瓊、長束正家ら敵の首謀者は誰も捕まっていなかった。 「金吾中納言はどうなされた。村越茂助、中納言を連れて参れ」  家康の言葉に、側の黒田長政はしまったとばかり腰を浮かした。迂闊にも自分の功労のみを考えて、今日の主役であった小早川秀秋のことをすっかり忘れていたからであった。  しばらくして松尾山から、平岡頼勝と稲葉正成に先導された小早川金吾中納言秀秋が月毛の馬に乗って家康の小屋に現れた。金の竜頭の兜を被った華やかな甲冑の出で立ちは、平家の公達《きんだち》を彷彿させるものであった。しかし、馬上の秀秋は酔いが覚めたように青い顔つきで、悄然として家康からの叱責に怯えていた。それは、豊臣家の連枝である自分がいの一番に豊臣家を裏切った卑劣感からきていた。  家康は、兜を着けた正式な甲冑姿で床几に座っていた。秀秋は家康を見ると、土間の濡れた泥土の上に両手をついてひれ伏した。家康が義父秀吉に思えたからであった。  家康は笑顔で兜を取ると、床几から立ち上がって秀秋の手を取った。 「金吾殿、立たれい。本日の勝利は、そこもとのご決断の賜物でござった。家康、心より礼を申す」  思いもかけない言葉に、秀秋はまじまじと家康の顔を見た。青白い顔が急に明るくなっていた。側に控えていた黒田長政や福島正則らの客将は、秀秋のあまりの軟弱さに失望していた。全員がその瞬間に、時代がまざまざと豊臣から徳川に変わったことを感じさせられていた。小屋の外には同じく寝返った脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱が控えていた。 「しかし、戦はこれからが本番でござる。明日より、先手として佐和山城を攻めて頂く。脇坂、朽木、小川、赤座の四家を与力としてお付けする」  家康の言葉は急に冷たくなっていた。石田三成の本城を自ら落とすことで臣下の礼を取らせようとする家康の魂胆が、はっきりと二人の家老には感じられた。  その夜、小早川軍は松尾山から北国街道を佐和山城に向けて進発した。秀秋の心は、裏切りから敗軍の将のような屈辱感に苛まされることになった。一方、家康は藤川台の宿営で死んだように眠りこけた。  翌朝の九月十六日、石田三成の兄|正澄《まさずみ》とその息子右近は関ヶ原の敗戦を知り、石田勢の落人を収容するために北国街道を手勢千名で東進していた。しかし三成の行方は知れず、主だった武将の姿も見えなかった。逆に物見の報告により、小早川軍を先頭に数万の軍勢が佐和山城を目指していることを知らされた。正澄親子は切歯扼腕しながらも、仕方なく兵を佐和山城に戻さざるを得なかった。  その日の夕刻には、家康の本陣が彦根の平山に置かれた。平山からは佐和山城のある山並が続き、その頂きの一番高い所に本丸がそびえ建つのが眺望できた。城を最初に取り囲んだ先手の軍勢は、小早川秀秋と田中吉政の二万の兵であった。  城内では三成の父正継そして兄弟の正澄と右近、それに正室藤子とその父宇田頼忠と土田東雲斎らの家臣が集まっていた。 「今はもはや遁れる場所もない。籠城の手配をされたし」  正継の提案に、誰も首を横に振る者はいなかった。本丸は正継、右近、頼忠と息子惣次郎らの千余人が守備し、二の丸は河瀬織部とその登り口になる水の手は河瀬左馬助らの五百人が、三の丸と大手門へ通ずる懸り尾の坂口は山田上野之助と息子隼人、土田東雲斎の三百名が守ることになった。  その頃、黒田長政は佐和山城を通り越して誰よりも先に中山道を上り、一路、大坂を目指そうとしていた。内々家康の家臣斎藤利光らの奇策によって小早川秀秋が土壇場で上方勢を裏切ったことを聞いて、長政の心中は穏やかでなかった。秀秋が寝返ったから良いものの、そうでなければ今ごろ関東勢はどうなっていたか、考えるだけで冷や汗がでた。  この上は再度、吉川広家を通じて、大坂城の毛利輝元を調略しなければならないと思った。家康への心証を良くしなければ、目的の恩賞と加増は叶わないかもしれないという、また訳のわからない不安に取りつかれていた。その夜、長政は吉川広家への密書の作成に血眼を上げた。 [#ここから2字下げ] 吉川侍従殿 此度の戦を見合わせ候の段 毛利家本領安堵内府殿には相違あるまじく候 この上にもまして御忠節相究め候わば祝着至極に候 [#ここで字下げ終わり]  この書状は間違いなく吉川広家から毛利輝元に回状されると、長政は自信を持って封を閉じた。しかし、万が一にも大坂城に上方勢が立て籠もる恐れは、やはり内心消えなかった。無傷の毛利は勿論、立花、長宗我部、鍋島、それに島津の加勢が籠城されたらと思うと、家康ならずとも心は穏やかでなかった。  翌日早朝より小早川家の真の武威を家康に見せるためにも、平岡頼勝と稲葉正成は寄せ手の先鋒として佐和山城の坂口に取り付いて真剣に攻め上がった。関ヶ原では主命に反抗して戦わなかった松野主馬も、今回は仕方なく参加していた。しかし石田三成が丹精込めて築城した城だけに、容易に落とせる城構えではなかった。  城屏から撃ち出される激しい銃弾に先手の三百名ほどが谷底に撃ち落された。玉薬、弓矢等の武具は充分に備蓄されているようであった。稲葉正成はすぐに兵を引かせると、鉄砲除けの竹楯を数百作らせるまで攻撃を控えざるを得なかった。  一方、搦手門に通じる水の手の登り口は峻険な山道で、なおかつ武者が三人も一緒に通れない細道であった。田中吉政の軍勢も、河瀬左馬助隊の鉄砲で多くの死傷者を出していた。しかし多勢で無理押しして、ようやくその日の夕刻に二の丸の城屏の下まで攻めあがった。  三の丸の手前まで前進した小早川軍も、日が暮れて攻撃を中止した。寄せ手はその場所で夜営になった。  その夜、冷たく冴えきった三日月を背に、三の丸から城兵が百五十名ほど抜け出した。石田家を裏切った長谷川右兵衛が率いる足軽、雑兵らであった。小早川秀秋は、降参して城中に敵兵を引き入れるという裏切り者の命乞いを稲葉正成から聞いて、あらためて自分の取った行動に身の斬られるような屈辱を感じていた。  静かに更け行く佐和山城内ではどの将兵も無言で、明日の最後の戦いに石田家と運命を託そうと考えていた。千にも満たない兵数で籠城の継続は無理であった。三の丸では、守将の山田|上野《こうづけ》之助と隼人《はやと》が二人きりで話し合っていた。隼人は二十五歳になり身の丈六尺二寸、力は三十人力と言われるほどの豪傑であった。 「隼人、この城も明日一日の定めとなった。口惜しいが殿がいない今、城を枕に討ち死にすることにする」 「父上、私も喜んでお供つかまつります」 「待て。わしは三成殿には恩顧を受けている身ゆえ自害するつもりだが、まだ石田家がすべて滅んだ訳ではない。殿は必ずどこかに隠れて、再起を計るつもりでおられるはず。その時に、そなたの力は役に立つ。明日は、適当な時に八郎殿を連れてこの城を去れ」  隼人には思いもがけない父の言葉であった。八郎は石田三成の次男で、まだ五歳であった。  確かに三成殿の性格から見て、一度の戦で負けたからといってすぐに腹を切られるような短慮なお方ではない。父の言うように、ここは八郎殿を連れて城を落ちることも、石田家にとっては必要なことかもしれないと思い直した。 「残念ながら、承知いたしました。必ずや殿を探して、この恨みをお晴らし申します」 「多分、石田家の奥方はじめご一統も生害なされると思われる。しかし汝は生き延びて、皆の菩提を弔ってくれ」  上野之助は腹蔵なく自分の思いを息子に告げると、安心してその場で眠り始めた。身体は今日一日の激戦で石のように疲れていた。  翌九月十八日、空は爽快に晴れ上がっていた。小早川軍一万五千が鬨の声を挙げて、三の丸に押し寄せた。田中軍も、前日に続いて水の手口から二の丸を激しく攻め立てた。一刻もせずに二の丸は落ちて炎上した。二の丸の守将河瀬織部はその場で自害したが、なぜか息子の左馬之助は逃げ足早くまた本丸に駆け込んだ。  三の丸も多勢に無勢で、赤松左兵衛はその中で勇戦して討ち死にした。守将山田上野之助は隼人が幼い石田八郎を背中に背負って抜け道に通じる林の中に消えた姿を見届けると、敵兵の中に再度入って行った。  本丸の天守閣に石田家の一族と土田東雲斎が集まった。しかし、あまりにも味方の数が少なく、敵はすぐにもここに駆け上がってくるように思えた。自害する暇もないほどであった。  東雲斎は天守の宝蔵を開けると、中に残されていた金銀、銭を惜しげもなく袖の櫓から下に向かって投げ出した。天守閣に攻め上ろうとしていた小早川と田中家の足軽、雑兵は鳥が餌に群がるように大騒ぎでその金銀、銭を拾い始めた。  石田正継は東雲斎の機知を誉めると、最後の後片付け頼むと頭を下げた。そして、石田家の一族はその場で思い思いに自刃した。石田正継、正澄、右近、宇田頼忠と三成の妻藤子、それに熊谷直盛の妻で長女の浜子と三成の妹で福原長堯の妻とよも一緒に生害していた。自害できぬ女、小姓たちは櫓から身を翻して深い谷に飛び降りて行った。  東雲斎は用意した枯草に火を点けた。すぐに煙は火勢となり、瞬く間に天守閣の広間は火に包まれた。焼かれる遺体に向かって手を合わせると、静かに階段を降りて下に向かった。そこに一人の武将が立ちすくんでいた。 「左馬之助か。まだ、死ねなかったのか」  河瀬左馬助が、刀を持ったまま呆然と仁王立ちしていた。 「われもそなたも、元々の譜代の臣ではない。死を同じうする事は何の益もない。菩提を弔うためにここから去る。左馬之助もついて参れ」  東雲斎の言葉に左馬之助は、命を惜しむ自分に愛想がつきながらも抵抗ができなかった。二人は煙に紛れて、天守閣城内の抜け道から佐和山城を抜け出した。  同じ日、関東勢に取り囲まれた大垣城では相良長毎、秋月種長、高橋元種、三人の守将が徳川家の寄せ手大将水野勝成に誼《よしみ》を通じた。三成の女婿である熊谷直盛と福原長堯は城内で誘殺されて、石田家の一門はことごとく命を絶っていた。  雨上がりの大谷川には薄茶色の水が渦巻いていた。野良着姿に田の畔で拾ったと思われる古びた小田笠《おだがさ》をかぶった男たちが、不自然な動きをしていた。関ヶ原から脱出した石田三成とその侍従侍であった。  この二日間、川水以外、乾し米を少し齧っただけで何も食していなかった。川原の杉並木の切れ目から、己高山《こだかみやま》の頂きが夕暮れの日に輝いていた。三成は下痢腹の痛さを忘れて、助かったと思った。この先の急坂を登った尾根の狭間には法華寺がある。そこには母の墓があった。  関ヶ原の戦場から離脱して地の理に詳しい家臣三人の手引きでここまで来られたことを、母の引導と素直に三成は感謝していた。 「この三成、そちらに渡す褒美は何もないことが心苦しいが、厚くそなたらの忠勤に礼を言う」  頭を下げる三成を見て、塩野清助、磯野平三郎、渡辺甚平の三人の徒士《かち》侍は、ただ地面に頭をすりつけるだけであった。 「昔、小坊主の頃よりこの周辺は勝手知った場所。これより法華寺に参って匿ってもらことにする」  幼少の頃より己高山の山頂にある観音寺に預けられて修行をしていただけに、地の利があった。 「清助、多分この辺の寺に島左近が養生していると思われる。探してきてくれ。それから平三郎、佐和山の城へ行き、父上にわしがここにいると伝えてきて欲しい」  口もきけないほどの瀕死の重傷を負った左近ではあったが、生きていて欲しいという一縷《いちる》の望みを三成は捨てることはできなかった。 「甚平は一足先に法華寺の三珠院に参り、しかるべく案内をさせよ」  三人は元気を取り戻した主君の姿を見ると、安心して三成を一人残して立ち去った。  己高山周辺には五箇寺が群在し、法華寺には百二宇の僧房、観音寺は百二十宇の僧房を数える大寺である。隠れるには好都合であった。三成は夜になってから、法華寺の塔頭《たっちゅう》である三珠院に疲れ切った体を忍び込ませた。  その日、大坂城周辺は混乱と焦燥の極にあった。上方勢がわずか半日で破れたことよりも、豊臣家連枝の小早川秀秋が寝返り、その上総大将である毛利家が戦わずに帰還したことは、大坂の町人たちに大きな失望を与えていた。続々と関ヶ原から戻った殺気だった将兵に城内は満ち溢れた。  大坂城西ノ丸の黒書院では、毛利輝元を囲んで毛利一門の評定が行われていた。その場の雰囲気は誰が見ても険悪で、一門同士の会議とはとても思えない状況であった。  毛利秀元が、太い二の腕を見せながら軍扇で畳を叩いた。吉川広家を大声で詰問していた。 「信じられぬ。われらに黙って家康に戦勝の使者を送るとは。それでは裏切りではないか、広家」  若い秀元は、叔父を広家と呼び捨てにするほど激昂していた。今しがた吉川広家から聞かされた話は、天地がひっくり変えるほどの衝撃を秀元に与えていた。戦わずに負けたことで死ぬほどの屈辱を感じていた秀元は、広家が最初から戦を見合わせて自分を騙していたことを知って激怒していた。  関ヶ原で負けたことを知り大津城攻めから戻った毛利元康は、その事情がよくわからずに、二人の喧嘩を見守っていた。 「我らに武運がなかっただけのこと。この様なこともあるかと存じ、徳川殿には毛利家の本領安堵を既に願ってある」 「これは、この福原広俊が無断で吉川殿にお頼みしたこと、責任はこの広俊にござります。不肖わが弟元頼を人質として、関ヶ原前夜に家康殿に差し出しております次第」  留守居役の広俊が、吉川広家に助け船を出した。秀元は老臣広俊の情けなさそうな皺顔を見て、話す力を失った。 「確かに事前にご一同に諮らずに、家康と通じたはわしの責任ではあるが、毛利家安堵の誓書はこのように二通も貰ってある」 「広家、その誓紙は間違いないか」  今まで沈黙していた輝元が口を開いた。 「はい、井伊直政と黒田長政よりの書状に、間違いなく内府の内意と記されております」  広家が後生大事に懐から書状を取り出して、輝元に手渡した。 [#ここから2字下げ] 御忠節相究め候わば内府直の墨付 毛利輝元殿へ取り候て進ずべく候事 付御分国の事申すに及ばず 只今の如く相違あるまじく候事 [#ここで字下げ終わり]  輝元は、井伊直政と本多平八郎の連署の誓紙を見て安心した。 「それでは早速、家康が心変わりをせぬ間に、確認の返書を送れ」  輝元はとうに、戦をすることを忘れていた。そこに、小姓が輝元に注進を伝えた。 「島津義弘と立花宗茂さま、お成りでござります」  毛利輝元が表情を変えた。関ヶ原の引き戦で、家康の本陣を中央突破してわずか数十人しか生き残らなかった勇猛な島津勢の激戦話を聞いたばかりであった。 「広家、どうする」  輝元は事態が自分の手の内を越えていることを知って、また優柔不断で臆病な男に変身していた。 「それがしがお話を承りましょう」  その昔、備中高松で信長公が暗殺されたことを知りながら、何も手を打てなかった輝元を広家はよく覚えていた。  白書院で待つ義弘は着物も薄汚れ、髭も剃らず髪の髻も直さず、何日も食していないようで、ただ眼光鋭く吉川広家を見詰めた。広家は、その厳しさに一瞬目を落とした。一方、立花宗茂は甲冑に陣羽織を軽く羽織り、その表情は泰然自若として、戦をしてきた人とは少しも見えなかった。 「総大将毛利輝元殿はどこにおられるか。一刻も無駄にできぬが」  島津義弘が問いを発した。 「この広家が毛利の軍監をあい勤めております。お話はそれがしが承ります」 「はてさて、お主が軍監か。南宮山で何をしておられた。昼飯を皆で食らうて、合戦見物でもしておられたのか」 「打ち出す頃合を逸したもので」  ようやっと小声で応えた広家は、義弘の侮辱の言葉にも抗弁できなかった。 「お主とこの立花家はまだ無傷でござる。この上は義弘殿を総大将にして、この城で一戦仕るのが本筋と思うが、いかがかな」  宗茂が当然のように話を切り出した。関ヶ原で負けたとはいえ、毛利軍を始めとしてまだ五万以上の兵が大坂城周辺には残っていた。太閤秀吉が造ったこの大坂城に島津義弘を総大将として籠れば十万以上の敵が押し寄せたとしてもびくともしないはずであった。籠城の間に機を見て家康と手打ちをすることが、義弘と宗茂の作戦であった。  広家の顔色が変わった。ここまできてどう理屈をつけようと、戦をすることは許されなかった。 「首謀者の石田三成、安国寺惠瓊が戻らぬ今、この戦を続ける理由はないと毛利家は考えております」  沈黙が三人の間に続いた。たしかに広家の言う様に、新たな戦を継続する大義が必要であった。多分、輝元はもう戦う気持ちはないのであろう。戦の采配は見えても、二人の武人に政治はできなかった。 「柳川殿、九州へ戻るとするか。まだ弁当を食べ終わっておらぬようだ」  義弘は、自分の息子のような宗茂を見て笑顔で諭した。島津家と立花家は天正時代七年間も、雌雄を決するために激闘に明け暮れた事があった。それ以来、義弘はこの戦って負けたことのない勇猛な柳川城主立花宗茂を敬服していた。しかしもはや二人だけが残って家康と闘うことは、武将としての夢でしかないように思えた。  二人は吉川広家を無視したまま白書院を後にした。  九月二十日、佐和山城落城を見届けた後、徳川家康は近江八幡、草津を通って敵も主もいない空の大津城に入城した。大津城は半壊し廃墟のような本丸からはまだ余煙が立ち昇っていた。  関ヶ原の敗戦を聞いて、毛利元康、立花宗茂、、筑紫広門、宗義智らの一万五千の軍勢は折角落とした大津城を捨てて、すでに大坂城に戻っていた。  静まりかえった琵琶湖を眺めながら、家康はまた親指を噛んでいた。いまだに、大坂方の主だった大将の行方が掴めなかったからである。石田三成は勿論、宇喜多秀家、小西行長らの消息は消えたままであった。もし皆うまく逃げ遂せて大坂城に籠城でもされたら、一大事であった。秀吉が一生かけて築いた大坂城は十万の兵でも落とせないことを、家康はよく知っていた。  その日になって軍監本多正信からの知らせで、中山道を上っていた後詰の徳川秀忠の先陣数千が美濃赤坂に到着したことを知った。もし関ヶ原が負け戦であれば、秀忠率いる三万の軍勢も上方勢に打ち破られていたに違いないと考えると、家康の背筋に冷や汗が流れた。  昼過ぎになって、少し安堵する知らせが届いた。小西行長を伊吹山中で捕らえたという、関ヶ原の領主竹中|重門《しげかど》からの嬉しい連絡であった。粕川谷の洞窟に潜んでいた行長を林蔵主《りんぞうす》なる坊主が発見して陣屋に知らせてきたので、捕縛したということであった。もともと小西行長は敬虔《けいけん》なキリシタン教徒だけに、追手が見えても自害はしなかった。  九月初めに大坂方から徳川方に寝返った重門《しげかど》は、複雑な心境でいた。父親の半兵衛が名もなかった木下藤吉郎を天下人に押し上げただけに、その死人の首を引っ張るような真似はしたくなかった。そのため関ヶ原でもできるだけ後方に布陣して、積極的な戦いはしなかった。戦をしなかった竹中重門の心魂を察して、家康は関ヶ原戦死者の首塚の造営を命じていた。  日が落ちる頃、京にいた天海僧正が斉藤角右衛門の案内で家康の大津の本陣を訪れた。家康は天海の法衣姿を見るなり、いままでの固い顔を崩して嬉しそうに童《わらべ》のような大声を挙げた。 「天海、喜べ、勝ったぞ」  九月一日に江戸を出てから、家康が初めて胸中を他人に吐露した瞬間であった。  天海も笑顔で、 「御戦勝、おめでとうございます」  しかし家康はすぐに、角右衛門の固い表情に気がついた。 「利光を死なせてしもうた。済まぬ」  家康からの思いもかけない慙愧の言葉に、角右衛門の心のわだかまりが消えていった。 「さて、これから大坂詰めを間違えてはなりませぬな」 「うむ、大坂に立て籠もらせぬように、輝元には甘言《あまごと》で釣って、まず城から追い出させようと思っている」 「それはよろしゅうござる。上方勢を城から出してしまえば、天下は殿の物」  最後の最後に、最も難しい問題が残った。それを解く鍵は毛利輝元の器量次第と、家康は感じていた。 「輝元は、殿と一戦する勇気はござりませぬでしょう」  天海は、家康の気持ちを読むかのように独り言を呟いた。しかし、石田三成や宇喜多秀家だけは大坂に戻してはならないと感じていた。扇動者がいなければ、過去の経験から、輝元が陣頭に立つ恐れはないと思われた。 「天海、よくわかるな。ここに輝元からの書状がある。読んでみよ」  家康が手渡した書状には、太字の楷書が並んでいた。 [#ここから2字下げ] 内府公御懇意忝く存知候 知行安堵御誓紙拝見安堵仕り候 [#ここで字下げ終わり]  日付は九月十八日、差出人は毛利輝元自身であった。 「殿、輝元を西ノ丸から追い出すまでは、兵はこの大津に止めておかれるが得策かと」 「わかっておる」  大坂城には秀頼がいる。秀頼に危害が及ぶと思えば、今度は小山評定のように、豊臣家から恩顧を受けた大名が簡単に家康の言うことを聞くとは思えなかった。 「殿、それがしに輝元を西ノ丸から追い出す秘策がござります。数日、ここで何も動かずに御待ち下されますか」  家康がその黒い丸い目を天海に向けた。 「できるか」  天海は黙ってうなずいた。  輝元に真意を悟られずに大坂城を退散させる至難さを知っていたのは、家康と天海の二人だけであった。  手燭の灯が、外から吹きこむ風に消えそうであった。八畳ほどの岩窟の中で、藁の上に莚を敷いた隠家に三成は潜んでいた。夜の帳が下りて周囲は暗闇に包まれていた。  三成は忍んだ法華寺の塔頭の三珠院で食事と身なりを整えてから、その晩すぐに住持の恵日《えにち》の勧めで三頭山に向かって出発した。三珠院では、人目を隠せなかったからである。三頭山の麓の清水谷に、隠れ家として格好の岩窟があることを恵日は知っていた。道をよく知る古橋村の星野与次郎が三成を案内した。与次郎は昔飢饉の折、三成がその年の年貢を猶予したことを恩に感じて、命の危険も省みずに三成の世話をかってでていた。  虫の音が急に止まった。三成は灯をすぐに消した。すると岩窟の入口が明るくなり、一人の百姓が入ってきた。 「与次郎か」 「三成さま、食事をお持ちしました。遅くなりましてすんません」  与次郎は一日一回であるが、この三日間、三成のために一里の道を食事を運んできてくれていた。 「済まぬな。里では何か知らせがあったか」  三成は、竹籠から出された握り飯にかぶりついた。岩窟に来てから、あのひどい腹痛は何時の間にか消えていた。 「へえ、甚平というお侍から、殿に知らせてくれと頼まれました。佐和山のお城がきのう焼け落ちて、殿のご一族は皆自害されたとか」  握り飯を持つ手が止まった。 「それに島さまも、関ヶ原の翌日にお亡くなりになっていたそうで」  三成は、覚悟していたとはいえ、改めて負け戦の悲哀を強く感じた。妻の藤子や女子どもはうまく自害できたか、心配であった。左近の死は、親族の死以上に三成の心に大きな空洞を創った。絶えようのない寂しさが三成の全身を覆った。 「村には誰かが来ているか」 「へえ、田中兵部とかいう手の者が落人を探しておりまするので、女房が怖がっておりやす。庇《かくま》えば一族獄門、打ち首と叫んでおりましてな」  田中吉政は近江湖西の安曇《あずみ》領主でもあり、当然、一番、土地感があった。いずれここも捜索されるだろうと三成は思った。 「もうよい、帰るがよい。明朝わしを迎えに来てくれ」  自分の去就を決めなければならないと感じた。これ以上、与次郎に迷惑はかけられなかった。自分の保身ために、百姓である与次郎を殺させる訳にはいかなかった。逆に与次郎をして訴えさせれば、一生食うだけの褒賞金を渡すことができる。  いつしか三成は大坂に入ることよりも、与次郎の誠意にいかにして報いるかを真剣に考えていた。与次郎の無心の好意は奇妙なことに、三成の持つ人生観のすべてを壊し始めていた。  与次郎は三成の真意を知るよしもなく、うなずくとその場を足早に立ち去った。前よりも深い闇が三成を包んだ。  自分の一生は秀吉殿に忠義を尽くすことであったが、その忠義ははたして与次郎と同じであり得ただろうか。豊臣家の為にと思ったことが、かえって今の負け戦につながっているのではないだろうか。  三成は人生で初めて、自分の行動を見詰め直していた。暗闇は、走馬灯のように子供の時の情景を映し出した。秀吉殿はまだいない、法華寺で観音経を無心に大声で音読している小坊主の石田佐吉であった。  しかし、その時と同じ邪心のない自分であったと今まで思っていたが、真実は豊臣家の為でなく、自分自身の利得をこの戦で得ようと内心考えていたのではないか。その心情が微妙に上方大名たちに伝わり、毛利家を筆頭にして関ヶ原の戦を戦わせなかったのではないだろうか。小早川秀秋も、豊臣の為でなく自分のために戦ったのであろう。  そこまで考えると、今一度、一途な思いを家康始め、各豊臣方の大名に吐露したくなっていた。三成の忠義は豊臣家に対して無垢《むく》であろうとしたことを、再度、表明したかった。田中吉政は自分を捕らえても、理由も聞かずに打ち首にするほど愚かな侍ではないだろう。そう思うと、急に安心できて藁を身にかぶった。  月が琵琶湖の波間に白い線の影を落としている。数人の侍に警護された一人の僧が、湖畔の漁師小屋の前に係留された小さな釣り舟に乗ろうとしていた。僧は、関ヶ原から逃げ戻った安国寺惠瓊であった。伊勢街道を撤退した惠瓊は途中から鈴鹿山中に入り、八日市に出て、安土から近江八幡にたどり着いていた。  惠瓊一行は近江八幡の浜から一気に琵琶湖を渡り切り、堅田か雄琴を目指していた。そこから比叡山に登り、背後の鞍馬山を抜けて上賀茂から京に入ろうとしていた。南禅寺住持として、京にはこの惠瓊を匿ってくれる寺社は多数有る。取り敢えず暫く京に潜んで、大坂城へ戻る算段を考えよう。  しかし、関ヶ原の戦は何度考えても納得がいかなかった。大坂城にいる毛利輝元ともう一度、直談判しなければ死んでも死にきれなかった。吉川広家が戦わなかったのは己の判断なのか、或は毛利輝元の指示であったのか。もし広家自身の意思であれば、すべて敗戦の落ち度は吉川広家にある。弾劾して、しかるべき措置を輝元に頼もう。惠瓊にとって、負け戦の屈辱を晴らす手段はそれしかなかった。  それに、関ヶ原の戦で戦国の荒くれ武者がかほどに命を惜しむとは思わなかった。もともと僧大名である安国寺家が先鋒として切り入ることはできなかったが、自分が毛利家を率いる立場なら躊躇なく前面の関東勢に討ち入っていたに違いなかった。戦は戦ってみなければわからない、頭でするものではないと惠瓊は悟っていたにも拘らず、現実は利害を考える武将が多かったことが誤算であった。  湖面の風は暖かであった。月が白く頭上に高くあった。雲は月光で白雲のように光っている。惠瓊はすべてが静寂で平和だと心から感じた。 [#ここから2字下げ] 清風《せいふう》名月を払い 名月清風を払う [#ここで字下げ終わり]  自然と頭に一句が浮かんだ。今宵の金波《きんぱ》の情景にふさわしい揮毫だ。もう戦を忘れて早く東福寺の退耕庵で筆を取りたいと、波に揺れながら惠瓊は思っていた。  朝靄の露が顔を濡らした。宇喜多秀家は、眠れぬ夜を伊吹の山中で過ごしたことにあらためて気がついた。命が助かったと思った瞬間から、激しい空腹感に囚《とらわ》れていた。 「殿、炭焼き小屋の煙が見えます。近くに農家があるようです。朝餉を食べさせてもらうよう話してまいりますので、暫くここで御待ちくだされ」  家臣の進藤三衛門の指差す先に、青白い煙が立ち昇っていた。馬を捨て、昨夜来、伊吹の山に入ってから何時の間にか供侍たちの姿が見えなくなっていた。三衛門以外の家臣は回りにはいなかった。 「そなただけか、侘《わび》しいの。我が家の一万七千の兵はどこに消えたのだ」 「いずれも、主だった者は大坂へ戻ったものと思われます。しばらくこの山中に身を隠されて、迎えを待たれるのが賢明かと」  この際、秀家はすべてを三衛門に任せようと思った。  暫くして三衛門が、炊き立ての握り飯と漬物、それに竹筒に味噌汁を入れて持ち帰ってきた。  しかし、三衛門の顔は浮かなかった。 「殿、申し訳ござりませぬ。佩刀《はいとう》の鵜飼《うかい》国次を、この朝飯の代わりに百姓に差し出しました」 「構わぬ。国次は家康が欲しがったておった差物ゆえ、くれてやれ。惜しくはないぞ」  秀家は食べることに熱中していた。明石全登の言う様に何としても大坂に帰って再戦せねばならないと、汁をすすりながら誓っていた。この次は三成や輝元に任さず、自分が采配を握ろうと思った。 「進藤、食べよ。大坂はまだ遠いぞ」  三衛門は思わず感極まって、頭を地面にすりつけた。悔しくて泣いていた。戦わなかった大勢の上方勢の侍を許せなかった。侍は理屈抜きに主人の為に戦って死ねばよい、それが厭なら侍を辞めろと、衷心から三衛門は憤っていた。  簡単な朝飯後、主従二人は北を目指して出発した。まだ、近くを佐和山城攻めの軍勢が通ると思われたからである。その日、一日中道なき山間を歩いて、夕刻北近江の名も知れぬ村にたどり着いた。三衛門はまた上手く農家の牛小屋を借りうけて、疲れきった秀家を案内した。 「殿、この百姓夫婦は運良く前田家の縁の者でござりました。豪姫さまの一統と申しましたところ、何も言わずにこの牛小屋を貸してくれました次第」 「豪に礼を言わねばならぬ」  秀家は妻の豪姫と母ふくを思い出した。今ごろ心配しているかと思うと、我が身が切られるように辛かった。 「殿、お辛いとは存じますが、それがしはこれより大坂の宇喜多邸に戻り家臣を連れて参りたいたいと存じます。それまで暫くの間、この場所にご逗留くだされ。百姓には金子《きんす》を払うまで、殿のお世話を固く約束させておりますので、ご心配はござりませぬ」  三衛門は武士に似合わず、大枚黄金二十枚を百姓に払うという約束で、秀家を牛小屋に匿うことを納得させていた。話の最後はやはり金子が入用だった。 「わしが人質というわけだな。まあよい。早く行ってまいれ」  豪胆な秀家は、一人残されることを少しも恐れなかった。生まれて以来、自分の運勢には絶対的な自信を持っていたからである。それは子供の頃から聞きなれた、ふくの口癖が移ったせいでもあった。   策 謀  傷の痛みで、井伊直政は毎晩よく寝られないでいた。いつも太股と肘が波打つように疼いていた。血の流れが傷跡を引っ掻いているかのように、痛みは消えなかった。しかし、その痛みを感じているほど暇ではなかった。今朝ほど田中吉政からの早馬で、石田三成を伊吹の古橋村で捕らえたという知らせが届いたからであった。  直政は三成捕縛を聞いた瞬間、やはりと思った。あの男は自害しない男と、信じていたからであった。夕方には三成を乗せた籠輿《かごこし》が大津に着くという。家康からは、自分に三成を預けるという沙汰が既に下りてきていた。  関ヶ原の戦の後、なぜか三成に好意を持ち始めていた。巷間、豊臣武将たちが言うような卑劣で鼻持ちならない侍ではないと思えてきたからであった。ひょっとすると両者の対立は、彼の器量を使いこなせなかった福島正則や加藤清正の力のなさではなかったのか。いずれにしろ、後数刻で三成に対面できる。ゆっくり彼の言い分を聞いてみたい、という願望に駆られた。  予定通り九月二十一日の夕刻、田中吉政自らが籠輿を先導して得意満面として大津の家康本陣に現れた。  三成は捕縛された時、腰にしていた太閤より拝領の兼真の短刀を同じ近江生まれである田中吉政に手渡して言った。 「兵部《ひょうぶ》、そなたにこの脇差をくれてやる。その方、信長公、太閤、関白秀次殿に仕えし恩義を忘れ、また近江人でありながら佐和山城を一番に討つとは、不忠の臣の究めである。いずれそちが家康に欺かれた時には、この脇差が役に立とう」  吉政は、三成から本心を見透かされて返す言葉がなかった。関ヶ原でこれといって功のなかった吉政が、恩賞狙いで佐和山城攻めをしたことは事実であった。しかし三成を捕らえたことで、何を言われても気にしなかった。後は三成をうまく家康に手渡すことができれば、十万石に匹敵する恩賞は間違いないはずであった。  井伊直政は家康と供に、三成を幽閉した近くの屋敷を訪れた。灯のない暗くなった八畳ほどの座敷に、粗末な帷子《かたびら》を着せられた三成が一人、悄然と座っていた。家康は、すぐに灯をつけよと供に命じた。 「石田殿、気分が悪いようだが、腹薬でも持参させようかな」  家康は奉行時代から三成がよく腹をこわすことを知って、優しく聞いた。 「できれば、雑炊に韮《にら》味噌を入れたものを所望いたす」  家康は無言でうなずいた。 「この度の大戦《おおいくさ》は御手柄で莫大《ばくだい》の御働きに成り、後世までも相残りましょう。ただ惜しむべくは関ヶ原の一戦はご無念と存じ仕る」  井伊直政が、率直に家康の気持ちを代弁した。三成の働きなくして、今日の日はあり得なかったからである。徳川家としては、三成に三顧《さんこ》の礼を尽くしてもおかしくなかった。 「某、若年より太閤の恩を蒙り、秀頼公の為に天下を取らせんと思うたのみにて、残念にもこたびの戦は関東方に御運があり、目出度《めでた》きかな」  三成も正直に、家康に祝勝の言葉を返した。  直政は見立ての通り、やはり三成が大将の器であることを知って安心した。それでこそ、徳川の天下も意味のあるものになるからである。傷の痛みも、今は心地良いものに変わっていた。 「直政、小袖を持たせよ」  家康は三成が誰よりも恥を知る人間であると見抜いて、小袖を用意させた。三成は軽く礼の会釈をしたまま、後は沈黙した。家康は三成を置いて、その場を静かに立ち去った。 「この井伊直政に何なりとお申し下され。殿より、無礼に成らぬよう命じられておりますゆえ」 「何もこれ以上申し上げることはござらぬ」  家康との対談以降、三成は別人のように口を閉じたままであった。  同じく大津の陣所で、石田三成の捕縛の報を聞いた黒田長政は感慨に浸っていた。あれだけの大仕事は三成でなくしてはできなかった。それに較べて自分の器量は小早川秀秋の寝返りや吉川広家の調略に血眼になるだけで、天下を統《す》べる力はとてもなかった。そう思うと今は素直に、敵将であった三成に敬服の念を抱いていた。  長政は小姓を呼ぶと、着ていた羽織を脱いで手渡した。 「これを治部少輔のところに届けよ。夜分はもう冷えるゆえとな」  三成が井伊直政預けになっていることを聞いていた。直政ならばそれほど過酷な仕打ちはしないと、長政は何か安心していた。  その晩、九州の黒田如水からの早飛脚の書状が届いた。 [#ここから2字下げ] 昨十三日石垣原にて大友|義統《よしずみ》軍勢打ち破り本日義統剃髪して我が軍門に降る 明日より国東安岐城と富来城攻め落とす所存 十月中に九州の敵平らげし後は中国に押し渡り 毛利家領国を退治せんものなり 家康殿には心易くあられよと申し伝え候 [#ここで字下げ終わり]  日付は九月十六日と記されていた。  長政は書状を呆然と見詰めていた。父はこの戦を機に、九州のみならず中国の毛利までも切り取られる所存なのか。親の心、子知らずとはこのことを言うのか、と自分の無欲を恥じた。しかし、状況は如水の予想を越えて急進展している。とても、来月までこの戦が続くとは思えなかった。今まで一日も早く大坂城の毛利勢との手打ちを進めようと思っていたが、如水の大望を知って、しばらく様子を見た方が父の意向にもそえるのかと躊躇し始めた。  天海は、京の宿舎にしている吉田山の吉田兼見の自宅にいた。関ヶ原の戦が終ったとはいえ、まだ大坂城で一戦あるかと京の町も騒然としていた。兼見を通じて、龍山に面会を申し込んでいた。  龍山は天海が京にいると知ると、また勝手に吉田山に一人で乗りこんできた。六十五歳になった龍山にとって、肝胆相照らす天海の存在は形式や時を超えていた。 「天海、戦も終ったことだし、京にずっとおれや」 「有難き仰せながら、いま一つ大事なことがし残っております」 「細川幽斎のことか、まもなく宮津に戻ろう」 「いえ、大坂城にいる毛利輝元のことでござります。豊臣奉行らの戦が終ったこと故、一日も早く天下静謐|《せいひつ》のため家康殿には西ノ丸にお戻り頂けねばなりませぬ」 「なるほど、輝元を大坂城から追い出すわけだな」 「いかにも。しかも穏やかに輝元を納得させねば。家中の者が騒いでは、今度は本当の天下分け目の大戦になりかねませぬ」  龍山は、天海の言葉を噛むように一言一句漏らさず聞いていた。今まで気がつかなかったが、もし誰かが事を起こそうと大坂城に籠れば、秀頼が今度は矢面に立つことになる。それでは、完全な豊臣と徳川の戦になる。天海は、そうなってからは遅いということを知らせようとしていた。 「まろは、どうすればよい」  すべてを把握した龍山が、天海に唐突に問い掛けた。 「恐れながら、朝廷より豊臣家はこたびの戦で埒外《らちがい》に立つという勅命を、今一度、毛利輝元にお出し頂けぬでしょうか」 「あいわかった。あれは丹後の幽斎を取り巻く将兵に向けたもの。大坂城にいる毛利に出すことも同じこと」 「有難き仕合せ。これで安心して龍山殿と茶を飲めまする」 「そうや、茶会でもどこかでやろう。それはええ」  天海は、先月出された天下無事の義の勅命を再度、豊臣家にも徳川家にも確認させることによって、これ以上の無益な戦を止めさせることができると踏んでいた。一方龍山はすでに天海と茶事を催す算段に気を取られていた。  翌日の九月二十二日、龍山は勅使として田辺城に出向いた中院通兼と毛利家と長年の懇意である大納言勧修寺晴豊の二人を、早くも大坂城の毛利輝元の許に向けて出立させていた。  毛利輝元は勅使として勧修寺晴豊が来阪するという前触《まえぶれ》を聞いて、大きな身体を震わせた。  晴豊の父|尹豊《ただとよ》は祖父毛利元就と親しく、永禄十年には天皇の即位費用として当時、二千貫もの大金を献上させる仲であった。尊皇家を自負する毛利家として、勅使の言葉は絶対であった。それに若き日に信長追討の院宣が内々発せられているとは露知らず、秀吉を備中高松で取り逃がした不手際は、いまでも輝元の心の中に深く刻み込まれていた。  天下無事の義の綸旨を待つまでもなく、輝元は豊臣家筆頭大老の徳川家康に即刻、大坂城西ノ丸を明渡す旨の起証文を大津の井伊直政、本多平八郎、それにご丁寧にも黒田長政の三人宛てに急送した。輝元には、直接、家康に起証文を送るほどの勇気はなかった。毛利家との友誼《ゆうぎ》を通ずるという家康からの誓紙を、今回一方的に破った負い目が消せなかったからである。  輝元からの起証文を受け取った家康は、案の定また腹を立てた。直接、起証文を自分に送ってこない輝元を信じられないことと、戦が終ってもまだ豊臣家大老徳川家康などと書いている、先の読めない暗愚な人間に幻滅したからであった。  翌二十三日、家康は福島正則、池田輝政、浅野幸長、黒田長政、藤堂高虎らかっての豊臣家恩顧の有力大名五人を呼びつけた。 「そなたら、これより大坂城に赴き、西ノ丸の接収を命じる。毛利輝元には、薩摩征伐の先鋒に立てと申し渡せ」  家康の表情は、今まで見たことのない天下人の顔であった。命じられた五人は、豊臣家が音を立てて崩れていくことを感じていた。頭を下げた正則も、何かを間違えたということに気がついた。しかし、抵抗する力はなぜか消えていた。  その日、京の三条川原で安国寺惠瓊が捕縛され、大津の陣所にすでに送られてきていた。関ヶ原の戦の主犯格である石田三成、小西行長、安国寺惠瓊が捕まったことで、大坂城で再戦する噂はいつしか消えていた。  黒田長政も、家康の前で気後れしていた。吉川広家からの西ノ丸明渡しの条件が、毛利家の知行安堵であることを言いそびれていた。家康の意思を確認できなかった長政は仕方なく独断で所領安堵の起証文を再度広家に送り、西ノ丸の明渡しを要求した。  二十四日、輝元は西ノ丸の大広間で吉川広家と福原広俊を呼び、勧修寺晴豊から受けた天下無事の勅命と西ノ丸明け渡しの返答に関して真剣な談合をおこなっていた。 「広家、黒田長政からは知行安堵の起証文を送ってきておるが、まだ内府|直々《じきじき》の墨付けがきておらぬ。井伊直政に直接掛け合ってくれぬか」  大坂城の目の前には、福島正則を先頭とする五万の兵の旗指物がすでに林立していた。しかし、井伊直政が約束した家康直筆の誓書はまだ届いていなかった。 「しかし、ここは取り敢えず西ノ丸から殿が出られれば、家康殿も殿の誠意に報いるものと考えるのが妥当かと」  吉川広家は、関ヶ原の貢献を家康が評価しているはずと、頭から疑わなかった。毛利輝元は内心、不安に思いながらも、それ以上、自説を主張しなかった。  翌二十五日、輝元は二ヶ月に渡る仮の住処《すみか》から自兵三万を連れて、大坂城を粛々と退散した。家康の墨付けがないことを気にしてはいたが、まさかそれが一生一代の大不覚になるとは思いもよらないでいた。輝元は、秀頼にも淀殿にも別れの挨拶をしなかった。伏見城攻め以来、一度もお召しがない主君に義理を果たす必要はないと感じていたからである。  家康は、輝元が大坂城を離れたのを見届けてから、悠々と懐かしい大坂城西ノ丸に九月二十七日、入城した。ここに、三ヶ月に渡った天下分け目の大戦は実質的に終焉《しゅうえん》した。  穏やかな初冬の日、天海と斉藤角右衛門は中山道を下っていた。懐かしい伊吹山が見えていた。関ヶ原の葦の葉は、何事もなかったように静かに風に揺れていた。 「きれいでござりますな。伊吹の山は」 「まもなく雪が降って白くなる。一段と見栄えがしよう」 「今日、六条川原で三人の処刑がおこなわれると聞きました」 「そうか、早く発ってよかった」  敵とは言え、石田三成、小西行長、安国寺惠瓊の三人が処刑される場所にはいたくなかった。特に、旧友とも言える老いた惠瓊の無残な姿は見たくなかった。関ヶ原の敗戦後、大坂城に伺候していた石田三成の長男重家十三歳が京の妙心寺に隠れたことを知って、内々、家康に助命の許可をもらっていた。もうこれ以上、無駄な血を流すことは耐えられななかったからであった。 「角右衛門、人生は色々なことがあるものだな。人間の業は何時に成っても消えぬものだ。関ヶ原が終っても、またこの因果は続いていこう」 「そうでございましょうか。これで家康殿の天下になれば、戦国の時代も終ると思いますが」 「そうかな。わしにはそう思えぬ、まあよい」  天海は、これから数多くの上方大名への過酷な取り潰しが始まることを予測していた。徳川に味方した客将たちも、大なり小なり領国の移封は避けられないはずであった。自分の生きている間に天下が太平になるとは、とても思えなかった。 「そなたの妹のお福は息災かな」 「今は小早川家稲葉正成の妻として、一児の子をもうけております」  天海にとって、今は少ない身寄りの消息だけが気になっていた。斎藤利光をこの戦で死なせただけに、残った角右衛門の行く末を心底、心配していた。 「桔梗の花はもう見えぬな。来年が待ち遠しい」  天海は独り言のように呟いた。娘玉子を失った悲しみが、急に胸に込み上げてきたからであった。わずかの差で、今生で会えなかった悔恨の思いは消えていなかった。  名も知れぬ道端の野草の花を引き抜いた。その黄色い花を袂に入れると、一人残された明智光秀は今日限り死んだと、はっきりと胸の中に思うことができた。  もう二度と上方に戻ることはないと伊吹山の勇姿を目に刻みつけた天海は、駕籠の中に消えた。すべては遠く永い夢でしかなかった。  <完>  あとがき  関ヶ原の戦後、徳川家康は敵方大名の所領六百三十二万石を没収した。改易八十八家、減封五家の九十三家であった。毛利家は中国九ケ国、百二十万石から長門、周防の二カ国三十六万九千石の外様大名に移封された。吉川広家は毛利家内で岩国の傍流の末家に格付けされ、藩主としての待遇を受けられなくなった。唯一、島津家だけは改易を逃れ所領安堵となった。  上方勢の大将宇喜多秀家は薩摩に潜伏後、慶長十一年、八丈島へ流罪になった。その島で休福と号し五十年間、望郷の思いを抱きながら、八十四歳で悲憤の一生を終えた。  小早川秀秋は備前、美作《みまさか》五十一万石の領主となったが、関ヶ原の二年後、二十一歳で岡山城で狂死した。近江佐和山城の城主となった井伊直政は関ヶ原の戦傷がもとで、同じく二年後の慶長七年、四十二歳で鬼籍に入った。城を落ちた石田三成の八男八郎は備中笠岡で庄屋となり、子孫は現在まで続いている。  関ヶ原を戦った武将の内、黒田長政は豊前中津十八万石から筑前福岡五十二万石の大守になった。福島正則も、清洲二十四万石から安芸広島四十九万石に大幅に加増された。妻を失った細川忠興は、丹後十二万石から豊前中津三十九万石の大名へと出世した。  十四年後の大坂冬の陣で再度、豊臣方で起ったのが、長宗我部盛親と元宇喜多家の重臣明石全登、黒田家の後藤又兵衛らであった。毛利輝元は夏の陣に遅参し、大坂へ着いたのは豊臣秀頼が自害した後であったという。  光秀の知己であった吉田兼見は五年後の慶長十年、七十五歳で死去する。近衛前久も慶長十七年、奇しくも同じ寿命を全うする。稲葉正成の妻お福は関ヶ原から四年後、天海の推薦で徳川秀忠の嫡男竹千代の乳母に登用される。竹千代は後に三代将軍家光となる。  南光坊天海は元和《げんな》二年、七十五歳になった家康を看取った後、天文五年、百八歳で没したという。  平成十一年十一月十五日 著者について  茶屋二郎《ちゃやじろう》  昭和二〇年金沢市生まれ。  自動書記作家を自認し、歴史的事実を思いのまま記述し再現する能力を創作のバネとして活用している。 実業の世界では、株式会社バンダイ名誉会長、社団法人日本玩具協会会長、デジタルメディア協会理事長など数々の仕事をもつ。  主な著書  『目覚めた人』(扶桑社)  『異言の秘密』(扶桑社)  『日本書紀は独立宣言書だった』(角川書店) 遠く永い夢 下巻 二〇〇〇年七月二十五日発行